「僕がプリンス・エドワード島を撮りはじめた1988年頃、島を訪れる日本人観光客は年間で千人に満たなかった。しかし年を重ねるごとに増えつづけ、今では年間八千人以上もの日本人が島にやって来ている。
僕は撮影で島を回っている時、よくグループ・ツアーで来た日本人と遭遇する。そんな彼らを見ていて、一つだけ残念に思うことがある。それは、あまりに行動がワンパターン過ぎるということだ。
日本の旅行会社は、たくさんの有名観光地をひとまとめにして販売する形をとっている。例えばカナダなら、一週間という短い枠の中で、カナディアンロッキー、ナイアガラの滝、ケベック・シティ、プリンス・エドワード島と、詰め込むだけ詰め込んでしまう。これでは一箇所での滞在期間が短くなるのは当然のことだ。
冬のカナダ取材が終わり東京で生活している時だった。ある小さな旅行会社からコンタクトがあり、「写真家・吉村和敏と巡るプリンス・エドワード島の旅」というグループ・ツアーを作れないだろうかという相談をもちかけられた。
プリンス・エドワード島だけを観光する七日間のこだわりの旅。たとえ島に五泊するとしても、島で丸一日過ごせるのは四日間のみ。その間に、島の魅力を最大限に伝え、お客さんを十分に満足させるツアーを作らなければならない。
僕はまず、ツアー時期を決めることにした。
次に、島の観光ポイントの割り出しをはじめていった。僕の好きな村や景色、ホテルやレストランなどを思いつくままにレポート用紙に書き出していく。
地図を見ながらあれこれと試行錯誤を繰り返していた時、ふと、島を一周するツアーにしてみようと閃いた。
プリンス・エドワードは、キングス群、クイーン群、プリンス群と三つの群に分かれている。つまり一日に一つの群を観光するようにして、残る一日を『赤毛のアン』観光にあてれば、四日間という期間をフルに活用できそうな気がした。
数日後、旅行会社の担当者と会い、作成したツアーの日程表を提出した。もちろんすぐにオーケーが出た。
島を一周という初めての試み、花畑や撮影ポイントに導くというユニークさ、プリンス・エドワード島という土地にこだわりながらも、『赤毛のアン』の要素も十分に取り入れている内容の緻密さに、担当者は「これは絶対にヒットしまうよ!」と太鼓判を押してくれた。
ホテルやレストランなどの予約は、旅行会社側が、カナダにある現地オペレーターを通して行うということだった。僕がそれぞれのオーナーやマネージャーに一本の国際電話を入れればものの五分で済むことなのにと思ったが、無駄が多い複雑な日本社会の仕組みを理解していた僕は素直に頷いた。
1994年7月3日、ツアー初日。この日、ハリファックス発9時20分の最終便で、日本からのお客さんがシャーロットタウン空港に到着することになっていた。
翌朝、雲一つない快晴の青空が広がった。
オーウェル・コーナー、リンゴの果樹園、エルマイラ・ステイション、イースト・ポイントの岬・・・と、やはり思っていた通り、どのポイントでもお客さんは感激しれくれた。お決まりの観光ツアーではいかない「とっておきの場所」なので当然だろう。
特に、「広大なお花畑に行く」というのは非常に評判がよかった。花畑の脇にバスを停める前から車中は大きな歓声につつまれ、バスから降りると誰もが一目散に花畑の中に駆け出し、花と戯れていた。
二日目も快晴。クィーンズ群のツアーを西回りにしたというのは正解だった。
この日僕らのツアーの他に、七つの日本人のグループ・ツアーがクィーンズ群の観光に出ていたけれど、どの場所に行っても他の観光客とぶつかることはなく、とても静かな環境の中で各施設を見学することができた。
移動の途中、何度か僕の秘密の撮影ポイントにもバスを回した。実際の景色を訪れた後に、その場所から生み出された「作品」を見せてあげたのだが、これも大好評だった。
残念ながら夕方四時を過ぎると雲が広がりはじめたが、アンの故郷の近づくということでどのお客さんも興奮しており、天気の崩れはさほど気にならなかったようだ。
そして案の定、キンドレット・スピリッツ・カントリー・インに到着した時は、白い外観やカントリー調の部屋を見て、誰もが歓声の声をあげていた。僕はそんなお客さんたちの反応に触れ、ああ、この宿にしてほんとうによかったな、と思った。
キャベンディッシュに滞在し、おまけに丸一日を自由行動にしたというのは、どのお客さんからも感謝された。アンに憧れて島にやって来た人たちは、落ち着いた時間の中で、それぞれの思いを形にできたようだ。
