「石巻市に足を運んで
人間科学専攻Aさん
9月14日から9月16日にかけてわたしたち〇〇〇〇ゼミ計8名で宮城県石巻市を訪れた。震災以後、一度も被災地を訪れたことがなかった私にとって、今回こうして足を運ぶきっかけを頂けたことはとても幸いなことであり、大いに意義があることだった。東日本大震災から約2年半が経った今、最近では原発関連のニュースが大半になり、被災地の復興に関する、実際に目にして現状を知ることができることは、大変貴重なことだと感じた。
新幹線で仙台駅に到着し、そこからバスに乗って一時間、私たちは石巻市のイオンモールの駐車場に着いた。私がここに来るまでの道のりで感じたことは、案外地震の被害は市街地にはなかったのかな、というぼんやりとした印象だった。イオンモールで今回案内をしてくださるAさんと合流をし、石巻市の一番被害の大きかった場所まで連れて行って頂いた。Aさんは緊張感のない私たちの空気を感じ取ってか、「被害があった地域はこの先だよ。衝撃を受けるかもしれないから、心の準備をしておいてね。」とおっしゃった。被災地に到着してわたしはびっくりした。真っ白な更地だったからだ。ここはもともとそういう土地だったのかと勘違いしてしまうほど何もなかった。家も、瓦礫もきれいにない更地だった。そこはとても静かで穏やかで、本当に二年前に大津波に襲われたところなのか疑ってしまうくらいだった。きれいに片付いた土地、その横には錆びれてつぶれた車が整列していた。こんな瓦礫がここにはたくさんあったのだろうなと、ぼんやりと想像することしかできず、私は恥ずかしかった。もっと早くに訪れていれば、何か私でも力になれたことがあったはずなのに、なぜ私は動かなかったのかと後悔の念を抱いた。私がこれまでに被災地のためにしたことと言えば、冬に服の寄付やご飯の寄付、募金をしたくらいだ。テレビで観た人や建物が津波で流されていく風景や、被災後の瓦礫の山となった風景や、人々の混乱を、このきれいに片づけられた更地に当てはめて想像力を働かせてみても、想像だけでは限界があった。ニュースでしか情報を知らない私が、本当にここまで来て良かったのか、不安に感じてしまった。そんな私たちに対し、Aさんは一つずつ丁寧に当時の状況を語ってくださった。津波の様子、逃げ惑う人々の様子、車で逃げようとした人たちが震災当時大勢いたが、その大半が津波に飲まれた土砂が車の中に入り逃げられず窒息死していたという事実に私は衝撃を受けた。地面にはもちろんん、そういった死体がいたるところに目の前にあった。Aさんの話を聞くうちに、Aさんを含め、この地震の被害にあった方々は、私が到底想像もできないほどの深い傷と、絶望や悲しみ、困難、苦労を乗り越えて今ここに生きているのだということを改めて実感した。それと共に、困難を生き抜いてきたからこその「強さ」というものがAさんから伝わってきた。
一番被害があった地域からバスにまた乗り30分程度、漁師をされているAさんが住んでいる漁村に向かった。その場所は海の近くということで、先の場所と同様に被害は大きかったことは想像できた。着いたところは山と海に囲まれたきれいな場所だった。ここもきれいに片づけられてぱっと見は被災地だとはわからなかったが、村の片隅にフェンスで囲まれた地域があった。その中には片づけられた瓦礫の山がそのまま手つかずで放置されていた。市内部はきれいに片づけられているけれども、市内を少し離れると復興が途中で止まってしまっている現実を知ってほしいとAさんはおっしゃっていた。散歩がてら旅館の周りを歩いていると、よく見ると草も伸びっぱなしのところがあり、ここにはかつて住宅があったのではないかと、当時の被害が窺えた。一番まざまざと津波の被害を知れたのはAさんの元あったご自宅だ。被災した当時のまま立つその家は私にはあまりにも衝撃だった。雨ざらしにならないようにふさいだ壁、家の中は骨格しか残っていなかった。床もない壁もない天井もない風景は、よくリフォーム番組で見かけることはあっても、実際にこうして目にするのは初めてで、それは家丸ごとさらっていく津波の脅威を物語っていた。Aさんはそこで改めてご自分の被災時の体験を語ってくださった。家の前はすぐ海なので、Aさんは文字通り津波を目の前で体験した方だ。こういった方のお話を聞けることは大変貴重だった。