岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

2010年度総会の案内 / 岩木山と夕焼雲… 永遠に不変であるためのバランス

2010-05-28 05:11:03 | Weblog
☆★☆★☆★「2010年度総会開催」の案内をします★☆★☆★☆

 明日29日は本会の総会です。多くの会員の参加をお願いいたします。  

開催日時 5月29日(土) 9時から12時まで
会  場 弘前市参画センター(桜大通り交番隣り)

主な活動方針(案)

・岩木山の自然破壊の監視、自然の保護と再生をめざし調査と情報の蒐集につとめる 
・観光行政が岩木山の自然を破壊しないように、関係機関との連携を密にする 
・シンポジウムを「生物多様性」を主題にして開催する 
・第18回写真展「私の岩木山」を市民参加型の写真展と位置づけて開催する 
・会員及び市民参加型の自然観察会または学習会・市民講座などを開催する 
・市民運動と深く連携し、行政と向き合いながら自然保護運動を進め、「地球温暖化防止」「生物多様性の保護」を訴えていく 
・ホームページ「岩木山を考える会」の充実を図る。
 以上の他にも案件があります。なお、今総会は役員の改選期にあたっているので十分議論していただきたいと思います。

 (今日の写真は、5月20日の夕方19時過ぎに撮った岩木山である。取った場所は拙宅の前だ。高層雲を岩木山の左の肩に沈んだ太陽の光が赤く染めている。間もなく夕闇に包まれるほんの一瞬前という時間帯である。そのとおり5分後には暗くなってしまった。
 見事なくらい赤く染まった雲の下で「岩木山」はやはり、堂々としている。微動だにしない。)

◇◇ 岩木山と夕焼雲… 永遠に不変であるためのバランス ◇◇

 どのような空を戴こうとも、どのような気象に抱かれようとも「岩木山」は鳴動せず、動かない。それが、眺める人の心を癒す。そこにいつもあるということ、そして永遠に存在すること、朝起きても見ても、農作業中に眺めても、車を運転しながら眺めても、そして、家路につく夕方に仰いでも、いつも「岩木山」はそこにあるのだ。いつも決まった場所に、同じ姿であるということの「安心」と「安堵」、これこそ、「諸行無常」の世にあって人々が求めるものだろう。常にある山、「岩木山」だ。私たちは「常に変わらぬ心」で岩木山と対峙するべきだ。
 軽口を叩いたり、心変わりの人には岩木山は馴染まない。少なくとも現総理大臣には馴染まない山だ。さらに、岩木山に「何々ならば」という条件をつける人も馴染まない。たとえば、こういう人たちだ。
 「岩木山がせめて標高2500mの山だったらいいのに」とか「岩木山にもコマクサが生えていたら」とか「10km近い滑走面を持つ尾根があったら春スキーがもっと楽しいのに」とか「オオヤマザクラの並木があったら」とか言う人たちだ。
 これは「無い物ねだり」である。悠久の古来から「あるがまま」に在った岩木山には「存在」しないもの、あるいは存在したが、自然の摂理では非常に少ないものなどが「おねだり」の対象になる。
 岩木山は標高1625mの山だ。「コマクサ」は昔から生えていない。10kmに渡って滑降出来るような長い尾根は存在しない。「オオヤマザクラ」はミズナラ林などに点在して生えているもので、並木のように「行列」した生え方はしない。
 ところが、この「無い物ねだり」に応えようとする人たちがいる。応えようとする時の所業、それはいきおい、「あるがままの自然」に人工的な行為を加えることになる。別な言い方をすれば「自然破壊」だ。
 「無い物ねだり」は「観光」と結びつきやすい。人工的であり、閉鎖的な建造物空間に閉ざされている都市生活で疲れた心を「悠久の自然」を訪ねて「自然の懐に抱かれ」て癒したいと思う。
 「さあ、そこへ出かけよう。自然溢れる山林の中へ」ということになる。「自然がいっぱい、自然溢れる」ということは自然度が高いということになろう。
 自然度の高いところは「都市」とは対極に位置する。都市は様々な法的な決まり、たとえば耐震法、建築基準法、さらには交通法規などで、人々の安全性が保たれている。都市生活では多くの法整備で人々は保護されているのである。
 だが、「自然溢れる自然度の高い」場所ほど安全性は、薄くなる。「危険がいっぱい」ということである。だから、その「危険を取り除け」という。これも「無い物ねだり」であろう。「自然溢れる自然度の高い」場所ほど危険が多く高いのである。「自然溢れる自然度の高い」場所で心と体を癒したいのならば、そこで「遭う」であろう「危険」も含めて享受するという心構えが必要だ。
 このような「一方的」な「無い物ねだり」に行政や観光業者は応えようとする。これでは、リバティバランスに欠ける。人と自然との共生にはバランスが必要なのである。そのバランスこそが「あるがまま」ということなのだ。 「バランス」については、「ブランコ」と「ナイフの上のオレンジ」で喩えることがある。私がここで言う「バランス」とは「ブランコ」のそれではない。これは、均衡状態が変動しても必ず元の均衡状態に戻る「バランス」の喩えである。
 風が吹く、子供が乗って動かすと動くが風が止み、子供が去ると動きが止み、静止する。それを「均衡状態ととらえるバランス」のことだ。
「人と自然との共生」に必要な「バランス」は「人が手を加えない」ことで成り立っている。「ナイフの上にのせられたオレンジ」は、ブランコが静止している状態と同じく「バランスが取れた均衡状態」にある。
 だが、一度でも、外部から何らかの力が働き、「均衡状態」が崩れるとオレンジはナイフの上から落ちて、自らナイフの上に再び戻ることはない。ブランコのように次の「バランス状態」に戻ることのない「バランス」を意味している。
 「人と自然との共生」に必要な「バランス」はまさにこれだ。「バランス」が壊されると二度と「均衡状態」に戻ることはないのである。
 自然の中で「危険を排除して安全性」を確保するということは、この「バランス」の破壊である。「安全性の確保」にこそ危険性が含まれているのだ。
 「安全保障条約」の中には、常に攻撃に曝されるという危険性と戦争に巻き込まれ、荷担させられるという危険性が内在していることを忘れてはならない。

「今、樹木の葉と花が可愛い…タラノキ無残(9)」は明日掲載します。