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若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

巣鴨界隈ーその2-旧古河庭園

2009年04月20日 | 電車でおでかけ





4月18日(土)妻と二人で王子の飛鳥山公園を見た後、本郷通りを南に下り、旧古河庭園を散策しました。








古河庭園は明治の元勲・陸奥宗光の別邸でしたが、次男が古河財閥の養子になった時、古河家の所有となったそうです。

北側の小高い丘には洋館を建て、斜面には洋風庭園、そして低地には日本庭園を配したのが特徴です。








洋風庭園はジョサイア・コンドル設計で、左右対称の幾何学模様の刈込のフランス整形式庭園と、石の欄干や石段・水盤など、立体的なイタリア露壇式庭園の技法を合わせバラと洋館と調和した絵画的な景観美となっています。

現在のバラ園には、プリンセスマサコ等の品種が植えられています。








洋風庭園の南側にはツツジ園があり今が盛りと咲いていました。







ツツジ園を更に下に降りると広大な日本庭園が広がっています。

日本庭園は近代日本庭園の先駆者として数多くの庭園を手掛けた小川治兵衛により作庭されたそうです。

日本庭園の中心は心字池です。








雪見灯籠が新緑に映えています。

このほか各所に「奥の院型灯籠」や「泰平型灯籠」などたくさんの灯籠がありました。









水を使わないで山水の景観を表現する「枯山水」の道具立てのひとつがこの枯滝だそうです。









茶室では、一服500円でお茶をたててもらうことが出来るそうです。








台地斜面上の大滝付近の植え込みが深山の趣を醸し出しており、庭園の構成に深みを与えています。

この大滝は庭園の設計者小川治兵衛がもっとも力をそそいだと言われています。










洋館はコンドル最晩年の作で、大正6年5月に竣工したそうです。

躯体は煉瓦造、外壁は真鶴産の新小松石(安山岩)の野面積で覆われ、屋根は天然スレート葺き、地上2階・地下1階となっています。

洋館建物内の見学は、往復葉書による事前の申込みが必要だそうです。

喉が渇いたので庭園内の売店でコーヒーを飲んだ後、古河庭園を出て、本郷通りを更に南に下り、「六義園」へ向かいました。



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巣鴨界隈ーその1-飛鳥山公園

2009年04月19日 | 電車でおでかけ




4月18日(土)妻も仕事が休みだったので二人で巣鴨界隈を散策しました。

最初に京浜東北線の王子駅で降りて飛鳥山公園へ行きました。







江戸時代から桜の名所で知られる王子の飛鳥山。

その山の下に戦後の闇市から続くレトロな飲み屋横丁が今も当時のままに残っています。

ここがその「さくら新道」です。








飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が1879年から亡くなる1931年まで、初めは別荘として、後には本邸として住まった邸の跡です。

渋沢邸とその付属施設の大半は太平洋戦争時の空襲で焼失してしまい、現在、青淵文庫と晩香廬のみが残っています。







山形亭(茶室)跡です。

西洋館の書斎でくつろぐ渋沢栄一が窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されているそうです。







青淵文庫(せいえんぶんこ)は、渋沢栄一の80歳のお祝いと、男爵から子爵に昇格した祝いを兼ねて竜門社が寄贈した鉄筋コンクリートの建物です。

1925(大正14)年の竣工で、栄一の書庫として、また接客の場としても使用されました。

渋沢家の家紋「違い柏」に因んで柏の葉をデザインしたステンドグラスやタイルが非常に美しい洋館です。








晩香廬(ばんこうろ)は、渋沢栄一の喜寿を祝って現在の清水建設(株)が贈った洋風茶室です。

1917(大正6)年の竣工で、丈夫な栗材を用いて丹念に作られ、暖炉・薪入れ・火鉢などの調度品、机・椅子などの家具にも、設計者の細やかな心遣いが見られます。







晩香廬は内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして使用されました。








飛鳥山公園を出て本郷通りを歩き旧古河庭園に向かいました。

途中、「七社神社」という神社がありました。

社殿の左右にある八重桜「御衣黄」と「福禄寿」が見事に開花していました。




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浅草に遊ぶ

2009年04月11日 | 電車でおでかけ




初夏を思わせるような陽気の中、妻と二人で浅草へ行って来ました。

浅草は、かれこれ30年以上もご無沙汰していました。







上野駅から浅草通りを歩きました。

仏壇仏具店を横目に、合羽橋道具街通りを横切るとほどなく雷門です。

仲見世は相変わらずの賑わいでした。







浅草寺(せんそうじ)の本堂は改装中でしたが、さすがに立派なものでした。

「せんそうじ」と読むそうですね。(笑)

