(今日の写真は、「『岩木山』津軽国定公園 岩木山 ものしりマップ」の表紙に使われた写真である。
これまで、ミチノクコザクラのことはこのブログでも何回か書いている。だが、この写真を説明するには、咲く時季のことに触れねばならない。
「ミチノクコザクラ」の開花は6月中旬頃とされて、そのような理解で長いことやってきた。だが、ミチノクコザクラの開花は「雪解け」に左右される。雪渓や雪田の傍に咲くものは、それらが消えない限り咲くことは出来ないのである。
岩木山で一番早く咲き出すものは、雪の殆ど積もらない「風衝地」のものである。これらは、5月の上旬から咲き出す。百沢登山道の頂上近くも一応「風衝地」と呼んでもいいが、あそこは「登山客」の踏みつけや抜き取りによって「ミチノクコザクラ」はすでになくなってしまっている。
その後、順次積雪の消える「種蒔苗代」の周囲や「大沢」の上部から下部の両岸に咲き出す。それ以外の場所で「ミチノクコザクラ」に出会いたいと考える人は、とにかく、遅くまで残っている「雪渓」を探して、そこに行くと8月上旬までは「ミチノクコザクラ」に出会える。
今年は積雪量が極端に少ない。6月に入ってから好天が続いている。雪解けが早いから、例年8月上旬に「咲く場所」のものも、もっと早くなるに違いない。)
◇◇「岩木山」津軽国定公園 岩木山 ものしりマップ(2) ◇◇
(承前)… 一番大きな赤倉火口は長径600mの馬蹄形、深さは100mもあります。それらは開析谷を形成し、12の大きな沢を発達させ谷頭を絶壁としながら、日本海に、あるものは岩木川や中村川等に注いでいます。
鳥の海噴火口跡や溶岩ドームは約3000年前のもので、山頂部がその中央火口丘です。山麓には百沢、三本柳、岳と温泉地があります。
このような開析谷の発達によって、岩木山には貧弱な高層湿原が北面に一か所しかありません。高層湿原のないことが八甲田山との大きな違いで、これによって植物相にも違いがあります。
岩木山は、火山本体が成長するにつれてその山腹に噴出した寄生火山を多く持っています。地図で「…森、または…森山」と称されているものです。この寄生火山の列の配置により、見事な円錐形のはずの津軽富士・岩木山も実は歪んだ円錐形なのです。
寄生火山の多くが岩木山の西側に偏在していることよって東南の方角からの岩木山はコニーデ型の秀麗さを見せるのです。
(この項で使われている写真は「松代」地区から写した岩木山である。)
2 岩木山の気象
本州北端の独立峰という特殊性から、厳冬期は山頂部で体感温度は氷点下40度以下、風速も50mを超えるなど気象条件は極めて厳しいものです。このため、厳冬期の登山では「凍傷」になることを覚悟しなければいけません。また、積雪も谷筋では15m以上となります。雪消えの遅い年は9月の上旬まで残雪があります。
もし、岩木山があと標高300m高ければきっと「万年雪のある山」となっていたでしょう。
(この項で使われている写真は、厳冬期の岩木山「鳥ノ海噴火口岩稜」)
3 岩木山という「山名」の由来
「岩木」の謂われには諸説がありますが、その山容から「天然または人工の石の城」という意味を持つ岩城山という文字に「岩木」をあてて、江戸時代頃から使われていたらしく、これが一般的でしょう。また、岩の多い所を「イワーケ」、神のすむ所を「カムイ」というアイヌ語から「カムイ・イワキ」と呼ばれていたものが「イワキ」になったとするアイヌ語説を採る者もありますが、いずれも定かではないようです。
4 岩木山の伝統的な山岳信仰
岩木山はその端麗な山容、神霊の寄りつくもの、繁茂する樹木、噴火などすべてが神性を兼備した特別な山です。その昔、岩木山信仰の発祥地は、北麓の十腰内にある巖鬼山神社でした。下居宮と呼ばれる遥拝所から登る人たちがよく遭難するので、後にこれが百沢の岩木山神社に移され、そこが遥拝登山の中心となったといわれています。山頂奥宮は宝亀十一年(780)に建立されたと記されています。
