岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

山ブドウの新芽は… / 今、樹木の葉と花が可愛い…タラノキ無残(7)

2010-05-26 05:04:20 | Weblog
 (今日の写真は、ブドウ科ブドウ属の「蔓性木本」である「ヤマブドウ(山葡萄)」の新芽である。「雌雄異株」であり、葉と対生して巻きひげを出して、他の木に絡みついて成長する。「雌雄異株」なので、この新芽が雄花になるのか雌花になるのかはこの段階では、私には分からない。
 右に見える「直立して、まだ縮まっている」緑の葉は「マルバマンサク」である。

 …ある年の秋に、岩木山白狐沢下流上部の左岸尾根で野外観察会を開いた。
 橋のない白狐沢を渡渉して、旧い林道を少し登った。その少し手前で「藤の蔓」と「葡萄の蔓」の形態と伸び方、生育の違いを学習していた。
 ところが、その学習内容など、「もうどうでもいい」というような現実が待ち構えていたのである。
 …というよりは「あるもの」が私たちの行く手を遮って、それ以上先に進めなくさせ、「観察会」はすっかり変貌してしまったのである。
 目の前には、「山ブドウ」の森、「山ブドウ」の畑が広がっていたのだ。まさに、自然の果樹園だったのである。
 ブナが伐採されて、ジグザクに切り通されたその場所は明るい場所だった。その日も秋のさわやかな陽光が「そこ」を照らしていた。
 そして、その「法面」は山ブドウですっかり覆われていたのだった。しかも、その枝という枝には「はち切れるように熟れた」瑞々しい「山ブドウ」がたわわに実っていたのである。
 観察会は、一挙に豹変した。観察という客観的な行動が「ものを採る」「収穫する」という非常に主観的で「物欲」的な行為に変わってしまったのだ。私には、それを止めることは出来なかった。いや、止めるということをあえて「止めた」。
 「楽しい」ということを優先させたのであり、「学習」という行為からたまには離れてみるのもいいだろうと考えたからである。
 そうだ、「山ブドウ」狩りになってしまったのである。参加者10余名がそれぞれ、ビニール袋に入りきれないほどの「熟れた」山ブドウを採ったのである。
 今日の写真の「ヤマブドウ」の新芽には、23日後長根沢沿いで出会った。あの「ヤマブドウ狩り」に興じたメンバーも数人その場にいて、この「新芽」に出会った。だが、「ヤマブドウ狩り」に見せたあの感興を示す人はまったくいなかった。
 説明をしなければ、「目の前」にあるのに素通りしてしまったであろう。「これが、ヤマブドウの新芽です。優しい淡い色合いですね」という私の話しに、頷いてくれたことが救いであった。)

◇◇ 今、樹木の葉と花が可愛い…タラノキ無残(7)◇◇

(承前)…これは「生物多様性」を堅実に出し切って、「個性豊かに」生きている植物であることを意味することでもあるのだ。そして、これがまた、「タラノキ」の悲運を増幅させるのである。
 「栄養的にも価値が高く、香気と味覚」に優れていることは「生物多様性」の中での「タラノキ」の特性である。だが、これが人間たちの「生物多様文化性」を刺激する。つまり、「生物多様性」に支えられて成立する「多様な文化」を発展させることを鼓舞するのである。それは「食という文化」である。「山菜を食べるという食文化」である。
 それは、さらに「山菜を採るという文化」を生み出すのだ。「生物多様性」は人間の「多くの文化」を生み出しているのである。
 だが、その「文化」にだけ、人間が価値を置き始めて、「タラノキ」の芽を採り尽くしてしまうと、そこには「タラノキ」という植物が、自然界で担う「生物多様性」も、それに支えられる人間にとっての「生物多様文化性」も消滅してしまうのである。

 人間は、自然の「生物多様性」に対して、これほど惨いことをしているのだ。そして、その一方で、「生物多様性」を無視したような行為をしているのである。
 今年、2010年は「生物多様性」年だそうだ。何だか「とってつけた」無理強いの命名に聞こえる。そして、今月の22日、「世界をめぐれ『緑の波』」をスローガンに「国際生物多様性の日」と銘打って、「植樹」をしたというのである。

 電子版各紙は大体が次のようなことを伝えている…
「地球の東から西へ『緑の波』を起こそう――。「国際生物多様性の日」の22日、東京湾の人工島にある『海の森』(東京都江東区)で、親子300人がクロマツやオオシマザクラ、ヤマモモなど19種の苗木計1千本を植えた。」と。

 また、これとは別に、青森の地方紙、それにテレビは、「岩木山山麓の伐採地」で、ある組織が実施した「オオヤマザクラなどの植樹」の様子を伝えていた。

 私はこれらの「植樹」行為に違和感を抱くのである。まずは、「植樹」とは「伐採」という行為の結果論に立っている。「緑を護り、森を育てる」ことに腐心するならば、第一に「伐採」をしない、させないということに立つべきではないか、「植樹行動を続けながらも」一方では、少なくとも「伐採反対」との「声」はあげるべきではないか。
 樹木の人工的な伐採がなければ、極論で言うと「植樹」は必要がないのである。
 次は、「先駆的」樹木である「タラノキ」や「タニウツギ」などが、伐採地に生えてきて、自然の森復活の「遷移」の一歩を歩み出しているのに、その「パイオニアー」である「タラノキ」を採り尽くし、「遷移」の過程を破壊していることを黙認していることである。
 そして、その一方で先駆的樹木でない「クロマツやオオシマザクラ、ヤマモモ」や「オオヤマザクラ」を植えるという、これまた「遷移」の過程を無視した行為をしているのである。
 「生物多様性」、いったん失ったこれは、人工的には「取り戻せない」ものだ。「佐渡のトキ」がそれを教えてくれているではないか。だからこそ失わないようにしなければいけないのだ。
 森の「伐採」は避けなければいけないし、「伐採地」も長い年月をかけて「遷移」する力に任せるしかないのである。伐採地は50年もすると森に変わる。何故、そんなに急ぐ必要があるのだろう。どうして人の生命的なスパンに樹木を合わせる必要があるのだろう。(明日に続く)