人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

かなり久しぶりに

2006-03-30 19:20:11 | 出来事
かなり久しぶりにお米を買った。ご飯を炊いた。皿を買った。皿を割った。ヘッドフォンで音楽を聴いた。

一般的に環境が変わるのは、一定の目的があってのことですが、付随的に他のことも色々と変わります。人は一遍に極端な変化を経験すると情緒不安定になり、それが身体の支障という形で現れることも多いものですが、新たな目的に走り出す前に付随的な変化に慣れておく必要がありますね。

法律の制度にも経過措置があります。おかげで今年は、新会社法が施行されても古い会社法に基づく株主総会ができます。(弊社は新法に基づいてやると思いますが。)いきなり切り替えてしまうと新制度ではなく制度の移行自体による問題が発生しちゃうわけですが、これは一人の人間にもあてはまることだと思います。

新しいチャレンジをすることは重要ですが、メキシコから急に南極に行くより途中で南アフリカあたりで遊んでいった方がいい場合もあるということですね。

先見性

2006-03-28 23:37:00 | 人生論・閃き
私の母方の祖父は私が生まれる前にガンで倒れたらしいのですが、とても先見性があった人だと母から聞かされていました。1950年あたりにはすでに高速道路が全国をつなぐことになることを予想し、母には当時はおそらく存在しなかった女性弁護士になってほしかったらしいです。

確かに戦後60年で社会は複雑化してきましたが、これを加味したとしてもこのような予測ができる人はあまりいないのではないでしょうか。たとえば、下記のどれが50年後の常識になっているかを予測できますか?

① 我々はクローン人間と共存し、クローン人間平等法が制定されている。性直能力がないことも解決されて、クローンとの結婚も認められる。
② 人間クローンは臓器移植などにしか使われない。
③ クローンは奴隷となっている。もしくは、ブラックマーケットで取引されている。
④ キリスト教、もしくは動物保護団体などの勝利によって「クローンを作ったら極刑」、などという法律が世界的にできている。
⑤ 望めば脳移植・再生医療などを通じて「自分」という無形物(今では「魂」?「カーマ」?記憶があれば尚可、なのですが)をそれを包含する認識・思考を持つ器となる有形物(身体)を取り替えることにより実質「永遠の命」を得ることになる。(ただし、一回につき5億円。)私もあなたも実はクローン?
⑥ というか、とっくに月に引っ越してるでしょ。クローンは生来的に高所・閉所恐怖症だからこっちに来れないのよ。

予測できる人はすごいですよね。意外と⑤が非現実的ではないと思うのは私だけでしょうか・・・。

とにかく、先見性とはすごいスキルなのですが、自分の人生においてはやっぱり「自分が○○年後どうなっているのか」というのは気になりますよね。昔なら、5年目の社員が「25年後は30年目のベテラン社員なんだろうなぁ。」と思えたかも知れませんが、今ではこの可能性は低くなってきています。

「自分だったらこういう行動を採るだろう」と考えて先を予測するわけですが、これが意外と大変なのです。人の心理は変化するからです。

「自分だったらある出来事(結婚、など)によってこう変わるだろう」と予測し、「その出来事によって変わった自分は、こういう行動をとって、この新しい出来事(子供ができた、など)によってこう変わるだろう」と予測していかなければなりません。しかも、未来の出来事は大体順序を予測できず(上記結婚・子供についてはこの順番で願いたいのですが)、順序によっても当然影響が変わってきます。更に、この世の変化も考慮しなくてはいけません。大変ですね。

皆さんも是非未来の予測をしてみてください。タイムカプセルを作る気持ちで。今回は夢ではなく、予測なのでお間違いなく。

50年後本当に人の魂(と認識されているもの)が「永遠の命」を得ていたら、私を先見性のある人だと思ってくださいね。新しい身体の中で喜んでおりますので。

自分を十二分に、でも・・・

2006-03-22 01:26:53 | 人生論・閃き
自分を十二分に評価する。過去にも書いた私の人生ルールのひとつです。

簡単にまとめると、自分を今以上のものに育て上げるために、自分の能力を現状の1.2倍と仮定し、信じ込んでしまうわけです。100%の自分は、120が基準なのだから物足りないのです。怠けているのです。そう思って、「これできるかな、やりすぎかな、まだ早いかな・・・」などと思う内容でも頑張ろうと思うわけです。自分に厳しくなり、無理ができちゃうわけです。当然、通常以上のスピードで成長することができます。

