人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

千より一、そして一より千

2008-07-31 23:24:52 | 恋愛
「百聞は一見にしかず」などといいますが、ひとつの何かが多くの何かに勝ることは多いと思います。当然、千の1円玉より1枚の一万円札が欲しいと思いますが、もちろんそういうことではありません。

千の祈りより一つの行動を。
千の売り文句より一つの質問を。
千のメールより一つの手紙を。
千円のプレゼントより一つの笑顔を。

そして、千のダイエットより一度の受診を。
食べないのにやせないのならクッシング症候群、周りに痩せすぎと言われてもまだ太ってると思うのなら神経性食思不振症の可能性があります。(注:筆者は医師ではありません。詳しくは医師にご相談ください。)

さて、それはともかく、一より千の方が良い場合もあります。これは異論があるところかもしれませんが、

ひとつのキスより千のハッグを。
ひとつの夢より千の目標を。

そして、ひとつの愛より千の恋を。
これは「えっ?」と思うかもしれませんので説明しましょう。というか、これが今回のテーマなので。あくまでも私の勝手な意見ですが。

まず、「千の恋」であり「千人への恋」ではありません。千人への恋も非常に魅力的です・・・なぜなら数百年生きて、かつ精神病がなく、若い心を保ったままでいないと実現できないことだからです。気が多い人でも毎日違う人に恋をするわけでもないでしょうから・・・。

次に、「千人への恋」なくして「千の恋」をする方法ですが、これは簡単です。同じ人に千回恋をするわけです。ただし、これは上手くいった相手とにしましょう・・・ストーカー行為は犯罪です。

ひとつの愛は美しく、不滅であり、安定していて、どんな少女マンガ読者でも夢見る思春期の終点みたいなイメージのものです。しかし(勉強不足でわかりませんが)おそらく大体の少女マンガは愛ではなく恋の物語。そして恋が実現(=白馬の王子をゲット?)すると話が終わります。そのあとの話はマンガにできないほどつまらないのでしょう。だって、安定しているわけですから。恋人同士の少女マンガもあるとは思いますが、その場合はおそらく問題がいろいろあってわかれるかも、離れ離れになった、恋のライバルかもしれない人が現れた、(韓国ドラマでは交通事故にあった、記憶喪失になった、実は兄妹なのかも?)などと愛ではなく熱い「恋」の気持ちを蘇らせるような出来事が盛りだくさんになっているのでしょう。結局は恋の物語。

そんな熱い気持ちをずっと持っていたい。何度も惚れ直したい。100歳になっても相手に「ドキッ」とする瞬間がほしい。

正確なデータはありませんが(あったら困ります)、全国数百万人の夫・妻が深い「愛」の中にいながらも不倫を経験しています。それは愛があっても恋が冷めたからだと思います。一方、恋をしているうちのカップルで浮気している人はかなり珍しいと思います。このことから、恋の繰り返しは結局のところ「愛」より安定しているのかもしれないとすら思います。

思うに、同年代のうち恋に落ちることができる対象はざっくり7~8%。愛せる人は2~3%。しかしずっと繰り返し恋ができる対象は0.1%。すべて数字が大きく思えるかもしれませんが、高校のクラスに異性が30人いて、2人は結構いいかも、恋に落ちちゃうかも、と思ったらすでに7%です。

そして、千の恋の対象となる0.1%の人。ずばり千人に一人。結婚前に1000人の同世代の異性に出会える人はかなり稀だと思います。その中に一人いるかいないか、これはもう「オンリーワン」の領域です。

しかし一人にとってのオンリーワンは、大体色んな人にとってのオンリーワンです。私が中1だったとき、男子は一学年40人程度でしたが確か9人が同じ女の子を狙ってました(蛇足ですが、全員撃沈していました)。これも更なる「恋」を生み出す要素かもしれません。

最後に、千の恋の対象が自分を千の恋の対象と思ってくれる必要があります。これが私の理想。やっとここまで辿り着きました。探しているものがわからないと、いつまでも見つかりませんからね。

※ 補足事項 8/4/2008

「やっとここまで辿り着きました」というのはこの「結論」に辿り着いたという意味です。「千の恋の対象」に辿り着いたという意味ではありません。「探しているもの」がわかっただけで、それを見つけたわけではありません。

「おめでとう」らしきご連絡を数件頂いてしまった大変恐縮しております・・・。文章力が至らず誤解を招いてしまい申し訳ございませんでした。

最近考えていること

2008-07-07 03:24:40 | フリー作文
人を受け入れる前に評価をしてしまう。人を上手に褒めることができない。
たわいもないことで不機嫌になったり、人を疑ったり、愚痴を言ったり。

そんな自分の要素を風船に乗せて空に放ってみたい。
負の要素を解き放ったとき、正の要素はいくつ残っているのだろう。
残った自分は、まだ会話を弾ませるほどのネタが提供できるのだろうか。

過去と未来、実績と目標、経験と夢、どちらを笑われた方が辛いのだろう。
天才とバカのどちらに笑われた方が怒りを覚えるのだろう。

自慢と自虐を完全に省いて自分の話ができるのだろうか。
比較と評価を完全に省いて他人の話が聞けるのだろうか。
実力の差があっても真のチームワークが築けるだろうか。
いつになったら天邪鬼から卒業できるのだろうか。
余裕がなくても与えることができるのだろうか。

変わりたいと思う点を反省してもすぐ元に戻ってしまうことが多いが、劇的な出来事か細かく監視される機構があれば別だと思う。だから大事な事は本より人から学びたい。

答えがなければ問いかけは無意味だろうか。
知らないことは考えても無駄なのだろうか。
できないことに努力することは無意味だろうか。
愛されないのに愛することは自分を傷つけるだけのことだろうか。

不完全だから美しいと考えるのは口実だろうか。
不完全だから人間だと考えるのは甘えだろうか。

無駄な努力は存在しないが、非効率な努力は存在すると考える。
効率的な努力ばかりを選んでいると保守的になる。
オールラウンダーになれても中途半端になる。
やはりリスクの高い努力も必要なのだろう。

ならば、「その場つなぎ」の努力は非効率に思えるが、このような努力が企業・政治・マクロ経済において日常的に行われている。個人ベースでもそうで、掃除や洗濯、料理なども広義に考えればその場しのぎ。しかしどれも無駄でも非効率でもない。効率性が時間あたりの効果であるのなら、つなぐことができた時間の量も時間軸に加味して相対評価を行うことが必要か。「様子見」も戦術の一つとするに値するということだろうか。

忙しくないときは「何もしない」という選択肢が生まれてしまうのが恐ろしい。それはロールプレイングゲーム(RPG)で自分のパーティ全員に「防御」させたままで闘っているようなものだと思う。進歩があるわけがない。むしろダメージを受ける一方。RPGでの戦い方と人生の過ごし方には共通点があるべきだと思う。ゲームではとことんレベルアップを目指すのなら、人生でもとことん勉強や練習に励んで賞でも狙うべきだろう。どんどんストーリーを進めたい人は早めの出世でも目指すのが本性なのだろう。ゲームはすべて棘の道だが、ゲームをやる全員がそれをくぐりにけてクリアしたいと思っている。自分の人生にはそれ以上の熱意を注げる素質を持っているのではないか。