岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

危険を感知できない生物…「人間」・森林、それはミニ地球である…(8)

2007-08-14 06:31:01 | Weblog
 (承前)
  ☆20世紀とはどのような時代であったか…そして現今の21世紀とは

 それは戦争による人の殺戮と科学の発展の時代であった。さらに、開発の時代(食糧とエネルギー)でもあった。そして、それらは「大量生産」「大量消費」「大量廃棄」「核のゴミ」を生み出した。
「飽くなきスケールメリット」の典型は「開発」である。とりわけ20世紀の後半50年間にこの「開発」は集中した。
 経済の競争原理はスケールメリット(規模の経済性)を追求するが、これが行き着くところには確固たる未来はない。
「飽くなきスケールメリット」の典型は「開発」である。「開発」は「自然破壊」と同義であるということだ。
 未来を考えるならば、企業や個人の責任に関わる自主規制や願望を抑制する節度的な倫理が求められることは必至である。

 「内山 節」が『自然と人間が共生するには循環的な時間世界の中で変化を望まずに生きている自然の時空を壊さないでおくことのできる社会を私たちが作り出すしかないのである。』(「森に通う道」)と言うように現状維持を犠牲にする倫理の一つが「自然との共存・共生」であるはずだ。
自然は途絶えることのないくり返される時間の中で生き、生存条件の変化を求めない。
 また、自然の価値は抽象化出来ないものだ。
個別の価値が横並びで存在していて、別の価値での決済は不可能だ。つまり、「金銭による決済」は出来ないということだ。「自然を破壊して補償金を払う・受け取る」という構図は「個別の価値が横並びで存在している」という自然界には通用しない。「原子力発電所」を造る。企業や国・自治体は補償金を支払う。「東通」にしろ大間にしろ、六ヶ所にしろ、住民はその補償金に飛びつき、「値段」をつり上げようと画策する。そこには「自然」への視点はない。未来世代に残していかねばならない自然的な漁場などを、現在世代の「金銭的な価値」を優先させて永遠に「手放し」てしまったのである。
 J・S・ミルが言う「個人は、他人の迷惑になってはならない」や「人に迷惑をかけないかぎりという条件」がつく「自由」から逸脱した「勝手気まま」な行為に他ならない。海に境界線や仕切りはない。「原発」からの「排水」は7つの海に「汚染」を運ぶ。
 自然界ではあらゆる個性が同等の価値を持つのである。
 そして、それらは決して、貨幣や経済効率的な価値に換算できるものではない。
 だが、飽くなき「スケールメリット」(規模の経済性、つまり、広げ拡張することでの現実的な利益追求)は、それを求め「開発」を進行させる。
 開発は同時に「自然」を破壊し、その自然は修復不可能であるという意味から「負の遺産」とも言える。
 環境省が「環境白書」で「規模の経済性の追求だけでなく…」と指導しても、所詮、政府・自民党の傘の下だ。開発業者や企業と握手をしている首長にその指導は届かない。
 
 過去を棄て、さらに未来をも展望出来ない現在は空しい夢に過ぎない。
元に戻らないもの、返せないものを奪ってはいけない。世代間倫理が重要視されるのが21世紀である。森林伐採は未来世代に対する現在世代が残す負の遺産である。 科学の進歩は未来を明るくするとされてきたが…、
 見田宗介は「科学技術が見落としているものは「共存する全体性へのバランスの感覚」である。」(気流の鳴る音)と言う。
 確かに現在世代は化石燃料ですら、科学によって未来世代の生存と享受するべきところまでを食い尽くしている。自分の子孫にツケを残したいと誰が考えるだろう。そのツケは、他の人の子孫をも巻き込んでしまうのだ。これは未来に対する未必の故意、つまり「被害者としての原告が今いない」だけという立派な『犯罪』なのである。
今が、現在が、科学を発展させると、未来は常に「バラ色」であると言われてきた。環境を征服することに、人類の偉大さを感じてきたのが機械文明である。だが果たしてそうだったろうか。
 過去を棄て、さらに未来をも展望出来ない現在は空しい夢に過ぎない。
 このままだと、自分たちの身を食いあう「開発」の20世紀を引きずりながら、生きて破滅に向かう。怖いのは「自然破壊」のつけは、負の遺産であり運命共同体であるということだ。私だけは助かるという勝手は決して許されない。

 津軽富士・岩木山に委ねられた敬虔で素朴な信仰と信仰心からくる歴史的な登山形態は、自然を利用・支配してやまない主義によって、ゆがめられすっかり希薄になっている。岩木山の歴史的な個性も伝統も剥奪された。
 自然に対する畏敬の念の減退や自動車道路利用という安易・安直な登山はますます岩木山を無顔貌なものにしていくだろう。頂上に立つ人は今や岩木山そのものを見ていない。
 だが、今世紀は「人間中心の時代」から「自然や未来世代と共存・共生する時代」なのである。「公平」、「公正」、「平等」をないがしろにして、個性を歪(ゆが)め、異質を排除することが許される時代ではない。
                              (この稿続く。)

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