岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「イヌガンソク」と「ガンソク」を想う / 「安全」優先、「生物多様性」を無視した行政の愚行(5)

2010-05-17 05:10:02 | Weblog
 (今日の写真は、イワデンダ科コウヤワラビ属の夏緑性シダ(羊歯)植物だ。これは、北海道から本州、四国、九州に分布し、山地の樹林の下や底部が広がっている谷や沢、それに、山道の傍などで生育している。これは、山道から、南側の沢を見下ろすような場所で撮ったものだ。
比較的大きくよく目立つ植物である。だが、ワラビでもないし、ゼンマイでもない。
 傍に見える褐色で黒みがかったものは、「胞子葉」といい、この植物を特徴づけるものであり、次の年の春まで残っていて非常に目立つのである。写真のものは、昨年のものである。
 これらの仲間は、「栄養葉」と「胞子葉」という2形の葉を持つ。別の名前が「オオクサソテツ(大草蘇鉄)」である。だから、「葉身」は80cmから1mと非常に大きく長い。特に、「栄養葉」は夏場、頭上の樹木の葉っぱに負けないくらい立派な「夏緑」色になる。
 「胞子葉」は生花素材のドライフラワーとしてよく利用され、「ガンソク(雁足)」と呼ばれている。だが、「ガンソク」と呼ばれるものが、他にもある。だから、ややこしくなるのだ。これは、「イヌガンソク(犬雁足)」である。) 

◇◇ 「イヌガンソク」から「ガンソク」を想う ◇◇

 雪解けから、この時季にかけて、山を歩いていると「イヌガンソク」はよく目立つ。特に、雪消え直後から黒っぽい枯れた「胞子葉」はよく目につく。
 これを「ガンソク」と呼ぶ由来も一見してよく理解出来たものである。その由来は、「雁足」の意味で、胞子葉(胞子をつくる葉)が、雁の足に似ていることによる。
 しかし、どのように見ても、この「ガンソク」には2つの種類があるように思えるのだ。端的に言うと「大きいもの」と「小さい」ものである。だが、非常に似ている。大小の違いだけで殆ど「相似形」に近い。
 そうだ、この「大きい」方がイワデンダ科コウヤワラビ属の夏緑性羊歯「イヌガンソク(犬雁足)」なのだ。別名は「オオクサソテツ(大草蘇鉄)」だ。
 「イヌ」という接頭語が付いているのは、「ガンソク」と呼ばれる「クサソテツ(草蘇鉄)」は食べられるのに、このシダは食べられないことを意味しており、山菜の世界で「コゴミ」と呼ばれ、食用にされる「ガンソク」に似ているが「非なるシダ植物」ということである。ここでの「イヌ」は「犬」ではなく「否ぬ」という意味である。
 「栄養葉」は厚味があり、幅も広い。これとは別に、秋に出る「胞子葉」は短く単羽状で、羽片の辺りは内に深く巻いて「ソーラス(胞子嚢群)」を包み込んでおり棒状である。生け花素材としてそのまま利用も可能であり、人々に好まれているという。
 
 さて、「小さい」方だが、これが、「コゴミ」と呼ばれ、山菜として食用に供されるものだ。「ガンソク」は本来、「コゴミ」の別名なのである。他に「コゴメ」ともいう。
 「コゴミ」とはオシダ科クサソテツ属の落葉性多年性羊歯「クサソテツ(草蘇鉄)」のことだ。名前の由来は「ガンソク(雁足)」は、葉柄の基部を雁の足に見立てたことによるし、「コゴミ」はその姿が「屈んでいる」ことによる。
 「クサソテツ(草蘇鉄)」は、草でありながら、ソテツに葉姿がよく似ていることによる。
 「コゴミ」というと山菜として食べるということに目がいくが、「学名」には、ギリシャ語のstruthio(=花束)とpteris(=シダ)が使われており、「花束のように葉が集まったシダ」という美しい意味があるのである。この美しさは、「日本の庭園」でも利用されており、庭園の植え込みには欠かせない存在となっているのである。
 また、これは貴重な山菜でもある。北海道~九州に分布し、やや湿った山地や山裾、薮の中に自生し、葉が巻いた状態の時に、若芽を根元から摘み採って食用にする。春先の山菜の代表でクセもアクもなく、おひたしや和え物などに最適なのだ。

◇◇「安全」はすべてに優先するのか、またまた、「生物多様性」を無視した行政の愚行・最高裁判決を吟味する(5)◇◇
(承前)
 ところで、今一度「最高裁の判決」を吟味してみたいと思う…(上)。

 最高裁は「奥入瀬遊歩道で起きた事故」に対して、近くに県設置の遊歩道や休憩所があり、事実上、「青森県が管理していた」と指摘。「枝の落下はよくある自然現象で事故は予想できた」として青森県の責任を認め、「国の機関の森林管理署が毎年、県などと現場周辺の山林を点検し、遊歩道近くの樹木については実際に安全対策をとっていたこと」を踏まえて、国の責任をも認めたのである。

 「奥入瀬渓流沿い」には、多数のブナがあり、その他の樹木沢山生えている。ということは、「一歩遊歩道に入ると、そこら中で枯れ枝の落下がよくあること」になるということだ。その周囲だけに限っても、一体何百本、何千本の落枝する樹木があるのか見当さえつかないのが現状ではないのか。
 この「判決」に従い、青森県は、それらの大量の樹木の全てについて、落下の可能性のある枯れ枝の有無を点検し、順次、枯れ木の撤去、枝打ちをすることになると考えたのだろう。だから、今回の「1145本」という樹木の伐採がなされるのである。だが、枯れ木、枯れ枝、落枝、倒木は常に生滅を繰り返して輪廻しているのである。長期的に見た場合は、どうしても人手が追いつくわけがないのである。また、その人手にかかる経費も相当な額になるのではないか。
 そのようなことよりも問題になるのは、私は特にこの点を問題にしたいのだが、「枯れ枝の落下の危険を完全に排除するほど人手が入った自然は、もはや自然とは言えない」ということである。
 「自然の美しさ」、「原生の自然」、「感性的な自然」、「自然の息吹」などと形容される「自然」には、安全性の上に立脚している都市生活と違い、そこには、必然的に内在する危険と裏腹の関係が存在するのである。
 「自然に触れ、それと親しもう」とする者は、必然的に「危険に接近し、危険に遭うということも受け入れなければならない」ということである。
 青森県の住民は奥入瀬渓流という「観光資源」によって収入を得ているのだから、それは「一定の範囲で観光客の危険を引き受け、安全を確保する」立場にないわけではない。 だが、それを、「自然に触れ、それと親しもう」とする者の主権にだけ目を向けて、民法709条「不法行為による損害賠償」や710条「財産以外の損害の賠償」、それに国家賠償法のような不法行為責任論で考えることは適切でないと思うのである。(明日に続く)