岩木山の三峰は、人型座像となっているため、祖先の姿とみられ、祖霊の帰り着く神人交流の聖地(おいゆきやま「居往来山」)となったとされています。しかも、岩木山は天に接する最高位にあるので、そこに宿った神霊が津軽全土を見下ろして、安らかに治める信仰へと発展していったのです。古代の中国思想は天、地、人の「三」を万物の象徴とし、繁栄と調和を図る聖数とみます。この観念によって岩木山の鳥海山・岩木山・巌鬼(赤倉)山三山が三所大権現「薬師如来-弥陀如来-観世音」とみなされたのでした。
岩木山神社は神として国常立命(くにとこたちのみこと)や顕国魂神(うつしくにたまのかみ)他四神を祀っており、その神事は南麓百沢の岩木山神社が司っています。お山参詣の時に奥宮に祀られるのが顕国魂神です。津軽地方の「表」の信仰として、百澤寺(岩木山神社)が、代々の支配者による崇敬、公的鎮守を司ってきました。
また北東麓には坂上田村麿の蝦夷征伐に因んだ赤倉神社があります。つい先年まで山伏が修行していましたが、赤倉大権現を祀っているものです。赤倉沢は神域で沢をまたいで大きなしめ縄が今でも張られています。こちらは津軽地方の「裏」の信仰として赤倉神社が個人救済(蝦夷征伐に因んだ坂上田村麿を祀る)を司ってきました。
他に岩木山には、土着性の巨石(大岩)信仰があります。代表的なものとして大石神社と長平登山道沿いにある「石神様」ですが、登山道沿いに見られる「姥石や伯母石」などもその巨石信仰の現れです。
巨石は磐座(いわくら)と呼ばれ信仰の対象であり、日本人の巨石信仰を考えると、「天の磐船」は古代の人々にとって天から神様の降臨される乗り物であり、その磐船のある場所は神様の降臨される聖域であったのです。岩木山北東麓にある大石神社は、その名が示すようにご神体が大きな岩です。神が宿る巨石崇拝であることは疑いがありません。
(この項で使われている写真は、岩木山神社本殿、「石神様」のご神体である大岩、赤倉沢上流の大しめ縄) …明日に続く…
これまで、ミチノクコザクラのことはこのブログでも何回か書いている。だが、この写真を説明するには、咲く時季のことに触れねばならない。
「ミチノクコザクラ」の開花は6月中旬頃とされて、そのような理解で長いことやってきた。だが、ミチノクコザクラの開花は「雪解け」に左右される。雪渓や雪田の傍に咲くものは、それらが消えない限り咲くことは出来ないのである。
岩木山で一番早く咲き出すものは、雪の殆ど積もらない「風衝地」のものである。これらは、5月の上旬から咲き出す。百沢登山道の頂上近くも一応「風衝地」と呼んでもいいが、あそこは「登山客」の踏みつけや抜き取りによって「ミチノクコザクラ」はすでになくなってしまっている。
その後、順次積雪の消える「種蒔苗代」の周囲や「大沢」の上部から下部の両岸に咲き出す。それ以外の場所で「ミチノクコザクラ」に出会いたいと考える人は、とにかく、遅くまで残っている「雪渓」を探して、そこに行くと8月上旬までは「ミチノクコザクラ」に出会える。
今年は積雪量が極端に少ない。6月に入ってから好天が続いている。雪解けが早いから、例年8月上旬に「咲く場所」のものも、もっと早くなるに違いない。)
◇◇「岩木山」津軽国定公園 岩木山 ものしりマップ(2) ◇◇
(承前)… 一番大きな赤倉火口は長径600mの馬蹄形、深さは100mもあります。それらは開析谷を形成し、12の大きな沢を発達させ谷頭を絶壁としながら、日本海に、あるものは岩木川や中村川等に注いでいます。
鳥の海噴火口跡や溶岩ドームは約3000年前のもので、山頂部がその中央火口丘です。山麓には百沢、三本柳、岳と温泉地があります。
このような開析谷の発達によって、岩木山には貧弱な高層湿原が北面に一か所しかありません。高層湿原のないことが八甲田山との大きな違いで、これによって植物相にも違いがあります。