家の2階より上まで津波が来たこと、ロープにつかまり必死で流されないように踏ん張ったこと、家に何かを取りに行ってしまった親戚お二方は今も行方不明なこと、目の前で津波に流される人を何人も見たこと、被災したその日は山の中で一晩過ごしたこと。3月という寒い中で一晩外で生き延びるのも大変なことだ。その一晩は恐怖心というより、生き延びることで精いっぱいだったこと。次の日に10時間以上もかけて瓦礫の山死体の山をよけながら道なき道を歩いてお子さんを探しに街の方に歩いたこと。Aさんがたくさんお話してくださった中で一番心に残った言葉は「とにかく生きてほしい」ということだ。「死にたくなくてもなくなった人たちがたくさんこの市にはいる。だから命を無駄にしてほしくはない。自殺などは絶対にしてほしくない行為だ。」とおっしゃっていた。そして、いざもし関東に地震が起き津波が来たとしても、大事なことは「生き延びること。」たとえ隣で津波に流されそうな人がいて、自分がその人より10センチ前にいたなら、その人を置いて逃げなさい、とにかく高いところに逃げなさい、引き返したりはせず逃げなさい、というのが津波を体験したAさんの教えだった。どうしようもない自然の驚異に対しては逆らうことが出来ないのだから自分の命を守ることが精いっぱいなのが現実だとAさんは語った。Aさんが語る言葉は一つ一つがとても重く忘れてはいけないことだらけだと感じた。
気になることは2年半たった現状だ。漁師であるAさんは帰り道に海でとれたアワビとウニを食べさせてくださった。福島第一原発の汚染水問題で気になるセシウムだが、漁師の方々はきちんと検査を一匹一匹されていることを教えて頂いた。それでも風評被害がどうしても絶えないとAさんは嘆いており、私はウニもアワビも頂き、とても美味しくて感動したので、以前と変わらず東北には美味しい魚介がたくさんあるのだということを知ってもらいたい、風評に流されるのではなく、たくさんの人たちにまず食べてもらいたいと、心から感じた。また、Aさんがその他にも強く訴えていたのは、復興支援が十分に行き届いていないことだった。たくさん被災された方がいる中で、震災前からいろんな暮らしをされていた方々全員が同じように満足のいく支援をするのは難しいことではある。しかしそういうことではなくもっと政府には被災地の人の生活に寄り添ってもらいたいという思いが伝わってきた。メディアもちいさな漁村にはいまや取材は入ってこず、きれいに片付いた石巻市内にばかり目を向け、一般的に復興が進んでいるようにメディアに映して終わらせてしまっているのが現実で、まだまだ復興が進んでいない地域、震災前の生活を取り戻せている人はほとんどいないことを教えてくださった。未だに仮設住宅の方もたくさんいらっしゃるので、少しずつ暮らしが改善されることを祈るばかりだ。
今回の研修で私が感じたのは、もう一度被災地の方々のことを日本にいるたくさんの人に考えて行動してほしいということである。どんな事件でも、メディアで報道の数が少なくなるにつれ、つい人々の頭の中からは徐々に薄れていくものだが、被災された方は今でもなお戦っているということを忘れてはいけない。「絆」「がんばろう日本」と日本中でこういった言葉が掲げられているがAさんは言葉できれいにまとめられてしまっているのが現実だとおっしゃっていた。いくらどんなに遠くから東北の復興を願っても、言葉、想いだけでは当たり前だが全く現状は変わらないのだ。もちろん祈ることが無駄だと言っているのではない。しかし、本当に「絆」を作るためには、行動が伴わないとそれは生まれないのだと今回の研修で強く感じた。なぜなら、私もこうして被災地に足を運びAさんに出会うことで初めて、ただ「被災地」であったものが、「行ったことのある、知っている町」になり、「Aさんがいる町」になり、「私も何か力になりたいと思える町」に変わったからだ。これが「絆」なのではないか。「がんばろう」と言葉だけになる前に、そして風評に流される前に、まずたくさんの人に被災地にぜひ足を運んで頂きたい。そうすることでより被災地を近く感じることができ、他人とは異なる自分なりの被災地に対する考え、想いも生まれるだろう。そこから自分はいったい彼らのために何が出来るのか、今一度多くの人に考えてほしいと感じた。」
(慶応義塾大学文学部 3.11石巻復興祈念ゼミ合宿報告書より)
