人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

目標論と庭の木と100万円

2010-03-09 06:35:10 | 人生論・閃き
「100万円があったらどうする?」と小学生のとき聞かれたことはないでしょうか。

大人になった今、100万円以上の貯金がある方は多いと思います。その用途に使っていますか?

おそらく使っていないと思います。「おもちゃ屋のおもちゃを全部買う」とかですもんね。今は該当なしといった感じです。「お母さんにあげる」と言えた人はあっぱれ。これは今でも該当あり。ぜひ実行してください。

Mathcountsという数学オリンピックの中学生版みたいなものがあって、それに参加したときにアンケートがあって、「100万ドルがあったら?」という質問がありました。上位3人はすべて同じ答えを出しました。

「投資する」、と。

21世紀ならともかく、当時の中学生としてはすごいですよね。私は不覚にも「カジノを買収する」と書きました。冗談で書いたのは確かですが、「100万ドル」がどれほどのものかわかっていなかったのです。

ついでに、「投資って何?」と思い辞書を引きました。「貯金みたいなもの?つまんないなあ」と思った記憶があります。しかし5年後、同じ質問をされて、その通りの答えをしていました。

将来でも通用する判断を下すことは難しい。それが入学、就職など次第に変わっていくレールのようなものならまだ良い方です。

(うちは賃貸マンションですが、仮に)庭の木を切るかどうかを考えてみました。切るのは一長一短。長所としては、太陽が遮断されないこと。短所としては、切った後その木をどう処分していいかわからないし、面倒だし、お金がかかりそうなこととします。短期的には大変だけど長期的にはよさそう、ということで切ることにしたとします。

では、10年後の自分はどう判断するでしょう?10年後の自分には7歳の男の子がいるとします。木のぼりをさせたい。少しでも自然に触れてほしい。ブランコを作ってあげたい。自分も少しメタボになったので千本突き(空手の練習法で、板などを1000回パンチすること)がしたい。よって木は残したかった。後悔しちゃいます。

いつも数年後を見据えて決断を下す必要はないし、したとしても正確に将来を反映していないかもしれません。それでも将来を考えなくてはならないことがあります。たとえば結婚ですね。愛だけじゃ足りないとは言いたくありませんが。

それより、今回考えたのは「夢」です。

「トップミュージシャンになりたい」人は「トップミュージシャンになれる」人より圧倒的に多く、倍率だけでいえば東証一部上場企業の社長や医学部の教授になるより難しいと思います。その覚悟がないのも困りますが、何より「やっぱやめた。無理無理」となるのが問題です。

夢は叶えるものと考えるなら、ある程度現実的なものである必要があります。何が現実的かは人の環境や能力、現在の立ち位置等によって異なります。

個人的には、夢は叶えるもので、ただ夢を見たいのならそれは「妄想」と位置づけます。努力さえすれば得られるはずのものは夢でも「目標」でもありません。それは将来の一部、未然の「事実」です。努力した場合に実現できる確率(入試などの倍率や運に基づく確率論とは異なる概念です)によって、私は強気に、以下のような定義をすることにしました。

100%: そんなものはない
80-99.99%:事実
50-80%:予定
20-50%:目標
1-20%:夢
0.01-1%:妄想
0%:  そんなものはない

言葉どおり目標は「達成」するもので、夢は「叶える」もの、妄想は「見る」ものです。2割の確率があるのなら「目標」または「予定」であり、絶対実現してみせる、と考えるようにしています。他人の5倍の努力までなら必ずやってやる、と。2割以下なら運も絡んできますが、全力で追及します。1%未満なら、趣味として続ける程度にしておきます。

また、難しいのですが、ここで前述のとおり将来の自分がどうなっていて、どう考えるかという要素も含む必要もあります。それを加味してはじめて正確な数字に近づけるので。

人は無限の可能性を持っていますが、時間が有限です。そこで取捨選択が必要です。でも簡単に切り捨てる必要はありません。努力下で1%の可能性というのは、既婚のトップアイドル(って存在するかわかりませんが)と結婚することなどと考えています。それ以上の可能性があるのなら追及します。

このように目標・夢などを分類することは全くのオリジナル発想ですが、このような考え方を普及させて周りのみなさんの人生計画に力添えすることは私の「予定」の一つです。人によって定義付けも違ってきますので、そこからはじめる必要があります。

その木は切るべきか?100万円はどう使う?
これからの努力の方向性を今、考えてみませんか。

フェアって一体

2010-03-02 05:31:04 | 人生論・閃き
フェアって、何だろう。

アメリカ教育の下で育った身としては、平等性はかなり高位にある徳です。人はとなりの人と異なる面が多い。立場も環境も異なり、肌の色も今朝食べたものも違う。それでも平等な社会を目指すためには最低限の権利を保障し、主観的なフェアさと客観的なフェアさの折衷案を目指す。

客観的な平等を求めるなら共産主義の方が近い。主観的な平等を求めるなら民主主義の方が近い。でもどちらも理想的ではないから、色んな調整が入ります。

ミクロで考えてみると、こんな簡単なことも理解できていなかったように最近感じます。親身な人との付き合いにおいて、自分が「2」、相手が「8」の点があればお互い「5」に寄り添った方が「フェア」というか、一番よい結果が生まれ、親近感も沸き、安心できるのではないかと思っていました。

しかし同じ「3」の変化でも、2.5倍になるのと5/8に減らすのではかなり違うのかもしれません。環境などの要素で難しいのかもしれません。8がより「望ましい形」なのなら2の人が8まで上り詰める方がフェアなのかもしれません。そして、別に同じ位置にたどり着く必要がないのかもしれません。

以前にも書きましたが、「星の王子さま」では「同じ方向をみつめること」が愛だとされています。これに憧れがあるのかもしれません。

神経言語プログラミング(NLP)では、"Don't shove NLP down their throat" (NLPを相手の喉の奥に押し込むな=強要するな)と教わりました。それは自分がどんなにすばらしいものだと思っていて、それがどんなに相手のためになると思っても、相手の価値観を尊重し、望んだときにだけ考え方を共有していくべきだという考えです。宗教や教育もこうあるべきだと思いますが、個人個人の接し方もそうなのかもしれません。

私によって喉の奥に何かを押し込まれたように感じた方がいらしたら、この場を借りてお詫び申し上げます。逆に私の喉の奥に何かを押し込もうとしている方がいらしたら、この場を借りてお許し申し上げます。

今はこんなところまで「フェア」にこだわってしまっていますが、少しずつ変わらせてください。