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若草物語

妻と二人で愛車プリウスに乗って、あちこち出かけ、デジカメで撮った写真が中心のブログです。

埼玉モダンたてものを見て歩くーその3ー本庄市・児玉町

2014年03月02日 | 埼玉モダンたてもの散歩


2月22日(土)妻と二人で愛車プリウスに乗って「本庄市と児玉町のモダンたてもの」を見て歩きました。

本庄駅近くのスーパーへ車を止めて、最初に本庄市中央1丁目の「諸井家住宅」を探しました。

旧中山道を下り、1週間前に降った大雪の雪かきをしている人たちに訊いてやっと探し当てました。

明治13年に建てられた木造二階建て漆屋造りで、屋根は切妻桟瓦葺き、正面の洋風モチーフのベランダや色ガラスのアーチ窓など随所に洋風様式を取り入れています。

この家は、秩父セメントや秩父鉄道の社長を歴任した諸井恒平が育った家でもあります。



次に行ったのが、同じく中央1丁目にある「本庄市立歴史民族資料館」です。

この建物は、昭和10年まで本庄警察署として利用され、その後、本庄消防団本部、簡易裁判所、区検察庁、本庄公民館、図書館を経て、昭和55年に資料館となりました。

本館の周辺は、大正12年の関東大震災の時に朝鮮の人たちが殺害された痛ましい事件や、昭和23年に学生と市民が民主化を求めて立ち上がった本庄事件など、忘れてはならない歴史的現場となった場所でもあります。



旧中山道を更に下ると明治27年建築の旧本庄商業銀行の煉瓦造倉庫が見えてきました。

手前の駐車場スペースには、かつて平屋建ての銀行営業場の建物があったそうです。

長い間、ローヤル洋菓子店として使われていましたが平成23年に閉店し、現在は本庄市が管理し、建物の再生の道を探っているとのことです。



旧中山道を更に下ると見えてきたのが「旧中澤医院」です。

大正15年竣工の木造2階建ての洋館です。

既に代替わりし、別の場所にて開院のため、現在この建物は使われていません。

映画等のロケ現場として、使われているそうです。



明治43年から平成21年まで営業していた酒問屋「小森商店」の蔵を利用したと言う「CAFE NINOKURA」。

3つあった蔵のうち、味噌・醤油蔵だった「二の蔵」を改蔵して出来たそうです。

奥に見えるのは「三の蔵」で、現在は「本庄赤レンガホール」になっています。

煉瓦の魅力ある空間で小コンサート、美術展、サークル等の会議やパーティーが行われています。



中山道を上り、本庄駅の近くに戻ると、重厚な煉瓦の建物が見えて来ました。

大正9年竣工の「旧大政商店本庄支店」です。

大政商店は戦時中まで化学肥料を取扱う卸問屋でした。

両脇の壁や「うだつ」には、深谷の堅牢な煉瓦が使われています。

本庄市の名士である諸井家の諸井恒平が日本煉瓦製造の創設時からのメンバーであり、後に取締役も務めているため、隣の深谷市と同様、本庄市にも赤煉瓦を使って建造された蔵や工場が多いのだそうです。



これで本庄市の旧中山道界隈を見終わったので、本庄駅近くの「徳樹庵」で昼食を取り、今度は児玉町に向かいました。

本庄市役所児玉支所に車を止めて、親切な守衛さんに道順を教えてもらって「競進社模範蚕室」へ向かう途中、写真に収めたい古い旅館がありました。

「田島旅館」とあります。



その近くにある「チハラ金物店」という店で、何と・・・私が探し求めていた「雪かき」が店先に並べられていました。

先週・先々週の大雪のため品切れで、我が家近辺のホームセンターからすっかり姿を消していたあの・・「雪かき」が・・・・



火力応用の換気乾燥飼育法である「一派温暖育」を考案した木村九蔵は、明治10年に「養蚕改良競進組」を結成し、その普及に努め、全国からの伝習生に指導しました。

明治27年にその児玉蚕業伝習所内に建築されたのが、この「競進社模範蚕室」だそうです。

換気を最優先に考えた二階の高窓や、各室に炉や床下の空気取入れ口を備えたこの蚕室は、競進社流養蚕法を学んだ伝習生たちが模範としたことから模範蚕室と呼ばたようです。



本日の見て歩きの最後は「児玉町旧配水搭」です。

町民の水道整備への願いをかなえるべく昭和6年に竣工した県下3番目の近代水道施設で、現在も、まちのシンボルとして保存されていますが、残念ながら工事中であり、レトロ感漂う愛らしい姿を見ることが出来ませんでした。

