人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

2つの心臓

2008-09-28 11:12:59 | 人生論・閃き
マンガやゲームの敵キャラで、心臓を2つ持っている魔王などがいます。1つ潰されても大丈夫、まだ1つ残っているからと平気でそのまま戦い続けたりします。昔から「これはありえない」と思っていたのですが、最近になってやっとその理由がわかってきました。

常にこんなことを考えているわけではありませんが。

まず、「痛み」です。これは昔から思っていました。心臓が2つあっても、貫かれるほどの一撃をうけたらそれは痛いでしょう。余裕で戦い続けるのは無理だと思います。

また、もし肺が傷ついていたら呼吸困難になりますし、背骨が貫かれて脊髄がやられたら下半身麻痺になります。ちなみに食道がやられていたら吐血するでしょうが、これは表現されていることが多いと思います。

それでも戦いの中で過剰なアドレナリンが分泌されていて痛みをあまり感じず、肺も脊髄も無事で戦い続けることが可能だったとしましょう。次に問題となるところは「出血」です。

そもそも心臓は肺循環と体循環に血液を駆出するポンプ機能が重要なわけで、これが機能しなくなると体の組織(とくに脳)に酸素がいかなくなり、細胞が死んでしまいます。そして心臓が1つ残っていれば、このポンプ機能が保たれるかもしれません。しかし、ポンプする対象となる血液がドバドバと体の外に出てしまっている状態ではポンプ機能だけでは不十分です。出血が増えれば血圧が下がり、循環血液量減少性ショックにあって気絶したりします。体に循環するすべての血液がとおる心臓にはまとまった血液が流れてくるので、ここに勇者の剣などで刺されたら相当量の出血があることでしょう。

また、心臓が2つあるときの血管のつながり方も考える必要があります。「1つあれば問題ない」ことから、両方がそれぞれ肺循環と体循環をつかさどる左右の心臓機能が別れていて、かつ心臓がそれぞれ強くて、ひとつでも肺循環と体循環の両方に必要なポンプ機能をはたしているということです。

人間には腎臓が2つありますが、腎臓のように血液がどちらかを通ればいいというわけではなく、たとえば左右に心臓があり、右の心臓が右の体と肺を担当する、なんてことはうまくいきません。なぜなら、その場合右の心臓がやられたら右の半身の細胞が死んでしまうからです。すべての血液が両方の心臓をとおる必要があるのです。ということは正常の状態であまり2つ心臓がある意味はないということです。かなりムダです。さすがは心臓が潰されるような戦いのために生きている魔王さんたちですね。

また、心臓は通常「洞房結節」というところから電気信号を出して心筋を刺激させますが、心臓が近すぎたらお互いの電気信号に影響を与えていしまいます。相互に不整脈を起こしてしまいそうです。

さて、魔王さんたちの間では心臓が左右の胸にあることが多いようです(肺がどうなっているのかはわかりませんが・・・。)そこで心臓がお互い近くにあって、お互いのスペアみたいな感じで存在していると推測されます。

その場合、2つの心臓を持つメリットはあります。しかしそれは、高度な医療がなければ成立しないメリットです。

まず、心筋梗塞。魔王さんたちは人間を食べたりしている(?)のであれば肉食ということで、しかも闘ってばかりいて交感神経優位の状態が長いのであれば高血圧であることが予想されます。しかも300年生きていたりするので動脈硬化が進んでいるかも知れません。心筋梗塞になってしまう可能性が高いと思われますが、心臓が一つ心筋梗塞なって壊死してしまっても、心臓全体(またはその一部分)を手術でとってしまえばいいわけです。

他にも、予め心臓をとっておいて1つ目がダメになったら入れ替えることや、生きていながらも心臓移植のドナーになることができます。魔王さんたちも空気から生まれるわけではないでしょうから、家族はどこかにいることでしょう・・・。

最後に、しょうもない投稿のように思えるかもしれませんが、このような思考をしてみるのは医療従事者等にとって重要だと思います。生理学の理解が問われますし、奇形や非典型例の対処にもより柔軟になれると思います。もちろんこれは医療だけの話ではなく、ビジネスでも頭の中でいろんなケースや問題を想定している人の方が営業で成功し、交渉に勝ち、信頼が得られるのでしょう。

守る側

2008-09-16 01:32:32 | 人生論・閃き
「先手必勝」というように、攻めるより守る方が難しいことが多いと思います。壊すより作ったり育てたりする方がよっぽど難しい。ケガをさせるより、ケガを阻止したり治療したりする方が何倍も難しい。「守る側」の人は不利な状況におかれているケースが多いということです。

だからこそ、元々「守る側」の職業の方が多かったのではないかと思います。医師や弁護士、消防士などから住宅の建築士、ボイラー管理士、ボディガード、保険会社、政治家まで。そして、親。