妻に教えてもらいました。







伝法院の前では人力車の姐さんが頑張っていました。

なかなかのカワイ子ちゃんですよね。

乗っているお客さんは「イケメン」でした。







伝法院通りの店です。

浅草にしては、ちょっと綺麗過ぎますが・・・・・・

今時・・・どこもそうですよね。

京都もそうでした。

綺麗過ぎると少しミーハーな感じがします。







浅草公会堂の前には有名人の手形がずらりと並んでいました。







有名な浅草六区通りですが・・・・・・

ちょっと淋しいですね。







懐かしい浅草松屋のそばを通って、隅田川へ歩いて行きました。

アサヒビールの本社です。

ビールの泡のつもりでしょうが、私にはウンチに見えてなりません。(笑)







隅田川もずいぶん綺麗になったようです。

1歳の長男を連れて妻と三人で行った浅草。

もうあれから32年経ちました。

「天皇・皇后両陛下のように金婚式が迎えられますように・・・」

と浅草寺でお祈りしてきました。




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東海道ー品川宿を歩く

2009年03月21日 | 電車でおでかけ




3連休の中日(21日)妻と二人で品川に行きました。

品川駅は新幹線も停まり、港南口はごらんのようにニューヨークのマンハッタンのビジネス街を思わせます。







そんなオフィス街を抜けると突然、旧東海道ー品川宿が現れました。

品川宿は京浜急行の北品川駅から青物横丁駅にかけての商店街です。

第一京浜国道から分かれて、立体交差しているJR東海道本線の上の八つ山橋を渡り、京浜急行の踏み切りを渡ると、今までの雰囲気と全く違う商店街に入ります。







これが東海道?・・・と思わせるような道幅の狭さです。

それに車も一方通行になっています。

でも・・・なるほどなあ・・・と思わせる商店街です。







「丸屋」という有名な履物店です。

丸屋は東海道品川宿で慶應元年の創業時より、下駄や草履の専門店として営業しています。

とても昭和なたたずまいですね・・・。







「丸屋」の前に「一心寺」というお寺がありました。

一心寺は山村一心により安政2年(1855)に開かれた真言宗のお寺です。

成田山分身の不動明王を本尊とし、昔から延命・商売の守りとして伝えられているそうです。







目黒川にさしかかり鎮守橋から荏原神社を見たところです。

品川には天王社が二つあり、品川神社は「北の天王」、荏原神社は「南の天王」と呼ばれています。








この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次の一宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。

