(今日の写真は、わたしが単独行でつけた「ラッセル」跡である。これは登って行って降りてきた時のものだ。だから、二度踏まれているので「乱暴なブルドーザーの除雪」よりも「綺麗なトレース」になっている。
「ふくらはぎ」の筋肉に負担かけないようにと「つけた踏み跡」を丹念に辿り、降りてくる時には、丁寧に踏み跡に、靴とワカンを重ねるようにしたものだから、一層しっかりとして堅い踏み跡になっている。
このように、単独だが同じ踏み跡を二度辿っているわけだから「複数名」でつくったような「踏み跡」は、その後降雪がなければ、負荷が殆どなく夏山と同じ感覚で登れるだろう。
冬の剣岳に「登った(?)人」が話していた。このような会話の中でのことだ。…
「剣に行ってきました」
「大変だったでしょう」
「……」
「どうしたんですか」
「う~ん、登ったといえば登った、登らなかったといえば…登らなかったような…」
「登ったのでしょう。頑張りましたね。念願を果たしたわけですからよかったじゃない ですか」
「……それが、あまりよくなかったのです」
「なぜですか」
「実は、ほぼ山頂まで踏み跡がついていて、しかも立派な踏み跡ですよ」
「それはまたどうしてですか」
「多くのパーティーが登るものですから、後続するものは必然的に、その踏み跡を辿る ことになるのです。私が登った時は、夏道より登りやすい『道』になっていました。季 節は冬ですが、ルートは夏でした」
「それは残念でしたね」
「残念というよりも悔しいです。冬の岩木山に登るよりも10倍楽でしたから。あほくさい話しですね」
「有名な山というのはそんなものなんですかね」
…1988年に7000m峰に行った。その時のメンバーに国内の有名な山に冬季かなり登ったという男がいた。ところが、実際、3000mを越える「雪のある場所」から上での行動が、実にちぐはぐだった。雪に馴れていないのである。結局、雪原では1回も彼は「ラッセル」をしなかったのである。出来なかったいうべきかも知れない。
いくら、「有名な山」に冬季に登ったといっても、他人がつけた「踏み跡」を辿って登っているのであれば、「雪山」を知ることにはならない。
ましてや、自分で登るのではなく、「踏み跡」に登らされているのであり、隙間なく続いている「標識」に、ただ従っているに過ぎない。これだと「自分を鍛える」ことも出来ないし、山と関わり、山を学習することも出来ない。とにかく、「自助努力」という世界ではない。
ただ、他人「多人」の後ろに就いていくだけの者にも、このことは言える。12月29日に私の踏み跡を辿ったパーティーは何処まで行ったやら…。)
◇◇ 相棒との寄生火山めぐり…に思うこと ◇◇
(承前)
…とにかく、無理なことをしたのだ。計画していた「所要時間」も大幅に越えてしまった。計画では、遅くとも「昼過ぎには駐車場所には戻る」としていた。だが、実際は15時30分頃だった。3時間近く遅くなったのである。
だが、おかしいことに、行動を「昼過ぎまで」としながらも、2人はちゃんと「昼食」を用意していた。「おかしい」と書いたが、これは「人里や都市生活」を基準にした場合のことであり、特に「冬山」では「何が起きるか分からない」ので、それに対応できる最低の準備として「食糧」は持参しているのである。2人にはその「レデネス」はあったのである。
この3時間以上の「遅れ」は昨年の雪消えを待ってはじめた「踏み跡探し」の延長線上に目的を置いて行動したからである。
春、夏、秋を通しての「踏み跡探し」の中で、「この踏み跡を『降りる』と何処に出るのか」という箇所がいくらかあった。その中の「数本」は確認できたが、毒蛇沢左岸から下っているものは未確認のままだった。
何たって、私たちの「踏み跡」探しの本命は「岩木山を縦に登高する」踏み跡ではなく、沢を跨ぎ、尾根を横切り「岩木山のスカートの襞(ひだ)を辿っている」踏み跡だったのだ。だから、当然「縦の踏み跡」は後回しにされたのである。