そして不思議なことに「守る側」ではない職業というのが、サラリーマンだと思います。マーケティングやっても営業やっても経理やっても戦略やっても守る側といえるほどではないと思います。もちろん、それが悪いわけではありません。

ある国の「サラリーマン率」を見たら、その国の裕福度がわかるような気すらします。マズローをはじめとする色んな人が言っているとおり、まずは保身、それから贅沢するのが人間ですから。

絶対なくならない職業は何か?という話題で「パチンコ業界」と真面目に答えられたことがありますが、それだけ平和な国に住んでいるのだと喜ぶべきかもしれません。

私は守る側に昔から憧れがありました。悩みには解決策を考える頭脳を、危機には判断力を、困難には勇気を、暴力に対抗する腕力と武術を、貧困を脱する行動力と就職能力を、外傷・疾病時には治療の知識を手技をもって対応できる人になりたいと今でも思います。

しかし、実際は守る側になったことがあまりありません。守る側の職に就いたことは一度もないし、妻も子供もいません。人の相談に乗ったり、少額の寄付をしたりすることしかできていません。

結局、守る側の能力を身につけてもいざというときにしか使い道がないし、そのときに実際発揮できるかもわかりません。そういう意味でも最近では、守る側のみが持ちうる特有な強さや優しさに欠けているのではないかと思うようになりました。

守る側に立ってみたい。しかし、攻める側の可能性は無限にあることに対し、守る側の目標は「ゼロ」や「現状維持」の場合が多いので、わかりやすい結果や達成感が伴わない場合が多いと思います。それをうまく調整して、無限の可能性を持つ「守る側」の仕事ができないかと考えているところです。

子育てや小児科医療はそれにあたるのかもしれませんが、他にアイディアをお持ちの方には是非お知恵を拝借したいところです。

パラリンピック

2008-09-13 03:11:33 | 出来事
2008年9月のメインイベントのひとつとも言える北京パラリンピックを7日目にして初めて見ました。恥ずかしながら名前とオリンピックの障害者限定版であることしか知らず、競技も井上雄彦作「リアル」で有名になった車椅子バスケがあるだろうとしかわかっていませんでした。

そして今回、知らない世界を一つ知った気がしました。

パラリンピックは運動機能障害、脳性麻痺、視覚障害、切断等といった4種類の障害が対象となるようですが、「切断等」以外の競泳種目を見ることができました。

運動機能障害者の決勝では「どこが障害してるの?」と思わせられ、ハンパない努力をしてきたのだろうと思わされました。

そして視覚障害者のレースでは、私の現役時代の自己記録より早いタイムで泳いでいる人がいて驚きました(注:筆者は2歳のときから高校3年までほぼ競泳一筋でした)。プール外からのヘルプは、自由形のときにターン前に棒で壁が近いことが知らされることのみだったように見えました。失明して間もない人もいるのでしょうが、何年間も目が見えずして孤独な練習をしてきた人も多いに違いません(注:競泳は目が見えても孤独なスポーツです)。

視覚障害者の走り幅跳びも見ました。なぜファールせず飛べるのかが今でも不思議です。蛇足ですが、車椅子ラグビーたるものまで種目として存在するようです。さらに視覚障害者の自転車競技もあります。

最後に脳性麻痺のショットプットを見ました。私としては、そもそも「脳性麻痺」という障害分類があることが意外でした。なんとなく運動機能障害に含まれているのかも、と思っていたからです。

そもそも脳性麻痺というものが何かわからない人も多いと思います。アメリカでは「Cerebral palsy」といえば大体の人がなんととなく理解している障害です。脳性麻痺は定義上、生まれつきの(正確には、受精から生後4週までに生じた)脳障害です。脳の色んな部位が損傷される可能性があるので色んなタイプがあるのですが、片麻痺や四肢麻痺が生じるケースが多いと思います。たとえば記憶があるときから両足が麻痺している選手もいるわけですが、彼らは一定レベルの健常者以上の結果を出しているわけです。

身体障害者を「助けたい」と思ったことは何度もありますが、それは傲慢なことであり、差別ですらあったのかもしれません。ならば背が低い人も助けたいか?茶髪も助けたいか?契約社員も助けたいか?その程度の考えだったのかもしれません。

人がそれぞれ強みと弱みを持っているのなら、むしろ身体障害者に教わり、助けてほしいと思います。フリーターを、政治家を、お坊さんを、お坊ちゃんを、そして私を助けてほしい。人は誰にでも手を貸すことができ、誰にでも手を借りることができる。そんな世の中は、意外と近いところにあるのかもしれません。

・・・心が熱くなってしまったので、明日にでも泳いでこようかと思います。