愛車プリウスの待つ本庄市役所児玉支所の駐車場への途中、あの「雪かき」を買って帰ったことは言うまでもありません。


埼玉モダンたてものを見て歩くーその2-「近代日本経済の父」渋沢栄一と深谷市

2014年02月16日 | 埼玉モダンたてもの散歩


2月13日(木)妻と二人で愛車プリウスに乗って渋沢栄一の生誕地である深谷市のモダンたてものを見て歩きました。

熊谷地方で43センチ、1954年以来60年ぶりで観測史上第2位の積雪となる大雪となったばかりで深谷の町にも、あちらこちらにまだ残雪が残っていました。



最初に行ったのが「埼玉県立深谷商業高等学校記念館」です。

別名「二層楼」と言い、大正11年に竣工し、現在は国の有形文化財に登録されています。

この「深商記念館」は度々、テレビドラマのロケでも使用されており、数年前は元AKBの前田敦子が主演したドラマのロケがあったそうです。



次に深谷市役所へ行き、パンフレットをもらい、市役所から深谷駅近辺の見所を歩きました。

最初に行ったのが、この「小林商店」です。

左側の煉瓦蔵は大正元年の竣工。右側の洋風の店舗は昭和2年竣工の木造。

砂糖問屋の事務所でした。

材質の異なる2つの建物の対比が目を引きます。



この煉瓦煙突は「七ツ梅酒造」で、株式会社田中藤左衛門商店が醸造していた清酒の銘柄でした。

銘酒"七ツ梅"は、江戸時代に「酒は剣菱、男山、七ツ梅」といわれた三大銘柄の1つ。

幕府大奥の御膳酒として愛飲されたそうです。



平成16年(2004)に田中藤左衛門商店が廃業した後は、使われなくなっていた酒蔵がよみがえり、今はノスタルジックなロケ地に。

豆腐工房、カフェ、古書店「円の庭」、映画館「深谷シネマ」が集まる深谷のホットな新名所になっています。



古くは宿場町として栄えた中山道深谷宿。

その街道沿いに、煉瓦造りの酒蔵「滝澤酒造」があります。

「菊泉(きくいずみ)」の創業は文久三年(1863年)です。

 


蔵の建築物は、酒造りに適した地元特産の煉瓦をふんだんに用いています。



「菊泉」の巨大な煉瓦煙突は、全高30メートル以上。

数度の地震や戦争での銃撃に耐え、現在も凛とそびえています。



深谷産煉瓦の外壁の小路がレトロな雰囲気を醸し出しています。

「滝澤酒造」を見た後、深谷市役所に戻り、市役所地下の食堂で昼食を食べた後、愛車プリウスに乗って、埼玉が誇る明治の大実業家・渋沢栄一の足跡をたどりました。



「誠乃堂」(せいしどう)は、大正5年(1916)、渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って第一銀行の行員たちの出資により建築されました。

外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な意匠を取り入れるなど、様々な要素が盛り込まれ、それらがバランスよくまとめられています。



「誠之堂」は、大寄公民館の敷地内にある歴史的建造物で、平成15年5月30日に国の重要文化財に指定されました。

これは「誠乃堂」の中心の大広間です。

暖炉脇の窓には、6面のステンドグラスが配され、大きな見所となっています。



次の間の出窓です。

まるで雪見障子のようです。



「誠乃堂」と同じく大寄公民館の敷地内にあるのが「清風亭」です。

「清風亭」は、大正15年(1926)に、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して、誠之堂と並べて建てられました。



屋根のスパニッシュ瓦、ベランダの5連アーチ、出窓のステンドグラスや円柱装飾など、設計者の西村好時自身が「南欧田園趣味」と記述している当時流行していたスペイン風の様式が採られています。

埼玉県の有形文化財に指定されています。



八基小学校の東隣りにある「渋沢栄一記念館」は渋沢栄一の書、写真、伝記資料等約150点余りを展示しています。

渋沢の書の他にも、徳川慶喜、勝海舟、大隈重信など明治人の書がたくさん展示されています。

行った日(2月13日)は奇しくも渋沢栄一の誕生日であり、記念館では「第8回渋沢栄一生誕祭」が開催される日で、関係者はその準備に追われていました。



「記念館」のすぐ近くにある渋沢栄一の生家「中の家」(なかんち)です。

現在の主屋は明治28年に栄一の妹婿である渋沢市郎が再建したものだそうです。

屋根に「煙出し」と呼ばれる天窓のある典型的な養蚕農家のかたちを残しています。



奥の十畳の部屋は、帰郷する栄一のために市郎が特に念入りに作らせたと伝えられています。



最後に渋沢栄一が明治21年に設立した日本煉瓦製造㈱の「旧煉瓦製造施設」を見に行きました。

ピンクの下見板張りの外壁が印象的な建物は、ドイツ人煉瓦製造技師の住居兼事務所としてつくられたものです。

現在も史料館として公開されていますが、開館日が金曜日のみということで、その日は外から見るだけでした。

第一国立銀行のほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、東急電鉄、秩父セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれています。

渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにあります。

「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めたということです。

私と妻は渋沢栄一の偉大さに只々感嘆しながら帰路に着いたのであります。



埼玉モダンたてものを見て歩くーその1-東松山市・入間市・ときがわ町

2014年01月20日 | 埼玉モダンたてもの散歩


1月18日(土)、妻と二人で愛車プリウスに乗って、「埼玉モダンたてもの―きまぐれ散歩」に出掛けました。

埼玉県が、近現代の建築物を紹介するガイドブックで、県内の113の住宅や学校、工場などを写真や地図で掲載した冊子「埼玉モダンたてものーきまぐれ散歩」が無料で配布されています。

私たちは、この113のモダンたてものを全部見て歩くことにしました。

先ずは東松山市へ。

「松山高等学校記念館」です。

旧制松山中学校の設置認可に伴い、大正12年に完成しました。

大正ロマンを詰め込んだ学び舎は装飾も華やかです。



次に行ったのが、昔は米の卸問屋であった「江野家」です。

切妻屋根の堂々とした蔵造りの主屋は、明治後期に建てられました。



小さな煉瓦蔵と主屋の間の門に飾られた絵馬がユニークです。



「江野家」の左隣にある「島田医院」もなかなか洒落た建物です。

元は郵便局であったそうです。

右側にある郵便ポストはその名残りなのでしょうか。

本町1丁目、2丁目には、こういう懐かしい建物が散見されましたが、最近では壊されて駐車場に変わることも多いようです。



東松山市立図書館の駐車場に車を止めて、神明町まで歩きました。

神明町1丁目1番地の「堤公認会計事務所」を探すのですがなかなか見つかりません。

やさしそうな奥さんに尋ねると、わざわざ目指す家まで案内してくれました。

昭和初期の洋館付き住宅です。

大谷石の門柱も装飾がモダンです。



スパニッシュ瓦にトンガリ屋根が可愛い。

耳を澄ませば応接間の古い蓄音機からクラシック音楽が流れてきそうですね。

これで東松山市は終りです。

鶴ヶ島のガストでの昼食をはさんで入間市に向かいました。



入間市で先ず最初に行ったのが「日本キリスト教団武蔵豊岡教会」です。

「日本キリスト教団武蔵豊岡教会」(旧豊岡メソジスト教会)は、石川組製糸の創始者 石川幾太郎の弟である石川和助によって大正12年に設立された教会です。

残念なことに改修工事中で「工事区域内立ち入り禁止・路上駐車禁止・一方通行逆走禁止」とかで中には入れませんでした。

後で気付いたのですが、この教会の目と鼻の先に石川幾太郎が大正11年頃に建てた「旧石川組製糸西洋館」があったのですが、ガイドブックの別のページに書かれていたので見過ごしてしまいました。

またの機会に行ってみたいと思います。



国道16号を八王子方面に進み、入間市宮寺と書かれた歩道橋のある三叉路右手に見えてきたのが「カトリック入間宮寺教会」です。

明治43年メーラン神父によってカトリック教会としては県内で初めて作られた教会です。

毎週日曜日の朝、カランカランと鐘が響くそうです。



入間市の最後は「入間市文化創造アトリエ・アミーゴ」(旧埼玉県繊維工業試験場入間支場)です。

大正5年、この地に後の埼玉県繊維工業試験場となる仏子模範工場が地域の繊維業者によって建てられました。

大正、昭和、平成と三つの時代を経て試験場は平成10年3月その役目を終え長い歴史に幕を閉じました。



まだまだ活躍できると主張する残された建物は文化創造の場に最適でした。

2年かけて再生された「入間市文化創造アトリエ・アミーゴ」。

地域の中でまちを育み人を育てたこの施設はここで更なるまちづくり、人づくりの館としてよみがえりました。

なおガイドブックには「ジョンソンタウン」も載っていたのですが「ジョンソンタウン」については2011年2月17日に訪れており、このブログでも紹介しています。



本日の最後の訪問先は、ときがわ町の「ときがわ町立萩ヶ丘小学校」です。

この学校は明治7年に萩ヶ丘学校として開校されました。

平成16年には、大椚第一小学校、大椚第二小学校、平小学校が統合され萩ヶ丘小学校として開校され、本年開校十周年を迎える全校児童四十九名の小規模校だそうです。



緑と清流のときがわ町の一番奥に位置し、地元の豊富な森林資源を活用して建築され四本の大柱が二階まで貫く檜の木造校舎です。

校歌の題名「木の里に輝いて」を合言葉に、学校、家庭、地域が連携した教育実践を行っています。