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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『心の健康を求めて‐現代家族の病理』より‐行動化と対象支配

2025年04月25日 01時09分21秒 | 本あれこれ

衝撃的な行動化‐

 見捨てられ抑うつないしは口愛的攻撃性が優勢な状況で動員されるのが分裂、投影同一視といった未熟な防御規制であることはよく知られている。これらの防衛規制によって作り出されるのが先に述べた部分的対象関係である。ただしかし、こうした部分的対象関係を基盤にして形成された人格構造はあやういため、患者は容易に見捨てられ抑うつを表面化させることを知っておかねばならない。

 問題は、こうした見捨てられ抑うつがどのような臨床的現象をもたらすかである。何をおいても挙げておかねばならないのは激しい衝動的な行動化である。その中でもっとも知られているのが手首自傷であろう。左右のいずれかの手首に傷をつけることであるが、その程度はかすり傷から神経ないしは血管を切断するほどの深い傷までさまざまだし、場合によると、前腕に横縞様の切傷を作ることもある。そして。遂には首に至って致命的になることもある。次に家庭内暴力がある。これまた激しい暴言から器物破損、さらには親の片方ないしは両方に暴力を振るうといったことがみられる。家庭外にあっては、驚くほど穏やかで物静かな態度をみせることが少なくない。また特殊なものとして、密かに喀血を繰り返す患者がいた。輸血の絶対的適応になるほどの貧血にまで至っているのであるが、輸血を頑強に拒否するのである。

 そして、最近とくに増えてきたのが過食である。主要症状として出て来ることもあれば、多彩な症状群のひとつとして現れることもある。一般に、食べ吐きといわれる意図的嘔吐、さらには下剤乱用、利尿剤乱用にまで発展していることが多い。また薬物その他をめぐる問題も頻発しやすい。投与された1、2週間分の精神薬物を一挙に服用してしまう過量服薬は、この種の症例の臨床においては日常茶飯である。同じ方向の行動としてアルコール乱用がある。またアメリカではコカインその他の法に触れる薬物の使用もあるようであるが、わが国ではそこまで至っていないようである。筆者は、自暴自棄になって暴力団の人間と関係を作り覚醒剤乱用に走ったボーダーライン患者を診たことがあるが、その状態は長続きしなかった。それよりしばしば見かけるのが家出願望である。この種の患者は家にいたくないといい出すことが多い。最近この志向性に対して、地域により家族の対応に違いのあることを発見した。筆者が長年臨床に携わってきた九州では、家出したがる子どもがでると我が家の恥とばかりに家の中に引き込むのが一般的であるが、東京の親はその意向をすんなりと認める傾向がある。そのため、東京のボーダーライン患者には衝動的な異性遍歴ないしは性的乱脈をみることが多いような印象がある。つまり、家にいたくないといい出すと、簡単にマンションをあてがわれるのであるが、本人は寂しいものだから誰かを、多くは異性を部屋に引き込むが、その関係もまた長続きせず、次々に新しい異性関係が展開されるといったことが起こるのである。また治療関係のなかでは約束の不履行がある。約束の時間にはやってこないで時間外の接触を求めたり、入院治療でみせる病棟の規則をやぶったり(無断離院や時間外外出など)することはしばしばである。時間外の接触要求は、治療者の個人的、公的生活の秩序を乱すものだし、病棟規則違反は病棟全体の秩序を一挙に破壊するという側面をもっている。

 そして、これらは多く多症状性だということである。過食をもつボーダーライン患者は、手首自傷、家庭内暴力、薬物乱用、アルコール乱用と多種多様な衝動行動を伴うことが少なくない。どれが主要な症状か同定するのが難しいことさえあるのである。

