若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

渋沢栄一の里・深谷市を訪ねるーその2 記念館・生地・深谷駅にある4つの銅像

2019年12月13日 | ドライブ


渋沢栄一は、7歳になると下手計(しもてばか)の従兄弟の尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)のもとへ論語をはじめとする学問を習いました。

生涯を通じて論語に親しんだ栄一は、「道徳経済合一説」を唱え「近代日本資本主義の父」と呼ばれるようになりました。

栄一が惇忠の家に通った道は、いつしか「論語の道」と呼ばれ、栄一に関連する史跡が多く残されていることから、それらを総称して「論語の里」と呼んでいます。

「渋沢栄一記念館」は論語の道の尾高惇忠生家と渋沢栄一生地の中間地点に、平成7年11月11日に開館しました。

会館内には栄一ゆかりの写真や遺墨など多くの資料が展示されています。



記念館の北側には、5メートルほどの渋沢栄一像が右手に論語を持って立っています。

栄一像が眺めるのは、ここで暮らしていた頃見ていた赤城山や妙義山などの群馬や栃木の山並み、そして利根川の流れと中瀬(なかぜ)河岸場です。

中瀬河岸場は江戸時代、武蔵国と上野国を結ぶ利根川の船着場として栄えました。

物資のほか、船客の乗り換え場であったため、江戸の文化や経済の情報がいち早く伝えました。

深谷は中山道の宿場町でもありますが、ここでは利根川からの情報が行き交い、栄一にも大きな影響を与えました。



渋沢栄一は天保11年(1840)ここ血洗島(ちあらいじま)に生まれました。

生地は渋沢家のうち、中央にあったことから「中の家(なかんち)」と呼ばれました。

代々農業を営む富農で、「名字帯刀」を許され、養蚕や藍玉づくりとその販売のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福であったそうです。

正門はケヤキの一枚板が使われ、正面に主屋、周囲には4つの土蔵があります。



門を入ると、若い頃の着物姿で刀を持った栄一像が生家を眺めています。

渋沢栄一は早くから一橋慶喜に仕えていたことで徳川慶喜が将軍になると幕臣となって、パリの万国博覧会を視察するなど活躍しました。

そのフランスで学んだ株式会社制度の知識から、東京証券取引所、キリンビール、東京海上火災保険、など各業界の名門企業の設立を続々と進め、日本の資本主義を牽引しました。



当時の家屋は残っていませんが、明治28年(1895)に妹夫妻が立てた家が公開されています。

主屋は切妻造の典型的な養蚕農家の造りで2階に蚕を飼っていました。

屋根には天窓があり、蚕の飼育の温度調節のため風を入れることができました。



主屋の中に上がって見学することはできませんが、土間からは1階のお座敷の様子を多少窺うことができます。

1階の一番奥の座敷は、栄一が帰ってきた時に使っていた部屋とされています。

栄一が静かに過ごせるようにという、妹夫妻の配慮で部屋の真上には2階部分を造らなかったと伝えられています。



今回の深谷市へのドライブの目的は「渋沢栄一の深谷にある4つの銅像を訪ねよう」ということであったので、最後にJR深谷駅へ車を走らせました。

ところが肝心の深谷駅は外壁改修のため足場設置中で、その雄姿は見ることが出来ませんでした。

この写真は2008年11月2日に熊谷から深谷まで歩いた時のものです。

深谷駅は1883(明治16)年開業、老朽化のため改築する際、郷土の偉人渋沢栄一ゆかりの煉瓦に注目し、現在の駅舎は1996(平成8)年、東京駅を模して新築されました。



深谷駅北口前にある青淵広場には和服姿の渋沢栄一像が駅舎に向かって座っています。

近代日本の発展に貢献した渋沢栄一が東京駅を模した深谷駅を眺めているのでしょう。



同じく深谷駅北口にある、からくり時計の中央ケースには深谷市のイメージキャラクター「ふっかちゃん」が座っていますが、10時、11時などの正時になると、「青い目の人形」のメロディとともに栄一像が日本人形と青い目の人形を手に持って現れます。

栄一が日米友好のかけ橋として、人形を贈り合ったことを記念したものだそうです。

私たちが行った時には丁度11時で栄一像が姿を現した時であったのですが、周りには幼い子供たちにその姿を見せようと言うパパやママがひしめいており、栄一像をカメラに収めることは出来ませんでした。

残念でしたが、からくり時計の中の渋沢栄一像も周囲のパパやママも居なくなり、「ふっかちゃん」だけが残った、からくり時計をカメラに収めた次第です。( ´艸`)


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