
2月22日(土)妻と二人で愛車プリウスに乗って「本庄市と児玉町のモダンたてもの」を見て歩きました。
本庄駅近くのスーパーへ車を止めて、最初に本庄市中央1丁目の「諸井家住宅」を探しました。
旧中山道を下り、1週間前に降った大雪の雪かきをしている人たちに訊いてやっと探し当てました。
明治13年に建てられた木造二階建て漆屋造りで、屋根は切妻桟瓦葺き、正面の洋風モチーフのベランダや色ガラスのアーチ窓など随所に洋風様式を取り入れています。
この家は、秩父セメントや秩父鉄道の社長を歴任した諸井恒平が育った家でもあります。

次に行ったのが、同じく中央1丁目にある「本庄市立歴史民族資料館」です。
この建物は、昭和10年まで本庄警察署として利用され、その後、本庄消防団本部、簡易裁判所、区検察庁、本庄公民館、図書館を経て、昭和55年に資料館となりました。
本館の周辺は、大正12年の関東大震災の時に朝鮮の人たちが殺害された痛ましい事件や、昭和23年に学生と市民が民主化を求めて立ち上がった本庄事件など、忘れてはならない歴史的現場となった場所でもあります。

旧中山道を更に下ると明治27年建築の旧本庄商業銀行の煉瓦造倉庫が見えてきました。
手前の駐車場スペースには、かつて平屋建ての銀行営業場の建物があったそうです。
長い間、ローヤル洋菓子店として使われていましたが平成23年に閉店し、現在は本庄市が管理し、建物の再生の道を探っているとのことです。

旧中山道を更に下ると見えてきたのが「旧中澤医院」です。
大正15年竣工の木造2階建ての洋館です。
既に代替わりし、別の場所にて開院のため、現在この建物は使われていません。
映画等のロケ現場として、使われているそうです。

明治43年から平成21年まで営業していた酒問屋「小森商店」の蔵を利用したと言う「CAFE NINOKURA」。
3つあった蔵のうち、味噌・醤油蔵だった「二の蔵」を改蔵して出来たそうです。
奥に見えるのは「三の蔵」で、現在は「本庄赤レンガホール」になっています。
煉瓦の魅力ある空間で小コンサート、美術展、サークル等の会議やパーティーが行われています。

中山道を上り、本庄駅の近くに戻ると、重厚な煉瓦の建物が見えて来ました。
大正9年竣工の「旧大政商店本庄支店」です。
大政商店は戦時中まで化学肥料を取扱う卸問屋でした。
両脇の壁や「うだつ」には、深谷の堅牢な煉瓦が使われています。
本庄市の名士である諸井家の諸井恒平が日本煉瓦製造の創設時からのメンバーであり、後に取締役も務めているため、隣の深谷市と同様、本庄市にも赤煉瓦を使って建造された蔵や工場が多いのだそうです。

これで本庄市の旧中山道界隈を見終わったので、本庄駅近くの「徳樹庵」で昼食を取り、今度は児玉町に向かいました。
本庄市役所児玉支所に車を止めて、親切な守衛さんに道順を教えてもらって「競進社模範蚕室」へ向かう途中、写真に収めたい古い旅館がありました。
「田島旅館」とあります。

その近くにある「チハラ金物店」という店で、何と・・・私が探し求めていた「雪かき」が店先に並べられていました。
先週・先々週の大雪のため品切れで、我が家近辺のホームセンターからすっかり姿を消していたあの・・「雪かき」が・・・・

火力応用の換気乾燥飼育法である「一派温暖育」を考案した木村九蔵は、明治10年に「養蚕改良競進組」を結成し、その普及に努め、全国からの伝習生に指導しました。
明治27年にその児玉蚕業伝習所内に建築されたのが、この「競進社模範蚕室」だそうです。
換気を最優先に考えた二階の高窓や、各室に炉や床下の空気取入れ口を備えたこの蚕室は、競進社流養蚕法を学んだ伝習生たちが模範としたことから模範蚕室と呼ばたようです。

本日の見て歩きの最後は「児玉町旧配水搭」です。
町民の水道整備への願いをかなえるべく昭和6年に竣工した県下3番目の近代水道施設で、現在も、まちのシンボルとして保存されていますが、残念ながら工事中であり、レトロ感漂う愛らしい姿を見ることが出来ませんでした。
愛車プリウスの待つ本庄市役所児玉支所の駐車場への途中、あの「雪かき」を買って帰ったことは言うまでもありません。