僕はお昼時、レンタカーによるピストン輸送で、みんなをニュー・ロンドンにある日本人経営のティールーム、ブルーウィンズまで連れていった。そこでお客さんは、オーナー自慢のカレーやデザートを頂いた。
夜に、宿の中庭で行われたバーベキューパーティーは盛り上がった。
最終日はまた快晴の青空が広がった。そのおかげで、プリンス群まで行ったロング・ドライブも苦にならなかったし、エレファント・ロックや、ノース・ケープの岬では、心地よい風に吹かれることができ、どのお客さんも大満足していた。
そう、まさにその四日間のツアーは完璧すぎるほど完璧だったのだ。天候にも恵まれ、すべてが予定通りに進行し、何一つとして大きなトラブルは発生しなかった。」
「二ヶ月後、日本に帰国した僕は、旅行会社の担当者の元に届いていたお客さんからの手紙を受け取った。どの手紙にも、「最高のツアーでした。心から楽しみました!」と喜びの声が書かれていた。
僕は嬉しく、そしてこれから先の観光ツアーの将来性を感じた。
今回は島の主要ポイントを巡る旅だったけれど、もといろいろなスタイルの旅が考えられるような気がする。
クラフト・ショップを重点的に回る旅、農場でゆっくり過ごす旅、島の家庭料理を教わる旅、サイクリングで島を一周する旅。また、感受性の鋭い子供たちにターゲットを絞り、島に連れて来て、大自然の中でカヌーや釣りなどさまざまな体験をさせるのも面白いだろう。
後日、ある大手旅行会社の知人に今回行われたオリジナル。ツアーの話をすると、彼は、「そんな夢のようなグループ・ツアーが実際に行われたとはねえ~」と驚いていた。
またこうも言った。
「でもね吉村さん。すべてを完璧なものとして百パーセントお客さんに与えてしまうと、それはビジネスとして少々厳しくなってくるのですよ」
事実、翌年は広告費との兼ね合いが難しかったらしく、この夢のようなツアーは催行されなかった。つまり大手旅行会社の知人が言うような結果になってしまったわけだけれど、このような小さな旅行会社が行なった手作りの心がとけ込んだツアーが存続できにくい日本という国の状況も、ちょっと問題かもしれないな、と思った。
僕はあらためて、「企業」と「個人」の考え方の相違を知り、やっぱり自分はもうサラリーマンには戻れないことを再認識し、カメラを握りしめた。」
(吉村和敏『緑の島に吹く風-プリンス・エドワード島が教えてくれたこと』92-125頁より抜粋)
僕は撮影で島を回っている時、よくグループ・ツアーで来た日本人と遭遇する。そんな彼らを見ていて、一つだけ残念に思うことがある。それは、あまりに行動がワンパターン過ぎるということだ。
日本の旅行会社は、たくさんの有名観光地をひとまとめにして販売する形をとっている。例えばカナダなら、一週間という短い枠の中で、カナディアンロッキー、ナイアガラの滝、ケベック・シティ、プリンス・エドワード島と、詰め込むだけ詰め込んでしまう。これでは一箇所での滞在期間が短くなるのは当然のことだ。
冬のカナダ取材が終わり東京で生活している時だった。ある小さな旅行会社からコンタクトがあり、「写真家・吉村和敏と巡るプリンス・エドワード島の旅」というグループ・ツアーを作れないだろうかという相談をもちかけられた。
プリンス・エドワード島だけを観光する七日間のこだわりの旅。たとえ島に五泊するとしても、島で丸一日過ごせるのは四日間のみ。その間に、島の魅力を最大限に伝え、お客さんを十分に満足させるツアーを作らなければならない。
僕はまず、ツアー時期を決めることにした。
次に、島の観光ポイントの割り出しをはじめていった。僕の好きな村や景色、ホテルやレストランなどを思いつくままにレポート用紙に書き出していく。
地図を見ながらあれこれと試行錯誤を繰り返していた時、ふと、島を一周するツアーにしてみようと閃いた。
プリンス・エドワードは、キングス群、クイーン群、プリンス群と三つの群に分かれている。つまり一日に一つの群を観光するようにして、残る一日を『赤毛のアン』観光にあてれば、四日間という期間をフルに活用できそうな気がした。
数日後、旅行会社の担当者と会い、作成したツアーの日程表を提出した。もちろんすぐにオーケーが出た。
島を一周という初めての試み、花畑や撮影ポイントに導くというユニークさ、プリンス・エドワード島という土地にこだわりながらも、『赤毛のアン』の要素も十分に取り入れている内容の緻密さに、担当者は「これは絶対にヒットしまうよ!」と太鼓判を押してくれた。
