若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

よみがえる5世紀ー群馬県高崎市ー上毛野はにわの里公園を見て歩く

2018年11月26日 | ドライブ


11月23日(金)妻と二人で愛車プリウスに乗って、群馬県高崎市の「上毛野(かみつけの)はにわの里公園」に行って来ました。

公園は「保渡田古墳群(二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳)」、「かみつけの里博物館」、「土屋文明記念文学館」、「JA農産物直売所」などで構成されています。



先ずは保渡田古墳群の造られた頃の世界を知るために「かみつけの里博物館」へ。

「かみつけの里博物館」は榛名山東南麓で出土された5世紀後半(古墳時代)の人物・動物埴輪や当時を再現した模型が展示されている考古博物館です。



種別ごとに埴輪を展示し、あわせて国内各地の事例を紹介しながら、埴輪が示す古墳時代の人々の実像を紹介しています。



保渡田古墳群は全て前方後円墳で、どれも墳丘の長さが約100mで、まわりには大きな二重の堀があります。

井出二子山古墳→八幡塚古墳→薬師塚古墳の順に造られました。

当時の東日本に於いて、極めて優勢であった豪族たちの墓所として、国指定史跡に指定されています。

「井出二子山古墳」は第3四半期の築造で、昭和5年、帝室博物館(現東京国立博物館)の後藤守一が初めて発掘し、内堤から埴輪片などを発見しています。

後円部墳頂では2基の埋葬施設が見つかり、このうち舟形石棺からは玉類や武具、馬具、農工具などの破片が出土しました。



内堀の中には葺石を施した直径約18mの円形をした4つの「中島」が存在します。

この「中島」は祭祀の場とも古墳の主の近親者、従者の墓とも言われています。



「八幡塚古墳」は1996(平成8)年度から4年かけて保存復元整備されました。

大型古墳の復元整備としては、関東以北で初めてのもので、発掘調査所見に基づいて、1500年前の姿の古墳が再現されています。



内堤の一角には人物・動物の形をした埴輪群像が復元されています。

当時の様々な儀式の様子が埴輪で表されています。

宴会や狩猟の様子などの場面が見られます。



筒形の埴輪が古墳を囲んで並んでいます。

古墳を悪霊から守る垣根だと考えられます。



頂上から内部へ降りると、大きな石の棺があります。

豪族が眠った巨大な棺(舟形石棺)です。



この古墳の内堀の中にも4つの中島が造られました。

内堀を掘った時に島の部分だけを残し、若干の盛り土をして2段に整えられました。

まわりには円筒埴輪が巡らされ、埦(わん)などの土器が多量に出土したそうです。

なお「薬師塚古墳」は、保渡田古墳群のなかでは最後(5世紀末~6世紀初頭)に築造された古墳です。

現在は西光寺境内となっていて、墳丘は著しく変形し、本格的な発掘調査も実施されていないそうです。



歴史の次は文学です。

郷土の文人を顕彰する「土屋文明記念文学館」が上毛野はにわの里公園内にありました。

土屋文明は保渡田古墳群のほど近くで1890(明治23)年に生まれ、歌人となり、研究が高じて万葉集の全歌を注釈しました。

東京・南青山の自宅にあった書斎をここに移築して公開し、上京して歌壇の中心となる過程を資料で紹介しています。



文明が1990(平成2)年9月18日に満百歳となることを祝い、旧群馬町が建てたものです。

碑に刻まれた文字は、文明自身が書いた色紙をもとにしており、文明が公認した唯一の歌碑とされています。



駐車場から当館北側正面入口に向かう途中にある、金属プレートの碑文です。

文明が短歌雑誌『アララギ』に連載した「日本紀行」のうち「二 畦畔(けいはん)」から引用しています。

畦畔とはあぜ道のことで、故郷の原風景をイメージさせるこの文章を、これから観覧に向かうお客様へのプロローグ展示としています。




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