しかし、これには注意すべき点がいくつかあります。今回の焦点はこちらの方です。

まず、150や200ではなくて120であること。逆に自分をつぶしてしまわないようにご注意を。

次に、他人に同じ基準を期待しないこと。自分に120を要求すると、他人に対しても相対的に高い数値を期待してしまうものですが、他人にはあまり厳しくしないようにする必要があります。その人の生き方は、その人が決めるのだから。

また、101以上の結果になったら自分をほめるべきです。120に満たないのが本当は当たり前なので、思いつめないでください。バランスも大事に。そういう意味では、自分の100を知っている必要があります。

もうひとつ問題としては、人が105に評価してくれてもあまり喜べないことです。自分は100なのだから嬉しいはずなのですが、自分は自分を120だと思っている。客観的には過大評価、主観的には過小評価。認識の不一致。これは、自分が勝手に120だと思い込んでいるのが「悪い」ので、素直にお礼を言いましょう。

最後に、このようなポリシーは、自分の核にとても近いものとなってしまいます。これは諸刃の剣。特に、家族や恋人、親友などとの関係で要注意です。なぜなら、このような人たちには自分をこの「120」を基準として評価してほしくなってしまうからです。

この人だけには、自分がどう考えてどう行動しているかを理解してほしい。同じ方向を見つめていてほしい。同じ基準で物事を捉えてほしい。こう思ってしまうわけですね。

いくら気が合う人でも、一生一緒にすごしてきた家族でさえ、理解や人生観の類似性には限界があります。特に恋人などの場合、「似ている」から好きになることが多いのに、「根本はちがったのか」と思えるには十分の差が生じてしまいます。これはすべての「人生ルール」にあてはまることです。

相手に望めるのは、意図を理解してもらうことまで。同じ基準で生きてほしいと思ってはいけないわけです。そう、人生ルールとは自分だけのもの。どんなに近い人間にも、自ら同調してくれなければ押し付けることは許されないのです。

私の博士課程の教授の一人は、「相手を危機から救える場合でも、相手がそれを望まないのなら救う権利はない」と言っていました。家族でも、誰でも。世界中の法律がこれに反している(自殺を強引に止めることは緊急避難となり罪ではない、一定の関係がある当事者間では救助の義務があり不作為犯となる場合がある、など)し、個人的にもこれは行き過ぎのような気がしますが、度合いは別として概念としては心に留めておくことが必要だと思います。

ということで、ポリシーは自分のポリシー。自分の中では120でも、他人の中の自分も、他人の中の他人も100であったらそれを変えられないのだから、自分の中の他人も他人の中の他人にあわせて設定してあげましょう。

本厚木デビュー

2006-03-21 12:19:42 | 出来事
先週より神奈川県にある本厚木に引っ越してきました。

最初はガスが出なかったり、水道が漏れてたり、郵便ポストがみつからなかったり大変でしたが、早くもかなり落ち着いてきました。

最近の引越しの一番大変なことは掃除でも荷造りでも新しい近所との付き合いでもなく、パソコンの設定なのではないでしょうか。本社のPCを持ってくるわけには行かなかったので2台目を買ったのですが、これを繋げ、必要ソフトをすべてインストールし、周辺機器を揃えてこれもインストールし、1台目のPCのファイルを移し、VeriSignなどのセキュリティ関連の証明書を取得したりしているするのに24時間以上かかっていたような気がします。

前回のPCは自作だったのですが、部品選びから組み立て、BIOS設定、Windowsのインストールなど基本的なことからやっていたのが信じられません。

昔は「泥まみれになっても、失敗しても、面倒でも、何でも一度経験しよう」と思って色々チャレンジしていました。これはもちろん良いことだと信じていますが、最近はその「一度の経験」を少しずつこなしてきたということなのか、どちらかというと効率性を求めてしまいます。人生のうち、次のステージにいるということなのかもしれません。

普段より著しく自分の成長が感じられるのは、新しいことをするときです。これはできるだけ多い方が経験にもなるし、他人を理解できるようになるし、アハ体験も増えるし、とても重要なことだと思います。しかしその「新しさ」の度合いが、新しい経験をしていても減ってくるものです。一部は過去の経験と重なるからです。