 そして、状態がひどくなると先の症例で示したごとく人格ないしは生活全体の「混乱」という様相を呈するに至る。解離性症状を伴っていることも少なくないのである。


行動化のもつ意味‐

 さらに忘れてならないのが、これらの行動化のもつ意味である。少なくとも二つの意味は押さえておいた方がよいように思う。

 ひとつは、行動化が内的な不安や葛藤を解決するひとつの方法だということである。手首自傷にしろ過食にしろ、それを起こす直前には一種特有の不安焦燥があって、行き詰ったような心境になっているものであるが、これらの行動化によって一挙にその焦燥が消失する。激しい行動の後、とっても穏やかな様子になることが少なくないし、患者の激しい行動を目撃した周囲の者に残っている興奮と本人のケロっとした静かさの対照的姿は印象的である。

 第二は、周囲を操縦するという無意識的意図があることである。「眠れないので薬をください」とやってきた患者に「もうすこし頑張りましょう」といった看護婦のところに、数分後、前腕に数条の切創を作って「看護婦さん、これ」といってみせにきた女子患者がいた。すぐさま当直医が呼ばれ、睡眠薬が投与されたことは論じるまでもない。


行動化にどう対応するか-

 ボーダライン患者を前にしてまず聞かれるのが、行動化にどう対応したらよいかである。それにたいして筆者は、行動化の原因より結果の後始末の方が重要だということにしている。

 これまでの神経症に対する精神療法では、行動化がみられたとき行動に走る直前の不安や葛藤をとり上げ、その行動に駆り立てた無意識的動機をあきらかにすることが常道とされてきた。しかし、この種の患者にこうした技法を使うと、なぜそんなことしたの!という叱責にしかならず、逆に患者を追い詰めることになりやすい。考えておくべきは、壊れてしまったバランスをどう立て直すか困っている状態だということである。したがって、生じてしまった心の混乱をどうまとめるかに焦点を当てるべきなのである。 

 例えば、ある症例指導の中で、患者が治療を無断で休んだ後の面接で、「(最寄りの)駅まではいったが気分がわるくなって引き返した」と報告した。そのとき、治療者は、例によって、駅に着いたときの気分や脳裏に浮かんだ思いを聞きだそうとしたが、うまくいかないばかりか、患者は部屋の中をウロウロするばかりで面接にならなかった。こうしたときは、むしろ家に帰ったときの気持ちを聞き、それを治めるのにどのようなことをしたのかを聞いた方が建設的である。ベッドにもぐりこんだのか、何分ぐらいしたらイライラが治まったのか、治療を無断で休んだことをわるいと思わなかったのか、等々である。その後で、最近、面接が辛くなってはいないかを付けくわえることもあろうか。筆者は、こうしたやり方の方が患者が自分を取り戻す手助けになると思う。

 もちろん、こうしたやり取りは、家庭において重要な意味をもってくる。一般に、子どもの行動化を前にして、心の余裕を失っていることが多い。そのため、やるべきことをやらなかったり、他人を困らせたりする行動に対して、(どうして?)を繰り返しやすいのである。しかし、ここで注意を要するのは、子どもが心の余裕を失い、ひどく混乱していることを知り、温かく包んでやることである。

 しかし、退行、混乱のつよい症例では、こうした言語的接近だけでは限界がある。こうしたとき入院させることが多い。そして、筆者はレボメプロマジンなどの鎮静作用のつよい向精神薬を使用しながら受容的な看護を行うことにしている。それでも自殺企図その他の危険な問題行動が続く場合は、保護室にて管理することになる。場合によったら、身体的拘束を行うことがある。これは、メニンガー病院のリンズレー氏推奨の方法である。保護室にしろ身体的拘束にしろ、忘れてならないのは、行動を制限されたときに患者のなかに生じてくる感情、思い、不安などに何らかのかたちで関与できる態勢を作っておくことである。頻回に治療者自身が訪ねてそうしたことを話し合おうとか、看護婦が訪室のたびに時間をとって辛さ、苦しさを支え、忌憚のない話をさせるような態度をもち続けることなどがそれにあたる。もしこうした支持態勢がないと、拘束自身が新たな外傷体験になることは留意しておく必要がある。