「縦の踏み跡」は大体高さが、その「終点」を教えてくれる。標高が高くなると大概が消滅している。「消滅」したら「降りれば」いいのである。だから、心置きなく登ることが可能だ。次の俳句は、そのことを吟じているのかも知れない。
・行く道のままに高きに登りけり (富安風生)
因みに、この俳句の季語は「高きに登り」であり、季節は秋である。
ところが、相棒が昨年の11月に1人で「毒蛇沢左岸から下っているもの」を辿り、確認したのである。残念ながら、何かの都合で私は行けなかったのだ。
相棒は私に、そこを踏査して確認してもらいたかったのだろう。当然私もそこを踏査したかったのである。
だが、今思うと、何もこの大雪の、深雪という気象条件の中でそれをすることはなかったのである。春、雪消えが始まった頃でも十分にいいのである。
そのようなわけで、「小森山と森山」登頂という山行の中に、この「踏み跡踏査」が加わったのである。そして、この「踏み跡踏査」に全所要時間の3分の2が費やされたのであった。目的外のために「3分の2の時間が費やされる」ということは尋常ではない。
降雪や積雪の中を「踏み跡」を辿るなんて「あほ」じゃないかと思う人もいるだろう。確かに、「ワカンラッセル」の負荷を考えるとそのとおりである。雪のない時に辿った方が何倍も楽である。
だが、「踏み跡探し」という目的からするとメリットがないわけではない。ただし、「あまり積雪が深くならないこの時季」という条件付きだ。
この時季、「踏み跡」は、その形状が凹凸でもってよく現れるのである。つまり、森や雑木の中に、穿たれた踏み跡がくっきりと浮かび上がってくるのだ。それに、沿って辿ると迷うことは先ずない。
ただし、さらに降雪が続くと、この「穿ちに因る凹凸」は消えてしまう。森の中は平面と化し、雑木は雪の下に埋まってしまうのである。(明日に続く)
(お詫び)12月29日に一人で姥石の上部まで…(7)は明日掲載する。
「ふくらはぎ」の筋肉に負担かけないようにと「つけた踏み跡」を丹念に辿り、降りてくる時には、丁寧に踏み跡に、靴とワカンを重ねるようにしたものだから、一層しっかりとして堅い踏み跡になっている。
このように、単独だが同じ踏み跡を二度辿っているわけだから「複数名」でつくったような「踏み跡」は、その後降雪がなければ、負荷が殆どなく夏山と同じ感覚で登れるだろう。
冬の剣岳に「登った(?)人」が話していた。このような会話の中でのことだ。…
「剣に行ってきました」
「大変だったでしょう」
「……」
「どうしたんですか」
「う~ん、登ったといえば登った、登らなかったといえば…登らなかったような…」
「登ったのでしょう。頑張りましたね。念願を果たしたわけですからよかったじゃない ですか」
「……それが、あまりよくなかったのです」
「なぜですか」
「実は、ほぼ山頂まで踏み跡がついていて、しかも立派な踏み跡ですよ」
「それはまたどうしてですか」
「多くのパーティーが登るものですから、後続するものは必然的に、その踏み跡を辿る ことになるのです。私が登った時は、夏道より登りやすい『道』になっていました。季 節は冬ですが、ルートは夏でした」
「それは残念でしたね」
「残念というよりも悔しいです。冬の岩木山に登るよりも10倍楽でしたから。あほくさい話しですね」
「有名な山というのはそんなものなんですかね」
…1988年に7000m峰に行った。その時のメンバーに国内の有名な山に冬季かなり登ったという男がいた。ところが、実際、3000mを越える「雪のある場所」から上での行動が、実にちぐはぐだった。雪に馴れていないのである。結局、雪原では1回も彼は「ラッセル」をしなかったのである。出来なかったいうべきかも知れない。
