人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

0%は50%に勝る

2009-12-27 12:17:39 | 人生論・閃き
何事も完璧にしなければ意味がないとはいいませんが、中途半端な知識や能力、自信はとても危険なものです。例を挙げれば限りありませんが、たとえば・・・。

① 武道(特に古典的な武術)を学べば強くなれますが、最初の数か月間は、何もしらないでケンカするより弱くなることがほとんどです。慣れない動きで戦おうとしてしまうし、自分の流派の人とは違う形やルールで行わることもそうなのですが、「武道をやっているのにケンカしていいのか?」という罪悪感や「もし自分が強くなりすぎてて相手を殺してしまったらどうしよう」という委縮(勘違い?)から動揺してしまうことも大きいと思います。

② 「熱が出たら抗菌薬」らしいと聞き、子供が風邪で熱を出したから抗菌薬を与えるとします。しかし風邪は高い確率でウイルス性なので抗菌薬は効きません。むしろ耐性を作ってしまったりします。伝染性単核球症でペニシリン系の薬剤を与えてしまったら発疹の可能性もあります(セフェム系も避けるべきだそうです。これはどうでもいいのですが)。

もちろん50%が0%に勝るケースも多くあります。タバコを1日20本から10本に減らすことには意味があります。ただ、中途半端の危険性については認識しておきたいところです。

Informational managementの分野で、EVII (Expected Value of Imperfect Information) という概念があります。不完全情報の期待価値なのですが、不完全ではあるけど有用な情報も世の中にあり、そのために(たとえばそれを得るための検査・調査の結果を知るために)どれぐらいのお金をかけてもよいかなどを考えるツールの中の概念です。教科書的ではありませんが、不完全情報の期待価値がマイナスであることを認識している学者もいるようではあるものの、これを深く追及した論文は今のところ見当たりません。そこで、これを一般常識として広めたいと思っています。

もちろん世のためになると思うからですが、これには利己的な背景もあります。中途半端な知識で惑わされたり誤ったことを覚えたりしたくないし、中途半端な能力の人に教わったりサービス提供されたりしたくないし、裏付けのない自信を持つ人に重要事項を任せたくありません。

ご存じの方はご存じだと思いますが、私は知ったかぶりが嫌いです。わからないことはわからないと言ってほしい。「そんなこと自分で調べろ!」と怒鳴られた方がまだ嬉しいです。

人はカジュアルな会話のなかでも色んなことを学びますが、どこかの掲示板サイトやブログで得た知識を事実として述べる知ったかぶりがいて、自信ありげに話されたらそれを信じて学んでしまいます。それを「友達がこう言ってたよ」と広めてしまうかもしれません。カオス理論ではありませんが、それがどれほどの悪影響を及ぼすのかわかりません。相手のためにも訂正できるところは訂正しようと思うのですが、それも疲れてしまいます。結果として、「この人の話は5割引で聞こう」と考えるに至ります。さびしいことですが、仕方のないことです。

コンサルタントなどには自信が重要であり、ハッタリをかますこともあると思います。仕事で間違えたら最悪訴訟・クビになりますが、プライベートではそんなことがないので、一種の仕事病で不確かな知識・ネタを見せびらかすように語ってしまうかもしれません。これを「噂なんだけど・・・」「ネットで書いてあったんだけど・・・」と前置きすれば信用度を保てるので、これを試してみてほしいと切実に思います。

身に覚えのある方はぜひ、実践あれ!

ムダ削減法

2009-12-26 11:45:42 | 人生論・閃き
効率的なスケジュールをこなしていそうな人にでもムダは多いものなのではないか、と最近思うようになりました。ムダのない人生なんて息苦しいように思えるかもしれませんが、取り除けばリラックスに使えたりする本当にムダな時間というものもあると思います。

ひとつめは、病気。どうしようもないものもありますが、避けれるものもあります。風邪から癌までいろいろと。予防を重視することはなかなか難しく、医療政策的にも「予防なんかできない」ととある医療政策の第一人者に言われたことがあります。仮にそうだとしても、それは政策の、公衆衛生上の問題であって、各個人には当てはまりません。現に今年は予防目的でマスクをしている人が急増しました。

ふたつめは、二日酔い。1週間飲んでないから「今日はとことん飲むぞ」という不思議な発想を絶ってみませんか。私もそうしようかと思っています。

みっつめは、寝すぎ。あまり寝溜めはできないものですし、多く寝たら多く寝る習慣に傾いてしまいます。もちろん十分の睡眠をとるべきですが、睡眠周期90分と考えるなら4.5, 6, 7.5時間睡眠のどれかにするとよいのでは。