人間科学専攻Aさん
9月14日から9月16日にかけてわたしたち〇〇〇〇ゼミ計8名で宮城県石巻市を訪れた。震災以後、一度も被災地を訪れたことがなかった私にとって、今回こうして足を運ぶきっかけを頂けたことはとても幸いなことであり、大いに意義があることだった。東日本大震災から約2年半が経った今、最近では原発関連のニュースが大半になり、被災地の復興に関する、実際に目にして現状を知ることができることは、大変貴重なことだと感じた。
新幹線で仙台駅に到着し、そこからバスに乗って一時間、私たちは石巻市のイオンモールの駐車場に着いた。私がここに来るまでの道のりで感じたことは、案外地震の被害は市街地にはなかったのかな、というぼんやりとした印象だった。イオンモールで今回案内をしてくださるAさんと合流をし、石巻市の一番被害の大きかった場所まで連れて行って頂いた。Aさんは緊張感のない私たちの空気を感じ取ってか、「被害があった地域はこの先だよ。衝撃を受けるかもしれないから、心の準備をしておいてね。」とおっしゃった。被災地に到着してわたしはびっくりした。真っ白な更地だったからだ。ここはもともとそういう土地だったのかと勘違いしてしまうほど何もなかった。家も、瓦礫もきれいにない更地だった。そこはとても静かで穏やかで、本当に二年前に大津波に襲われたところなのか疑ってしまうくらいだった。きれいに片付いた土地、その横には錆びれてつぶれた車が整列していた。こんな瓦礫がここにはたくさんあったのだろうなと、ぼんやりと想像することしかできず、私は恥ずかしかった。もっと早くに訪れていれば、何か私でも力になれたことがあったはずなのに、なぜ私は動かなかったのかと後悔の念を抱いた。私がこれまでに被災地のためにしたことと言えば、冬に服の寄付やご飯の寄付、募金をしたくらいだ。テレビで観た人や建物が津波で流されていく風景や、被災後の瓦礫の山となった風景や、人々の混乱を、このきれいに片づけられた更地に当てはめて想像力を働かせてみても、想像だけでは限界があった。ニュースでしか情報を知らない私が、本当にここまで来て良かったのか、不安に感じてしまった。そんな私たちに対し、Aさんは一つずつ丁寧に当時の状況を語ってくださった。津波の様子、逃げ惑う人々の様子、車で逃げようとした人たちが震災当時大勢いたが、その大半が津波に飲まれた土砂が車の中に入り逃げられず窒息死していたという事実に私は衝撃を受けた。地面にはもちろんん、そういった死体がいたるところに目の前にあった。Aさんの話を聞くうちに、Aさんを含め、この地震の被害にあった方々は、私が到底想像もできないほどの深い傷と、絶望や悲しみ、困難、苦労を乗り越えて今ここに生きているのだということを改めて実感した。それと共に、困難を生き抜いてきたからこその「強さ」というものがAさんから伝わってきた。
一番被害があった地域からバスにまた乗り30分程度、漁師をされているAさんが住んでいる漁村に向かった。その場所は海の近くということで、先の場所と同様に被害は大きかったことは想像できた。着いたところは山と海に囲まれたきれいな場所だった。ここもきれいに片づけられてぱっと見は被災地だとはわからなかったが、村の片隅にフェンスで囲まれた地域があった。その中には片づけられた瓦礫の山がそのまま手つかずで放置されていた。市内部はきれいに片づけられているけれども、市内を少し離れると復興が途中で止まってしまっている現実を知ってほしいとAさんはおっしゃっていた。散歩がてら旅館の周りを歩いていると、よく見ると草も伸びっぱなしのところがあり、ここにはかつて住宅があったのではないかと、当時の被害が窺えた。一番まざまざと津波の被害を知れたのはAさんの元あったご自宅だ。被災した当時のまま立つその家は私にはあまりにも衝撃だった。雨ざらしにならないようにふさいだ壁、家の中は骨格しか残っていなかった。床もない壁もない天井もない風景は、よくリフォーム番組で見かけることはあっても、実際にこうして目にするのは初めてで、それは家丸ごとさらっていく津波の脅威を物語っていた。Aさんはそこで改めてご自分の被災時の体験を語ってくださった。家の前はすぐ海なので、Aさんは文字通り津波を目の前で体験した方だ。こういった方のお話を聞けることは大変貴重だった。