また、海が近く漁業もさかんなところでした。

今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。

「品川橋」は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には「境橋」と呼ばれていたそうです。






有名な松岡畳店です。

大正4年に建てられたそうです。

今も現役の畳屋さんです。

建物右脇の木製の長いすは、お休み処として誰でも自由に休憩できます。








品川宿には神社仏閣が密集しています。

品川寺(ほんせんじ)は、京浜急行の青物横丁駅の前にあります。

品川寺の歴史は古く、大同年間(806年~810年)に開創された品川で最も古いお寺だそうです。








路地裏をのぞいて見ました。

綺麗に手入れのされた素敵な路地裏ですね。







旧東海道をさらに歩き、京浜急行の鮫洲駅付近からはこの勝島運河に平行した道となります。

運河沿いの道に出てみると、昔の街道沿いの面影を感じられます。

以前、旧東海道は文字通り海岸沿いの道であったのですが、今では街道筋からは海は全く見ることが出来ません。







お腹も空いてきたので妻と相談してこの店で昼食を食べました。

昔ながらのラーメンやソース焼きそば・・・懐かしい味でした。

店は非常に繁盛していました。

お腹も満腹になり、もう、かれこれ3時間余り歩いたので、「今日はここまで・・」と二人で話し合って帰路に着きました。



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本郷界隈から御茶ノ水散策

2009年02月21日 | 電車でおでかけ




妻と二人で東京にでかけました。

吹上駅から上野駅まで高崎線でちょうど1時間です。

本郷界隈から御茶ノ水付近まで歩くことにしました。

最初に上野駅から不忍池を通って旧岩崎邸庭園に行きました。







ここは三菱財閥岩崎家本邸として明治29年に完成しました。

かって1万5千坪を超える敷地に20棟以上の建物がありましたが現存するのは洋館・和館・撞球室の3棟のみです。

洋館は木造2階建て・地下室付きの本格的なヨーロッパ式邸宅で、英国人ジョサイア・コンドルの設計です。

イギリス・ルネサンス様式が取り入れられています。







木造ゴシック様式の撞球室(ビリヤード室)です。

校倉造の外観はスイスの山小屋風で洋館と同じくジョサイア・コンドルの設計です。

洋館の地下室とは地下通路で結ばれています。







旧岩崎邸庭園から春日通りを歩いてすぐのところに湯島天神があります。

ちょうど「湯島天神梅まつり」の真っ最中でした。







梅の花がかくも見事に咲いており、受験シーズンとも相まってたくさんの参拝客でごった返していました。







湯島天神から春日通りを本郷に向かう途中、春日局の菩提寺「麟祥院」に立ち寄り、春日局の墓に参拝してきました。

文京区「春日」の地名は春日局が乳母として使えた3代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し昔は春日殿町とよばれていたそうです。








本郷三丁目交差点を右に折れ国道17号線を北に進むと東京大学の赤門にやってきました。

この赤門は旧加賀藩主前田家上屋敷の御守殿門であり、1827年に第13代藩主前田斉泰が第11代将軍徳川家斉の第21女、溶姫を迎える際に造られたそうです。







赤門を入って銀杏並木と素晴らしいゴシック様式の校舎を見ながら歩いていくと有名な三四郎池に出ました。

三四郎池の正式名称は、「育徳園心字池」というそうです。

この池は、江戸時代は加賀藩邸の庭園の一部だったそうですが、明治に入って東京大学に移管され、後に夏目漱石の小説『三四郎』にちなんで、「三四郎池」と呼ばれるようになったそうです。








法文2号館アーケードです。

法文1号館と法文2号館は安田講堂を突き当たりとする道を挟んで左右対称に設計されており、通りに直角に両建物を横切って古風なアーケードが設けられています。

列柱には古代ギリシャ風の彫刻が刻まれ、現代では考えられない贅沢な造りです。

もう・・・さすが東大!!という感じですね。








東京大学のシンボル「安田講堂」です。

時計を見ると12時を過ぎていたので安田講堂前広場の地下にある中央食堂で昼食をとりました。

安いし美味いし・・・超エリートたちが静かに食事をしているドーム状の構造が素敵らしく「ここが家の近くであれば毎日でも来たいわ・・」というほど妻はお気に入りのようでした。(笑)









東大を出て国道17号線を御茶ノ水方面にもどり湯島聖堂、聖橋を渡ってニコライ堂を写真に収めました。

ニコライ堂の名で知られる東京復活大聖堂教会は、ギリシャ正教とも呼ばれる正教会の教会です。

主イイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ語読み)の復活を記念した聖堂ですが、ロシアから正教伝道のために来日し日本に骨を埋められた亜使徒聖ニコライがその建立にあたったことから「ニコライ堂」の名で知られています。








最後に神田明神に参拝して妻恋坂から池之端一丁目を通り不忍池に戻りました。

午前10時頃から昼食をはさんで4時間余、ちょうど良いウォーキングでした。

心地よい疲れと喉が渇いたので上野駅構内の「ドトール珈琲店」でコーヒーを飲んで帰路に着きました。




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