人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

11,000の日々

2008-11-30 13:47:54 | 出来事
今月でついに30歳になりました。日数で考えると、もうすぐ11,000日を迎えることになります。11,000日の朝を迎え、3-4,000回は目覚まし時計と格闘したことになります。

今は久しぶりに安定した日々を送っています。息抜きは時間の無駄と思っていた数年前に比べれば余裕が持てるようになったと思います。これはおそらく、中期的な目標へのレールを引き終えたからだと思います。もちろん忙しいのですが、「今後どうしよう?」という迷いがないので毎日が過ごしやすいように感じます。これ自体がひとつの目標であったとも言えますが、それを実行するだけでは足りないと思います。私は人の数倍の時間をかけて人生計画を企てていると思いますが、それは具体的な到達目標を細かく設定しようとしているからだと思います。なぜか?

安定した急成長曲線を描きたいからです。

経済界では矛盾とも捉えられそうですが、速ければ安定していないなどというルールはどこにもありません。これを可能とするのが目標設定。

これは企業にはできず、個人にしかできないものだと思います。100年債を発行した企業もありますが、それは現在か近未来のため。長期ビジョンといっても長くて10年。企業理念といっても「業界一」や「お客様に喜ばれる」などと他人の評価や他人との比較が必要となるものばかり。

これは様々な理由により仕方のないことです。経営陣は毎年のように変わるし、世界情勢も変わるし、頻繁に変更するわけにも行かないし、具体的な目標を達成しなかったら株価が下がったりします。

しかし、個人にはこれらが一つも当てはまりません。(世界情勢は変わりますが、個人への影響は企業へのそれより軽微なものです。)

周りに影響されても体はひとつ、司令塔である脳もひとつ。100歳までの計画を作ってそのまま実現することも可能。いつでも変更できる。自分の夢にわがままになることも許される。夢に労働基準法の適用などなく、四六時中追求することができる。(もちろん睡眠もその過程のひとつです。)

だから、目標設定をしないなんて勿体ないと感じてしまいます。そして目標設定をしたら、100歳まで健康に生きてもまだ足りないと思いました。子供の頃はそう思っていて、その後病気や老化のことを知って「短く太く生きよう」などと考えてしまったこともありますが、今は喜んであと2万回でも3万回でも目覚まし時計と格闘したいと思います。

安定した急成長を遂げたら、長く太く生きることも矛盾ではなく必然となります。そんな30代、そんな人生にしたいと思います。これからもよろしくお願い致します。

救急裁判所

2008-11-05 18:44:07 | 法律
国民にとって病院の救急外来が重要な役割を果たしていることは、誰でも認める事実だと思います。手続きや待ち時間を理由に救えた命が救えなかった日には、悔やんでも悔やみきれません。

しかし、その悔やんでも悔やみきれないことが、裁判の世界では起こっているのではないでしょうか。

まず、ご存じのとおり、裁判所には従来最高裁判所、高等裁判所、地方裁判所、簡易裁判所、家庭裁判所があり、知的財産高等裁判所というものが最近設置されました。憲法上、最高裁判所の系列に属さない特別裁判所を作ることはできませんが、知財高裁の例があるように、最高裁判所の下に一定の事件を扱う裁判所を設置することには何ら問題はありません。

次に、裁判には時間がかかります。いつも忘れた頃に判決が下ってますよね。おそらく費用や時間を節約するため、少額訴訟などを請け負う簡易裁判所が設置されたのでしょうが、範囲が非常に限定されています。そして表現の自由関連で検閲事件が早く決められる場合もありますが、これは稀であり、それでも数週間の時間がかかっていたように思えます(憲法の判例はあまり覚えていませんが)。

そして、冒頭に述べたことですが、裁判所の判断を仰ぐ必要があるため命を救う行為が行えないこともあります。出産・堕胎関連、脳死(臓器移植)関連の事件のうちこれに該当するものがあります。たとえば医師が手技を施したいが、後に訴えられる可能性があるため手が出せない、もしくは患者の要求に応じることができないケースもあるでしょう。

日本ではわかりませんが、アメリカではこのような訴訟事件が少なからず見られています(結局、逆に手技を行わなかったことを訴えられているわけです)。

たとえば、アメリカで無脳症(大脳半球や頭蓋骨の一部がない赤ちゃんで、生まれてから1-2日しか生きれない重症の先天性疾患)の胎児を抱える母親が、その赤ちゃんの臓器を他人の赤ちゃんに提供したいと考えて帝王切開で生んだのですが、医者は臓器移植を拒否した判例があります。In Re T.A.C.P., 609 So. 2d 588 (Fla., 1992).

医師が拒否したのは、赤ちゃんに対する殺人罪に問われるかもしれないからです。赤ちゃんが死んでしまってからの臓器移植はできないみたいで、結局移植は行われず、赤ちゃんは死んでしまいました。そして救えたはずの他人の赤ちゃんもおそらく死んでしまったのでしょう。

この事件では結局、後日裁判所が無脳症を「死」と認定しなかったためどっちみち法的には移植はできなかったのですが、これが逆の結論となった可能性もあるわけです。そのときに素早く判断できる裁判所があったら、一人の赤ちゃんの命が救えたはずです。

ならば、「救急裁判所」を設立できないでしょうか。

裁判で要求されるのは判断であり、人体に対する処置は不要です。したがって霞が関行きの救急車もドクターヘリ(ジャッジヘリ?)も不要です。

事実認定や詳細の確認は難しいと思いますので、最初は1秒を争う事件には対応できないでしょうが、2-3日の時間を争う事件には対応できるかもしれません。裁判官が当直してくれるかはわかりませんが・・・。