いくら、「有名な山」に冬季に登ったといっても、他人がつけた「踏み跡」を辿って登っているのであれば、「雪山」を知ることにはならない。
ましてや、自分で登るのではなく、「踏み跡」に登らされているのであり、隙間なく続いている「標識」に、ただ従っているに過ぎない。これだと「自分を鍛える」ことも出来ないし、山と関わり、山を学習することも出来ない。とにかく、「自助努力」という世界ではない。
ただ、他人「多人」の後ろに就いていくだけの者にも、このことは言える。12月29日に私の踏み跡を辿ったパーティーは何処まで行ったやら…。)
◇◇ 相棒との寄生火山めぐり…に思うこと ◇◇
(承前)
…とにかく、無理なことをしたのだ。計画していた「所要時間」も大幅に越えてしまった。計画では、遅くとも「昼過ぎには駐車場所には戻る」としていた。だが、実際は15時30分頃だった。3時間近く遅くなったのである。
だが、おかしいことに、行動を「昼過ぎまで」としながらも、2人はちゃんと「昼食」を用意していた。「おかしい」と書いたが、これは「人里や都市生活」を基準にした場合のことであり、特に「冬山」では「何が起きるか分からない」ので、それに対応できる最低の準備として「食糧」は持参しているのである。2人にはその「レデネス」はあったのである。
この3時間以上の「遅れ」は昨年の雪消えを待ってはじめた「踏み跡探し」の延長線上に目的を置いて行動したからである。
春、夏、秋を通しての「踏み跡探し」の中で、「この踏み跡を『降りる』と何処に出るのか」という箇所がいくらかあった。その中の「数本」は確認できたが、毒蛇沢左岸から下っているものは未確認のままだった。
何たって、私たちの「踏み跡」探しの本命は「岩木山を縦に登高する」踏み跡ではなく、沢を跨ぎ、尾根を横切り「岩木山のスカートの襞(ひだ)を辿っている」踏み跡だったのだ。だから、当然「縦の踏み跡」は後回しにされたのである。
「縦の踏み跡」は大体高さが、その「終点」を教えてくれる。標高が高くなると大概が消滅している。「消滅」したら「降りれば」いいのである。だから、心置きなく登ることが可能だ。次の俳句は、そのことを吟じているのかも知れない。
・行く道のままに高きに登りけり (富安風生)
因みに、この俳句の季語は「高きに登り」であり、季節は秋である。
ところが、相棒が昨年の11月に1人で「毒蛇沢左岸から下っているもの」を辿り、確認したのである。残念ながら、何かの都合で私は行けなかったのだ。
相棒は私に、そこを踏査して確認してもらいたかったのだろう。当然私もそこを踏査したかったのである。
だが、今思うと、何もこの大雪の、深雪という気象条件の中でそれをすることはなかったのである。春、雪消えが始まった頃でも十分にいいのである。
そのようなわけで、「小森山と森山」登頂という山行の中に、この「踏み跡踏査」が加わったのである。そして、この「踏み跡踏査」に全所要時間の3分の2が費やされたのであった。目的外のために「3分の2の時間が費やされる」ということは尋常ではない。
降雪や積雪の中を「踏み跡」を辿るなんて「あほ」じゃないかと思う人もいるだろう。確かに、「ワカンラッセル」の負荷を考えるとそのとおりである。雪のない時に辿った方が何倍も楽である。
だが、「踏み跡探し」という目的からするとメリットがないわけではない。ただし、「あまり積雪が深くならないこの時季」という条件付きだ。
この時季、「踏み跡」は、その形状が凹凸でもってよく現れるのである。つまり、森や雑木の中に、穿たれた踏み跡がくっきりと浮かび上がってくるのだ。それに、沿って辿ると迷うことは先ずない。
ただし、さらに降雪が続くと、この「穿ちに因る凹凸」は消えてしまう。森の中は平面と化し、雑木は雪の下に埋まってしまうのである。(明日に続く)
(お詫び)12月29日に一人で姥石の上部まで…(7)は明日掲載する。