ならば、一定の時期からは何かに専念することを中心とし、新しいことはほどほどにするということも必要なのかもしれません。しかしこれでは偏るので、また専念したものを維持しつつも新しい何かを始めるべきかもしれません。

結果として、新規開拓と実務とフォーカスを交互にしながら成長していく会社のように、新しい経験と専門分野の追求に交互に注力していくべきなのかもしれません。それがホッケースティック的な成長への近道なのではないでしょうか。

理解と評価

2006-03-13 13:15:38 | 人生論・閃き
理解があったとしても、何かを評価することは難しい。理解できないものならなおさら。

世界で評価されているものは、ほとんど容易に理解できるものである。KIDは強い。エルビスはかっこいい。エスカレータによって生活が楽になった。

しかしガリレオが正当に評価されるようになるまでは死後長い期間を要した。とすれば、アインシュタインの偉大さは未だ正当に評価されていない可能性もなくはない。

しかし、それでもこれらの人は生前にも有名であった。ならば、正当な評価がされず死んでいった人は数え切れないのでしょう。とすると、膨大な知識が、才能が、芸術が、この世に存在しながらも評価されずに歴史に残らず、そのまま消えていったはずである。この世界はこの一つの理由によって、ありえた姿から200年も25万年も遅れているのかもしれない。

こんなもったいないことをしてはいけない。だから人は筆を握り、立候補し、子孫に夢を託すのかもしれない。しかし「大事なもの」の選別が難しいし、記録や記憶が残っていればそれでいいわけでもない。

以下のように考える人を責める気にはまったくなりませんが、一番重要なものとして「愛」「家族」「神・宗教」「世界平和」「金(!)」などが挙がります。政治家からすれば「安全」「安定性」「国民の生活基準」「平和」「国の発展」「自分の再選挙(!!)」などでしょうか。世界的に、長期的に、歴史の流れの観点から考えるという発想はないのでしょうか。「周りの人を助けたい」という看護士や公園ゴミ掃除ボランティアも素晴しいのですが、更に大きな影響力を与え、結果として(達成感はなくても・・・これが問題のひとつなのですが)数兆人の地球の子孫を幸せにする可能性に賭けてみようという発想は存在するのでしょうか。

一般人なら制約が多く仕方ないとしても、政府はこのようなことを考えているのでしょうか。考えていたとしても、国会を通る可能性は1%以上あるものなのでしょうか。

・・・全世界の人々の時間の効率性や、政府が活用する税金の総額の観点から考えてみると、前述の問題はいくらでも解決できそうです。しかし、これは共産党ですら容易に打ち出せないことであり、未来の世界に確実に存在するが目に見えない結果を残すために犠牲になろうと思う人はあまりいません。理解すらできないから評価ができない。失業率を0.1%改善させることは大変だが、そのお金を使って他に何かすべきなのではないか。日本の医療費は「80歳の人をいかにして90歳まで生かすか」ということに焦点を置きすぎるといわれていますが、がん治療や宇宙開発、錬金術やあやとりの研究方が有意義という可能性もあるはずなのでは。

自分の生涯程度の期間しか考えられない人間の団体をリードする政治家・経営者は、長期的視野を持つべきか?それともそれらの代表として、その総意に基づくべきか?

そして技術・芸術の保存や歴史上の重要性については優先基準は明確にすべきか、現状のように曖昧(あえていえば、影響の規模と対象人数なのだろうか)にしておくべきか。数を撃つのか、「今」という基準を優先させるのか。

タレントの発掘しているA&Rなどの人たちは何をみているのだろう。経営者は?占い師は?世界にあるのは法則で、基準はない。それは人が作るもの。一人の人間がピラミッドを壊すことができるのだから、過半数だけの問題でもない。

ヘンリー8世とシェイクスピア、選ぶとしたらどちらが地球にとって重要だったか?囲碁とカキ氷の苺シロップを比べるとどうか。このような2択に迫られることは少なくなってきているが、歴史的重要性の境界線からすればいつも行われていることである。それも、おそらく中堅出版社の2年目社員によって。

だから、基準から逃げてはいけないと思うのです。問題意識・理解があればなくてもいいもので、ない方がいいものかもしれません。しかし、理解がないので評価を客観化させる(という幻想を作る)基準で固定するのも手だということです。