家の2階より上まで津波が来たこと、ロープにつかまり必死で流されないように踏ん張ったこと、家に何かを取りに行ってしまった親戚お二方は今も行方不明なこと、目の前で津波に流される人を何人も見たこと、被災したその日は山の中で一晩過ごしたこと。3月という寒い中で一晩外で生き延びるのも大変なことだ。その一晩は恐怖心というより、生き延びることで精いっぱいだったこと。次の日に10時間以上もかけて瓦礫の山死体の山をよけながら道なき道を歩いてお子さんを探しに街の方に歩いたこと。Aさんがたくさんお話してくださった中で一番心に残った言葉は「とにかく生きてほしい」ということだ。「死にたくなくてもなくなった人たちがたくさんこの市にはいる。だから命を無駄にしてほしくはない。自殺などは絶対にしてほしくない行為だ。」とおっしゃっていた。そして、いざもし関東に地震が起き津波が来たとしても、大事なことは「生き延びること。」たとえ隣で津波に流されそうな人がいて、自分がその人より10センチ前にいたなら、その人を置いて逃げなさい、とにかく高いところに逃げなさい、引き返したりはせず逃げなさい、というのが津波を体験したAさんの教えだった。どうしようもない自然の驚異に対しては逆らうことが出来ないのだから自分の命を守ることが精いっぱいなのが現実だとAさんは語った。Aさんが語る言葉は一つ一つがとても重く忘れてはいけないことだらけだと感じた。
気になることは2年半たった現状だ。漁師であるAさんは帰り道に海でとれたアワビとウニを食べさせてくださった。福島第一原発の汚染水問題で気になるセシウムだが、漁師の方々はきちんと検査を一匹一匹されていることを教えて頂いた。それでも風評被害がどうしても絶えないとAさんは嘆いており、私はウニもアワビも頂き、とても美味しくて感動したので、以前と変わらず東北には美味しい魚介がたくさんあるのだということを知ってもらいたい、風評に流されるのではなく、たくさんの人たちにまず食べてもらいたいと、心から感じた。また、Aさんがその他にも強く訴えていたのは、復興支援が十分に行き届いていないことだった。たくさん被災された方がいる中で、震災前からいろんな暮らしをされていた方々全員が同じように満足のいく支援をするのは難しいことではある。しかしそういうことではなくもっと政府には被災地の人の生活に寄り添ってもらいたいという思いが伝わってきた。メディアもちいさな漁村にはいまや取材は入ってこず、きれいに片付いた石巻市内にばかり目を向け、一般的に復興が進んでいるようにメディアに映して終わらせてしまっているのが現実で、まだまだ復興が進んでいない地域、震災前の生活を取り戻せている人はほとんどいないことを教えてくださった。未だに仮設住宅の方もたくさんいらっしゃるので、少しずつ暮らしが改善されることを祈るばかりだ。
今回の研修で私が感じたのは、もう一度被災地の方々のことを日本にいるたくさんの人に考えて行動してほしいということである。どんな事件でも、メディアで報道の数が少なくなるにつれ、つい人々の頭の中からは徐々に薄れていくものだが、被災された方は今でもなお戦っているということを忘れてはいけない。「絆」「がんばろう日本」と日本中でこういった言葉が掲げられているがAさんは言葉できれいにまとめられてしまっているのが現実だとおっしゃっていた。いくらどんなに遠くから東北の復興を願っても、言葉、想いだけでは当たり前だが全く現状は変わらないのだ。もちろん祈ることが無駄だと言っているのではない。しかし、本当に「絆」を作るためには、行動が伴わないとそれは生まれないのだと今回の研修で強く感じた。なぜなら、私もこうして被災地に足を運びAさんに出会うことで初めて、ただ「被災地」であったものが、「行ったことのある、知っている町」になり、「Aさんがいる町」になり、「私も何か力になりたいと思える町」に変わったからだ。これが「絆」なのではないか。「がんばろう」と言葉だけになる前に、そして風評に流される前に、まずたくさんの人に被災地にぜひ足を運んで頂きたい。そうすることでより被災地を近く感じることができ、他人とは異なる自分なりの被災地に対する考え、想いも生まれるだろう。そこから自分はいったい彼らのために何が出来るのか、今一度多くの人に考えてほしいと感じた。」
(慶応義塾大学文学部 3.11石巻復興祈念ゼミ合宿報告書より)