岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

イタヤカエデの花に想う / 「安全」優先、「生物多様性」を無視した行政の愚行(4)

2010-05-16 05:08:37 | Weblog
 (今日の写真は、カタクリの咲く地表に落ちていた「花」である。強い風に煽られて、梢の先端から「千切れた」ものらしい。落ちていたのは「これ」だけではなかった。見える範囲だけでも10以上はあったように思う。本当は実際に「枝先」に咲いている写真を載せたかったのだが、持ち合わせの70mmズームレンズでは撮ることが出来ないのだ。やむを得ず、この「写真」ということになったが、これはこれで、「雌雄同株」の花、つまり、雄花と雌花「両性花」の観察には最適であろうと思うのである。
 これは、ある高木の花である。大体が高いところで花をつけるので、肉眼で観察することは結構難しい。
 「これは何だろう」という同行者の質問に、その日も、双眼鏡で頭上の梢や枝先を見てもらって、「落ちている」ものと枝先についているもの、すなわち、実際に咲いている花を視認してもらい、目の前にあるものと同じであることを確認してもらったのだ。
 これは、カエデ科カエデ属の落葉高木「イタヤカエデ(板屋楓)」の花である。 
見て分かるとおり、花は一つの花序に雄花と雌花が混生する「雌雄同株」で、黄緑色の小さな花を円錐状につけるのが、特徴である。)

◇◇ イタヤカエデの花に想う ◇◇

 「イタヤカエデ」は秋になると、大きな広い葉が、きれいに黄葉する美しい楓である。春も同様に、「黄色の可愛い花」と若葉の緑が美しいのである。「ヤマモミジ」や「ハウチワカエデ」の花は臙脂系の「赤」であるのに対して「イタヤカエデ」は黄色の花をつける。
 それも、「ヤマモミジ」や「ハウチワカエデ」のように下方に垂れず、上向きに咲くのである。しかも、「葉」が出る前に咲くので、まるで、黄色の「若葉」が出ているように見えるのだ。
 地上、15~20mにもなる高木だ。その高木が、葉を開く前に、緑黄色の小さな花を、枝先に沢山つける。まるで、木一面に黄色い霞がかかったように見える。真っ白な花をつけるサクラを「カスミザクラ(霞桜)」というが、これなどは、「キガスミカエデ(黄霞楓)」と呼びたくなるほどである。

 千切れ飛んで落ちてきた「花序」を手にとって、よく見ると直径5~7mmだろうか。一つ一つがとても可愛い。だが、「雄花」と「雌花(両性花)」が、1つの花序内で雑居しているのだ。それが、新しく出た枝の先に、黄色い花を、「複散房状」につけているのである。落ちているものをよく見たら、花の集まり方「複散房状」が、それぞれに変化に富んでいるのであった。花の咲く時季は5月である。
 「イタヤカエデ」は北海道、本州、四国、九州に生えている樹木で、樹皮は暗灰色で、縦縞の模様があり、その模様は老木になると浅く裂ける。直径が1mになるものもあり、材は堅く、スポーツ用具にも使われるそうだ。この樹液からは「メイプルシロップ」が採れるのである。
 雌花は、秋になると翼を持った「翼果」となる。「翼果」は2個で、向き合って「プロペラ状」に付いているが、熟すと分かれて別々に落ちる。クルクルと回転して、風に乗り遠くまで飛ばされる。だが、分離しない「プロペラ状」のままだとただ、落ちるだけで「風」に乗らない。
 名前の由来についてだが、「板屋」とは板で葺いた屋根のことであるから、木材の質や用途からのものだろうと私は最初思っていたが、そうではない。「雨宿りが出来るくらい、葉がよく繁り、板で葺いた屋根のようなもの」に因る。

◇◇「安全」はすべてに優先するのか、またまた、「生物多様性」を無視した行政の愚行(4)◇◇
(承前)

 …時は2010年、10月には「生物多様性」に関する国際会議が名古屋で、開かれる。日本が中心的な役割を果たすことになっている。
 このように、「生物多様性」や「多様な生態系」を護ろうとする動きが世界的な潮流となっているのである。
 だが、残念ながら、今回の「樹木1145本」伐採ということは、その「潮流」に背を向けていることである。「生物多様性」や「多様な生態系」を護ろうとする視点がまったく欠落しているのだ。
「観光客のための安全な空間」を創りだすということは、この意味では、森を含んだ自然、大きく言うと国土を護るという行政の「責任の解除」だ。
 これからの観光は「生物多様性」と「生物文化多様性」を踏まえた「生物・文化・景観」の豊かさを育む中でなされるものとなっていかない限りは、いつまで経っても「観光開発」と「自然保護」という概念は、対立軸という構図から脱却することは出来ないのである。 

 安全性を徹底すれば、周辺の樹木を伐採するなど「自然破壊」が進む。現に、事故以後、奥入瀬渓流遊歩道周辺では、樹木医による立木の点検が行われ、危険とみなされる樹木の伐採が進められている。
 それを、あるがままの自然が毀損されて「残念」だと感じたり「自然破壊」と捉える人は当然いる。
 いる以上はそのことについて「議論」が必要だということである。もしも、行政との「論議」がなされると、「自然を護るために遊歩道を廃止する」という方向性も出て来るかも知れないのである。

 賠償金「1億9300万円」は尋常な金額ではない。とても、個人や小さなな企業が負える額ではない。また、広範な遊歩道(登山道)の管理は、個人や小さな企業等では出来るものではない。地主や設置者の責任だけが問われ続けば、遊歩道や登山道を「閉鎖する」しかなくなってしまう。
 この判決に唯々諾々と従えるのは、税金を扱える「行政」だけである。

 自然の中へ入っていくのだから、「危険」が存在するのは当然である。だから、怪我をしたり、悪くすると死ぬかも知れないという危険を想定して、「自然」に中に入っていくことになるのだ。おれゆえに、そこでは「自己責任が原則」となる。
 危険を想定しなかったり、危険に近づき、それを避けなかったたりすることは「未必の故意」として扱われても仕方がないことであろう。
 「未必の故意」とは「積極的に意図したわけではないが、自分の行為から場合によってはその結果が発生するかも知れないし、そうなってもしかたがないと思いながら、なおその行為に及ぶときの意識」のことをいう。(明日に続く)