これはおそらく頻繁に更新されるべき指針程度になってしまいます。それでもいいと思うのです。これを持つと持たないのでは人類にとって、長期的に考えて、大きな差となるのではないかと私は考えます。

肯定・否定を問わず、このような考えを「評価」できるほどの「理解」が世界の一人でも多い人にあることを願いつつ。

VMSダイエット(TM)(続):下っ端アスリート

2006-03-11 14:39:49 | 出来事
VMSダイエット(TM)最終報告では満足な結果をお伝えできなかったので、トレーニングメニュをちょっと減らしつつもダイエットを延長していました。

そこで、やっと当面の目標だったフィットネススコア90にたどり着きました。これは中間報告でお伝えしたとおり総合点みたいなものであり、90になってはじめて「アスリート」という評価になるのです。よって、やっと機械に「アスリート」と思われるようになりました。アスリートの中では一番下っ端の評価ですが、とりえあず、めでたしめでたし。

体重は相変わらず現状維持ですが、脂肪率が15%と、一般標準に戻りました。やはり昔に比べるとまだ高いのですが、これをどう一ケタに戻すかはこれからの課題ですね。

ダイエットのお祝いというわけではないのですが、昨日はかなり飲んでしまったので今は仕事しながら反省中です。今日も友人同士の結婚2次回があるので飲むことになるのですが、ちょっと控えめにするよう努めます・・・。

最後に、最終報告がブログのドラフトとなっていて公開されていなかったことが今日発覚しました!皆さん、大変申し訳ございませんでした。今は実際書いた2月19日のところにアップしていますので、是非あわせてお読み下さい

ある組織の人の兄のおかげでチョコが。

2006-03-10 01:26:15 | 出来事
特に理由はないのですが、私はある組織への所属について公開していません。犯罪組織の類のものではないのでご心配なく・・・おそらく1-2年のうちには公開することになると思います。高校の頃は空手をやっているを極少数の親友にしか言ってませんでしたが、その主な理由は「誰も知らずいざとなったら強いという状態がなんとなくかっこいいから」ということでした。(お恥ずかしい。)今回も、そんな感じでしょうか。(はい、成長していません。)

アメリカにあるこの組織の一人は、幼少のころに両親を失ったのですが、そのお兄さんによって育てられました。「育てた」といっても年齢がそれほど離れているわけでもなく、なんとかお金を稼いで食料と妹の教育費を確保していたということです。

そのお兄さんは、今や世界有数の企業の経営に携わっています。(はい、私よりかなり年上です。)しかし当時は、中古自動車のディーラーのようなことを高校生ぐらいのときからやっていたそうです。おそらく年齢を誤魔化しながら、という感じだったのでしょう。

このような生活を続け、キャリアや教育に全力を注げないにも関わらずこのような地位に辿りついたこの人の話を聞いて、素晴しいと思うと同時に、なぜもっと恵まれているであろう他の社員より出世できたのだろうかと不思議に思いました。

彼が抱えていた出世回路におけるハンディは、みんなが毎週の金曜日に酔っ払っているところを真面目に仕事すればなんとかなる、という程度の差ではないはずです。

確かにある程度出世出来たり、裕福になったりしたら出世欲が弱まるのはわかります。しかし、仕事をするからには仕事をしているときは頑張ろうと思うはずです。それでも彼は100倍以上の倍率を乗り越えて成功したのわけです。

・・・同じように、手が小さくて1オクターブも届かない女性ピアニストがプロになっていることが(意外と頻繁に)あります。これは175センチの身長でジョッキーやバレリーナをやるぐらいのハンディだと思います。(私の身長は175センチですが、どちらにもなれる自信がありませんし、努力する前に諦めてしまいます。)キャンプ用のリュックを背負いながらイナバウアーをするぐらい合ってないような気すらします。なのに、そのピアニストたちは当たり前かのように完璧な演奏をしてしまうのです。

人間って、すごい。

そんなことを考えていたら、チョコを我慢することができました。

最後の言葉

2006-03-08 01:56:37 | 人生論・閃き
母から聞いた話なのですが(ということは昨日テレビでやっていたのでしょうが)、ある姉弟の弟さんが不治の病に倒れてから医者になったお姉さんがいて、その人は医療界でとても活躍しているそうです。医者になった理由は、弟さんの最後の言葉にあったそうです。