対象支配ということ‐

 行動化は内的不安を解消すると同時に、対象を自分の思うように操縦する側面のあることを指摘した。対象を自分の支配下におくことは見捨てられることに対する最強の防衛手段となる。支配することによって対象からの分離を体験せずに済むのである。

 ここに25歳になる独身女性がいる。高校時代より対人緊張がつよく交友関係もままならなかったが、大学3年のとき発熱、喘息、皮膚炎等の心身症を発症して以来、家にこもるようになり、母親が唯一の接触だといってよい状態に陥った。2、3のクリニックを受診したが、思うような改善がみられないため筆者の大学病院を受診したのだった。初診医は数回の診察の後、これは自分の手に負えないな、部長にでもみてもらう以外にない」といったらしい。すぐに、大学の先輩医師の紹介を取りつけ、部長である筆者の診察となった。ボーダーライン構造をもっていることは明らかであったが、数回の面接後には森田療法を受けたいといいだした。そのため、森田療法施設の専門家に紹介すると、これまた不満だったらしく、筆者のところに帰ってきた。そして「主治医を代わってほしい。T先生がいい、優しそうだったから」という。母親もそれを受け入れてほしいといった態度である。そこで、T先生に主治医を頼んだのであった。すると、その数カ月後になって、真夜中に手首を切って救急外来を受診し、再び、主治医を交代して欲しいと願い出ているという。翌朝、外来に出ると両親が揃って筆者の受診を仰ぎ、娘の願いであるM先生への主治医変更を認めてほしいと土下座せんばかりの態度である。突然のことで驚いて事情を聞くと、昨夜、再び主治医交代をいい出したので、そんなこといったら病院から見捨てられるので、それは受け入れられないと説得しはじめると患者が突然目の前で手首を切ってしまったというのである。両親には腰を抜かさんばかりの驚愕であった。動転した両親はただひたすらに部長である筆者の了解を得るべく、昨夜から待ち続けたのだという。患者本人はどうかというと、ケロッとしているのである。筆者の返事はどうであったか。これまた、両親の気迫におされて認めざるを得なかったことはいうまでもない。患者の要求貫徹は完全に成功を収めた。両親のみならず治療者までも患者の支配下におかれることになったのである。

 ただ、対象支配は激しい行動化だけで起こるわけではない。いつの間にか患者のベースに乗せられるということもしばしばである。

 18歳の過食症患者は、自分で過食の衝動を抑えることができないので外側(治療者)の力を借りないとダメだということで入院してきた。しかし、しばらくすると病棟での治療が辛くなったらしく、退院するといい出した。主治医は、最初の目的を取り上げたり、説得したりしたが聞き入れない。しかし退院許可は出せないといい出した。主治医経験をちらつかせたのである。すると患者は、どうなったら退院できるの?と聞いてきた。つい、乗せられて三週間といわれてしまった。もちろんのこと、三週間に何らかの根拠があったわけではない。しかし、いってしまった以上、三週間後には退院させざるを得なくなってしまった。主治医の無力感と悔しさは筆舌に尽し難いものがあった。

 ここで注目すべきは、治療を受けたい気持ちも中断して帰りたい気持ちも患者自身のものであるはずなのに、治療を受けたい気持ちがいつの間にか治療者のもの、つまり治療を受けさせたい気持ちに変わってしまっていることである。退院したい気持ちと治療を受けたい気持ちの相克が患者と治療者の間の取り引きと化しているといい換えてもよい。

 また、こうした対象支配をめぐるゴタゴタが繰り返されるとき、対象が拒否的になってしまうことも忘れてはならない。とくに慢性的に繰り返される衝動行為の症例の母子関係などがそうである。さらに、精神科のスタッフがこれらの患者を入院させたがらないのも、患者が繰り出す対象支配ないしは操縦の態度に対する拒否と考えてまず間違いない。対象支配の状況では、対象は一種特有の心境、ことに無力感と怒りに圧倒される心境に陥っているのである。こうなると、治療者も親も本来の機能、治療者機能、親機能を失うに至っているといわねばならない。