岩木山は、火山本体が成長するにつれてその山腹に噴出した寄生火山を多く持っています。地図で「…森、または…森山」と称されているものです。この寄生火山の列の配置により、見事な円錐形のはずの津軽富士・岩木山も実は歪んだ円錐形なのです。
寄生火山の多くが岩木山の西側に偏在していることよって東南の方角からの岩木山はコニーデ型の秀麗さを見せるのです。
(この項で使われている写真は「松代」地区から写した岩木山である。)
2 岩木山の気象
本州北端の独立峰という特殊性から、厳冬期は山頂部で体感温度は氷点下40度以下、風速も50mを超えるなど気象条件は極めて厳しいものです。このため、厳冬期の登山では「凍傷」になることを覚悟しなければいけません。また、積雪も谷筋では15m以上となります。雪消えの遅い年は9月の上旬まで残雪があります。
もし、岩木山があと標高300m高ければきっと「万年雪のある山」となっていたでしょう。
(この項で使われている写真は、厳冬期の岩木山「鳥ノ海噴火口岩稜」)
3 岩木山という「山名」の由来
「岩木」の謂われには諸説がありますが、その山容から「天然または人工の石の城」という意味を持つ岩城山という文字に「岩木」をあてて、江戸時代頃から使われていたらしく、これが一般的でしょう。また、岩の多い所を「イワーケ」、神のすむ所を「カムイ」というアイヌ語から「カムイ・イワキ」と呼ばれていたものが「イワキ」になったとするアイヌ語説を採る者もありますが、いずれも定かではないようです。
4 岩木山の伝統的な山岳信仰
岩木山はその端麗な山容、神霊の寄りつくもの、繁茂する樹木、噴火などすべてが神性を兼備した特別な山です。その昔、岩木山信仰の発祥地は、北麓の十腰内にある巖鬼山神社でした。下居宮と呼ばれる遥拝所から登る人たちがよく遭難するので、後にこれが百沢の岩木山神社に移され、そこが遥拝登山の中心となったといわれています。山頂奥宮は宝亀十一年(780)に建立されたと記されています。
岩木山の三峰は、人型座像となっているため、祖先の姿とみられ、祖霊の帰り着く神人交流の聖地(おいゆきやま「居往来山」)となったとされています。しかも、岩木山は天に接する最高位にあるので、そこに宿った神霊が津軽全土を見下ろして、安らかに治める信仰へと発展していったのです。古代の中国思想は天、地、人の「三」を万物の象徴とし、繁栄と調和を図る聖数とみます。この観念によって岩木山の鳥海山・岩木山・巌鬼(赤倉)山三山が三所大権現「薬師如来-弥陀如来-観世音」とみなされたのでした。
岩木山神社は神として国常立命(くにとこたちのみこと)や顕国魂神(うつしくにたまのかみ)他四神を祀っており、その神事は南麓百沢の岩木山神社が司っています。お山参詣の時に奥宮に祀られるのが顕国魂神です。津軽地方の「表」の信仰として、百澤寺(岩木山神社)が、代々の支配者による崇敬、公的鎮守を司ってきました。
また北東麓には坂上田村麿の蝦夷征伐に因んだ赤倉神社があります。つい先年まで山伏が修行していましたが、赤倉大権現を祀っているものです。赤倉沢は神域で沢をまたいで大きなしめ縄が今でも張られています。こちらは津軽地方の「裏」の信仰として赤倉神社が個人救済(蝦夷征伐に因んだ坂上田村麿を祀る)を司ってきました。
他に岩木山には、土着性の巨石(大岩)信仰があります。代表的なものとして大石神社と長平登山道沿いにある「石神様」ですが、登山道沿いに見られる「姥石や伯母石」などもその巨石信仰の現れです。
巨石は磐座(いわくら)と呼ばれ信仰の対象であり、日本人の巨石信仰を考えると、「天の磐船」は古代の人々にとって天から神様の降臨される乗り物であり、その磐船のある場所は神様の降臨される聖域であったのです。岩木山北東麓にある大石神社は、その名が示すようにご神体が大きな岩です。神が宿る巨石崇拝であることは疑いがありません。
(この項で使われている写真は、岩木山神社本殿、「石神様」のご神体である大岩、赤倉沢上流の大しめ縄) …明日に続く…