「お姉ちゃん、医者になって僕みたいな人を治してあげてよ」といった感じの言葉だったそうです。

これを聴いた瞬間、一瞬頭から血が引いたような思いをしました。うちの母は素敵な話と思っていたらしいのですが、私は「とんでもない!」と思ってしまいました。

生前の弟にそんなこといわれて、それ以外になれるわけがない。良い結果になったように見えるというのは結果論でしかなく、語弊を恐れずに言ってしまうとこれは「条件付き呪い」に近いものでしょう。医者にならなかったら、その言葉に一生呪われるように思えちゃうでしょう。それに医者になるというのはどの国でも容易ではありません。

一瞬で一生が決まることがありますが、正にそんな一瞬だったのでしょう。

「僕みたいな人を治す」のであれば、医者になるよりビル・ゲイツみたいになって巨額を寄付した方が影響力が強く、もっと多くの人を救えるかもしれません。これが正しいとはいいませんが、要は、同じ目的があるとしても手段は色々とあります。そして目的すら人に強要してはいけないと思うのです。どんなにいいことであっても、他人の人生は他人のものであり、何が「いいこと」かの判断はその他人に委ねられるものですよね。

自分の「最後の言葉」の選択についてもやはり考えたことがありますが、「ありがとう」か「幸せになれ」など抽象的な言葉なのかな、と思いました。どっちみち、具体的な話は解釈によっては相手を縛る可能性があるから避けるべきだと考えました。そんな言葉を口にすることになるまでまだ80年はあると思いたいのですが、まあ、ちょっと考えてみただけです。

最後に、こう言われてしまっても選択肢があることには変わりありません。内外のプレッシャーから逃げず立派な医者になったお姉さんは素晴しいと思います。

気が付けば

2006-03-07 02:38:20 | 人生論・閃き
私は18歳のとき、音楽の授業である曲を聞きました。コード分析などを行い、音符レベルまでにその曲を解剖しました。そして、ひとつの気付きにより喜びと嘆きが同時に起こる経験をしました。

「俺はまだ4歳のときのモーツァルトに追いついていない」と。

その曲とは、モーツァルトが4歳のときに書いた曲。短いが音楽理論とセンスが詰まっている。音の性質を、耳の構造と認識の心理を、秩序と混乱を、協和と不協和を理解しているのは明らか。4歳児が、当時はあまりにも遠く見えた。

そして気が付けば、それからまた10年近く経っている。

大学で音楽理論の副専攻を終えて、今は自宅に小さなスタジオまで構えている。それでもモーツァルトからすれば6歳程度のレベルなのだろうか・・・。

モーツァルトは史上最大の天才の一人だったと私は思います。肩を並べそうな人も思いつきません。しかし彼には及ばなくても、現代で色んな活躍をしている人たちがいます。そして気が付けば、「俺はこの数年間何をしていたんだ」と思うほど差を疲れられている人が何人もいます。浦島太郎状態です。

年下の人があらゆるスポーツで天下を獲り、ヒットチャートを賑わし、数十億を稼ぎ、愛する人と愛する子供を育てている。相手は年下なのに、手も足もでません。彼らの15歳のときのレベルにすら及んでいない自分がいる・・・。

子供の頃は言い訳があった。それは、親であり、学校であり、何より「才能」「常識」という幻想(洗脳?)であった。しかし社会に出たら、そのような元々言い訳でしかなかったことが言い訳ですらなくなる。無限の選択肢。それは選択範囲に含まれなかったものの喪失だけでなく範囲内の未達成部分に関する自らの不足なのかもしれないが、無限の可能性も与えてくれる。

最高の世界を与えられた我々は、なぜその1%も見ずに死のうとするのだろう。それが「最高」でないと気付くまでが「最高」なのかも知れませんが、逆に「最高である」と思える地点にも達しないのであればそれは平凡な人生でしかないのかも知れません。

少なくても、今は最高の世界に住んでいるという認識を持てるようになりました。
よって、これから世界の限界を見届けるまで生き続きたい。
世界が醜く見えるようになったとしても真実を見届けたい。
戦も失恋も耐え抜きたい。

そしてモーツァルトが生きた36年弱に、自分の100年で辿り着きたい。
才というものが存在し、才で劣るのなら、汗を流し時間をかけるまで。