対象支配に対する対応‐

 対象支配とはいわば患者に呑み込まれてしまった状態であるから、それからの脱出を図ることが大切になってくる。

 そのためには、まず、自分の内部に起こっている心的状況は、つまり無力感と密かな怒りの感情に気づくことが重要である。そして、その無力感と怒りが実は患者自身のものであることを知っておくことである。先に、治療を受けたい気持ちの相克で片方を治療者に背負わせるからくりのあることを述べたが、こおの無力感も怒りも患者のものなのである。したがって、不機嫌な赤ん坊を抱っこしあやす母親のように、患者の万能感と無力感を併せだき抱えることが必要なのである。こうして治療者機能を回復させるわけである。

 治療者が自らを回復した後、今度は、治療を受ける患者自身の機能、つまり闘病精神とでもいいたい自らの精神発達に挑戦していく患者自身の姿勢を育てるための接近が必要になってくる。先の隊員したがる患者の例を取り挙げると、退院したがる患者を制止するのではなく、退院がもたらずであろう結果を十分に話し合い、それを知らせた上で退院させても構わない。多少とも面倒な入退院が繰り返されることになるであろうが、この種の患者には、この程度の面倒さを引き受けるだけの寛容さが必要である。こうした面倒な遣り取りを繰り返していくうちに、治療者のだき抱える姿勢を取り入れて、自らの葛藤や不安を自らのもの、自分の内部に存在するものとして、対処することができるようになるのである。その過程で、治療者がやってあげられることには限界があることをそれとなく知らせることも有効な技法のひとつとされている。ただ、この場合、非常にしばしばこうした推奨を根拠に、「大したことはできませんよ」を連発する治療者をみかけることがあるが、この不必要な連発は無力感の反映にしか過ぎないことは知っておいた方がよいであろう。

 これが家族となると様態は一層複雑になっている。患者の言うままに父親が母親を殴打し、母親が耐えられなくなって出奔してしまうほどに深刻なものから、何かをきっかけに親機能喪失に陥りやすかったり、子どもの訴えに拒否的になっていたり、あるいは逆に迎合的になっていたりしているようなものまでさまざまである。あるいは子どもと一緒になって被害者になっていることもある。例えば、ある少年はナイフ事件を起こして、学校当局から謹慎処分としかるべき医療機関の治療を受けることを求められた。そのとき、この少年は「どうせ、ボクだけが悪者になるのだから!」といった。他の友だちはこの事件にかかわりがなかったが故にこの処分を受けなかったのであるが、患者からすると、他の友だちもわるいことはしていたのである。こうした場面でこの言葉を聞いた両親は患者と一緒になって、診察室で「この程度のことで何故にうちの子どもだけが処分をうけなければならないのか」と怒りをあらわにしていたのであった。もしこの両親が親機能を維持していたならば、きっと自分の行った行為に対する償いないしは罰を受けて、人間としての道を歩むように説得していたに違いない。筆者がそれを指摘すると、両親は理解を示して、自分の子供が学校の処分を受けることを説得する態度を示すようになった。親機能を回復したといってよかった。

 このようにボーダーライン心性をもった子どもを前にして、親もまた等しく、無力感と怒りを内に秘めた親機能喪失に陥っているものである。無力感と怒りのワナにはまり込んだら、どうしても肯定的な社会機能を維持することは難しいのである。そのためには、まず無力感と怒りの認知からはじめ、大人の感覚を取り戻したら、それを基盤にした状況判断ができるようになることが重要になる。

 最後に述べておきたいことは、筆者がここで述べた対応の仕方がすぐさま効力を発揮して、目前の状態を改善させてしまうわけではないことである。これらの対処法を状態に応じて活用しながら繰り返していると、自然に、部分対象関係が全体対象関係に変化してくる、正確に表現すれば全体対象関係的な部分が多くなってくるといったものである。」

(牛島定信『心の健康を求めて‐現代家族の病理‐』慶応義塾大学出版、 147~157頁より)