よっつめは、待ち時間。世の中には多いものです。本一冊を持ち歩くだけでムダがなくなります。

いつつめは、一番焦点を当てたいところなのですが、一見有意義そうで実はムダな時間。進んでいるようで進んでいない時間。必要以上の掃除もそうですが、どちらかというとオフィスや教室内で生じることが多いと思います。業務は毎日変動するけど勤務時間が決まっている場合が多いのだから、どこかで勤務時間 > 業務となり、downtimeが生じることとなります。そのとき、どのように時間を使うべきか?意外とこの時間の使い方によって進退が決まるかもしれないと思っています。

むっつめは、無計画で何かをやってみて結果ムダになる時間。「何かやってなきゃいけない」というプレッシャーがある企業内では特に多い。計画自体に時間がかかっても、計画は立てるべきです。運転でいうと道に迷ったり、渋滞にはまったり、タイヤが溝にはまったり、ガス欠になったりするのはやはりムダではないでしょうか。

いろんなムダがあることが認識できれば、ムダを削減するのは比較的簡単です。ポイントは「今、本当に本当に有意義なことをしてるか?」と自問してみること。そして、もしムダが生じる状況に置かれてしまった場合は、なぜそうなったか、次回はどう予防しようと考えるのが重要だと思います。最後に、「あ、今ムダな時間を過ごしてる」と気づいたときに、その時間をどう有意義にするかを考え、無理矢理教訓を得ようとするのも良いかもしれません。

ムダが削減できれば、世間では「ムダ」と思われても自分が「楽しい」と思う時間にも当てられます。よってQOL上昇、ストレス削減。

とりあえず自分が実践してみて、今後付け加えることがあったら追記します。

私だけは違う

2009-12-05 10:45:10 | 人生論・閃き
誰にとっても自分は特別な存在です。そして「誰も知らない自分」というものも、誰にでもあるものです。そこで、世間の法則があったとしても私だけは違う、私にはあてはまらない、と思ってしまう場合があります。

例えば、病気。なんか調子が悪いと感じて、病院にいっても「異常ありません。疲れているのでしょう」と言われたとします。それでも自分は1億人に1人の超レア疾患にかかっているのでは?医師に見落としがあるのでは?受診直後に病気になったとしたら?と考えたりすることもあります。

自分だけはアルコールをどんなに飲んでも大丈夫、という勘違いをしている人もいます。自分だけは万引きをしても捕まらない、自動車事故を経験することはない、HIV感染することはない、などと勝手に考えてしまうケースは大人になっても意外と多いのではないでしょうか。

このように、確率が低いこと、身近でないこと、経験したことがないことは「起こらない」と考えてしまったりします。逆に、テレビで見たことや友達に起こったことは意外と頻繁に起こるものだと心配してしまったりします。

理解できないこと、信じられないこともあまりないと考えてしまいがちです。代表例が心理学だと思います。

心理学を学ぶと、人の心理をある程度読めるようになります。「じゃあ今何考えてると思う?」と言われたら答えられないように思われますが、実はそうでもないのです。その質問をした人は「心を読まれたくない」「読まれないように相手があてずっぽでも当たらないことを考えよう」「相手はどう返答するのだろう、どう言い逃れするのだろう」という考えが高確率で相手の頭の中に混在しています。実際「考え」ているミロのヴィーナス(なんでもいいのですが)は、ただ想起している対象のひとつであって、思考プロセスの一部ではありません。心理学が読むのは、思考プロセスです。

そして、人は心を読まれることを嫌います。当てられてしまったら否定する人が多いでしょう。不思議な形のプライバシー侵害というか、人間はいつもよいことばかり考えているだけではないので、思想の自由を奪われた気にすらなるからです。そして、否定しても相手にバレるはずはないと考えているからです(ここまでバレてしまいます)。もちろん個人差はあり、確率の問題であるということを一応付け足しておきます。

心理学は比較的新しい学問ですが、急速に広がり、今や(少なくてもアメリカでは)心理学の専攻がない大学の方が珍しいと思います。その学問の全知識が、「私」には当てはまらないと思う方が傲慢だと感じませんか?もちろん疑問を持つことは学問上重要ですが、ただ否定するべきでもありません。

このように、「私だけは違う」と考えてしまう状況は多いと思います。私自身にもあります。ただ理論を受け入れるべきではありませんが、何人もの学者が命をかけて作り上げた理論・法則や疫学・統計の力を考慮してみてはいかがでしょうか。

「私」は「違」わなくても、十分に「特別」ですから。