ホテルやレストランなどの予約は、旅行会社側が、カナダにある現地オペレーターを通して行うということだった。僕がそれぞれのオーナーやマネージャーに一本の国際電話を入れればものの五分で済むことなのにと思ったが、無駄が多い複雑な日本社会の仕組みを理解していた僕は素直に頷いた。
1994年7月3日、ツアー初日。この日、ハリファックス発9時20分の最終便で、日本からのお客さんがシャーロットタウン空港に到着することになっていた。
翌朝、雲一つない快晴の青空が広がった。
オーウェル・コーナー、リンゴの果樹園、エルマイラ・ステイション、イースト・ポイントの岬・・・と、やはり思っていた通り、どのポイントでもお客さんは感激しれくれた。お決まりの観光ツアーではいかない「とっておきの場所」なので当然だろう。
特に、「広大なお花畑に行く」というのは非常に評判がよかった。花畑の脇にバスを停める前から車中は大きな歓声につつまれ、バスから降りると誰もが一目散に花畑の中に駆け出し、花と戯れていた。
二日目も快晴。クィーンズ群のツアーを西回りにしたというのは正解だった。
この日僕らのツアーの他に、七つの日本人のグループ・ツアーがクィーンズ群の観光に出ていたけれど、どの場所に行っても他の観光客とぶつかることはなく、とても静かな環境の中で各施設を見学することができた。
移動の途中、何度か僕の秘密の撮影ポイントにもバスを回した。実際の景色を訪れた後に、その場所から生み出された「作品」を見せてあげたのだが、これも大好評だった。
残念ながら夕方四時を過ぎると雲が広がりはじめたが、アンの故郷の近づくということでどのお客さんも興奮しており、天気の崩れはさほど気にならなかったようだ。
そして案の定、キンドレット・スピリッツ・カントリー・インに到着した時は、白い外観やカントリー調の部屋を見て、誰もが歓声の声をあげていた。僕はそんなお客さんたちの反応に触れ、ああ、この宿にしてほんとうによかったな、と思った。
キャベンディッシュに滞在し、おまけに丸一日を自由行動にしたというのは、どのお客さんからも感謝された。アンに憧れて島にやって来た人たちは、落ち着いた時間の中で、それぞれの思いを形にできたようだ。
僕はお昼時、レンタカーによるピストン輸送で、みんなをニュー・ロンドンにある日本人経営のティールーム、ブルーウィンズまで連れていった。そこでお客さんは、オーナー自慢のカレーやデザートを頂いた。
夜に、宿の中庭で行われたバーベキューパーティーは盛り上がった。
最終日はまた快晴の青空が広がった。そのおかげで、プリンス群まで行ったロング・ドライブも苦にならなかったし、エレファント・ロックや、ノース・ケープの岬では、心地よい風に吹かれることができ、どのお客さんも大満足していた。
そう、まさにその四日間のツアーは完璧すぎるほど完璧だったのだ。天候にも恵まれ、すべてが予定通りに進行し、何一つとして大きなトラブルは発生しなかった。」
「二ヶ月後、日本に帰国した僕は、旅行会社の担当者の元に届いていたお客さんからの手紙を受け取った。どの手紙にも、「最高のツアーでした。心から楽しみました!」と喜びの声が書かれていた。
僕は嬉しく、そしてこれから先の観光ツアーの将来性を感じた。
今回は島の主要ポイントを巡る旅だったけれど、もといろいろなスタイルの旅が考えられるような気がする。
クラフト・ショップを重点的に回る旅、農場でゆっくり過ごす旅、島の家庭料理を教わる旅、サイクリングで島を一周する旅。また、感受性の鋭い子供たちにターゲットを絞り、島に連れて来て、大自然の中でカヌーや釣りなどさまざまな体験をさせるのも面白いだろう。
後日、ある大手旅行会社の知人に今回行われたオリジナル。ツアーの話をすると、彼は、「そんな夢のようなグループ・ツアーが実際に行われたとはねえ~」と驚いていた。
またこうも言った。
「でもね吉村さん。すべてを完璧なものとして百パーセントお客さんに与えてしまうと、それはビジネスとして少々厳しくなってくるのですよ」
事実、翌年は広告費との兼ね合いが難しかったらしく、この夢のようなツアーは催行されなかった。つまり大手旅行会社の知人が言うような結果になってしまったわけだけれど、このような小さな旅行会社が行なった手作りの心がとけ込んだツアーが存続できにくい日本という国の状況も、ちょっと問題かもしれないな、と思った。
僕はあらためて、「企業」と「個人」の考え方の相違を知り、やっぱり自分はもうサラリーマンには戻れないことを再認識し、カメラを握りしめた。」
(吉村和敏『緑の島に吹く風-プリンス・エドワード島が教えてくれたこと』92-125頁より抜粋)