人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

信頼できるライバル

2007-09-28 17:57:31 | 人生論・閃き
市場原理とは競争であり、競争が止まないから効率性が高かったりアービトラージができなくなってしまいます。しかし競争は無限な競争心、無限な金銭欲や出世欲を持つ人間だけの社会を前提としています。

上を目指したいのなら、絶対的な能力を身に付けることが必要です。たとえば、会計士がキャッシュフロー計算書を作れなかったら話になりません。受験生が競争しあうことで、もっと勉強しようと思い、より早く確実にキャッシュフロー計算書を作れるようになったら、競争は大成功です。

すなわち競争は、ライバルとの相対的評価をもって絶対的評価を置き換えることです。相手に勝つことが、自分の能力に直結しているという考えだと思います。この概念にはライバルへの信頼があります。「この人に勝てば、自分は強く正しく成長している」という確信があるという思いがあるわけです。

自分の絶対的な成長の判断基準とできるほど信頼できるライバルがそうゴロゴロいるわけはありません。すべての人が無限のモチベーションと成長欲に駆られているわけではありません。ならば、ライバルの選び方は慎重にならなければいけないということになります。

そこで、ライバルを作るときは範囲を絞ったほうがいいような気がします。「俺はこいつだけにはサッカーで負けない!」じゃなくて、パスはAさん、シュートはBさん、スローインはCさん、ドリブルはDさんをライバルとするのです。それぞれの選手にそれぞれの得意分野で勝てたら、おそらくそのうちの誰もがあなたに敵わないでしょう。

詐病

2007-09-24 03:31:24 | 医学
患者さんが病院に来るとき、当然ながら「わたし腹膜炎を併発した腎盂腎炎なんです」などと病名を言ってくれません(万一言ってくれても、医者は自分で診断をしなければいけません)。そこで自覚症状などを聞き、疑われる疾患を考え、必要に応じて検査を行いながら確定診断を出します。

そこで内科学などの教科書では、「吐血」があったら「胃潰瘍」、「無月経」があったら「高プロラクチン血症」など疑われる疾患をリストアップしたものがあります。

そのリストの中に、不思議なものが幾つかあります。それは、疾患ではないもの。たとえば、上記の「無月経」だったら「妊娠」の可能性もあるわけです。そして、腹痛のリストを見ると、「詐病」とあります。

詐病とは病気詐欺・・・いわゆる仮病です。こんなことが教科書に書いてあるということは、それを使う人がある程度いるということ。目的は、学校を休みたいということから、病院に薬を出させて医療訴訟を起こそうという悪質なものまで様々でしょう。

肝硬変になってもお酒をやめてくれない患者さんなどはどこにでもいますし、患者が疾患の味方、医師や患者自身の敵となっている場合もあるということです。これは、警察の捜査隊の中に共犯者がいるようなもの、もしくはそれ以上に大変な仕事かもしれません。

しかし教科書の記述を見て、詐病を見抜けるようになりたいと強く思いました。病気なのに詐病と思ってしまったらそれこそ裁判沙汰になりますが、逆にそういった診断が出せるのは自信の表れでもあるし、精神面を含めた全人的医療への一歩目となると思います。

営業に行かずとも仕事を取れるのが一流のセールスマン。裁判に立たずとも紛争を解決するのが一流の弁護士。治療をしないで患者を治すのはこの2つより飛躍的に難しいと思いますが、それが超一流の医師なのかもしれません。

褒める心理

2007-09-23 13:35:09 | 人生論・閃き
誰でもときには、自分が褒められるように話を導こうとしてしまうでしょう。このような行為は、英語では俗に「fishing」と呼ばれます(褒め言葉を「釣って」いるからです)。

評価されたい、理解されたい、優越感に浸りたいと思うのは人間として仕方がないことですし、悪いことでは決してありません。しかし「こいつ、褒めて欲しくてこういう流れを作っているんだな」とわかってしまうとなかなか気持ちよく褒められないものですね。

期待に応えることに夢中になれるのに、こういう期待には応えたくない気持ちもわかります。プレゼントを買ってあげたいけど要求されたら買ってあげたくなくなるのと同じような感情でしょう。

これはおそらく、期待されないときに(サプライズ的に)プレゼントを買ったり褒めたりしてあげた方が相手が喜ぶことを知っているからです。そして相手を喜ばせた自分も気持ちいいものです。

ならば褒められたければ、褒めることを期待しているように見せないことです。そして褒められたら、素直に喜び、更に褒めてくれたことを褒めてあげましょう(サプライズとなり、効果もアップ!)。

Fishingしている人も褒めて欲しがっているのなら、出し惜しみをする必要はないので、褒め言葉を言ってしまいましょう。特に、相手の期待を上回る(もしくは異なる)褒め言葉を使えば、非fishing時(?)と同等の効果が(双方に)得られると思います。

セミオート

2007-09-22 03:26:24 | 人生論・閃き
マシンガンにはフルオート、セミオート、マニュアルなものがありますが、フルオートでもセミオートやマニュアルに切り替えれるようになっていたりします。フルオートの方が良さそうなのに、セミオートをつける意味はあるのか?と昔思っていました。BB銃にハマっていた小6ぐらいのことでしょうか。

セミオートというものは、一見中途半端ですが理想的な形であることが多いように思います。まず、どんな会社でもセミオートとなっていて、電子処理できるものと手作業となることが両方あります。製造業でも、どんな高度な向上でも人間の役割がないわけではありません。

そして、人間でも骨格筋などの随意部分と平滑筋などの不随意部分があります。生物もセミオートであり、自動と手動の部分がお互いをカバーしあって、相乗効果が生まれているように思います。どちらだけでも生きて行けないし、両方あることで無限な可能性が生まれるわけです。

ならば法人にとっても、すべての電子化を目指すのがよいわけではないのかもしれません。効率性を目指すとしても、常に自動で行われるものがマニュアルなものに勝るわけではありません。自動車でもマニュアルの運転を好む人が多いし、サーキットに出るほどの人のドラテクはオートマのギア切り替えより早く正確でしょう。

1と0の間にいるのはなんだか歯痒い感じがする場合もあるのですが、一度「中間」の醍醐味を実感したら病み付きになるかもしれませんね。

ぬいぐるみとあんしん

2007-09-17 04:03:44 | 出来事
先日「ぬいぐるみ病院」というものに参加しました。幼稚園に行って、園児がぬいぐるみをつれてきて、それを医師や看護師の役をする医学生が診断しながら、園児に色々と教えていくプログラムです。

かるてはすべてひらがなでかきます。ぬいぐるみは熱を出したり怪我してたりします。そして園児はそのぬいぐるみの親として、3日間ほど看病するなどの課題を課されます。

個人差はありますが、園児でも実はかなりの知識があります。平熱が何度か、聴診器とは何か、なんで手洗いが必要なのか、などなど。そしてマセた子、シャイな子はいても、ニート候補になりそうなやる気のない子はいませんでした。そんなことに安心している自分がおかしく思えましたが。

ということは、「ニート特性」は小中高で育つものでしょうか。親の過保護か?逆に過剰な期待か?豊かな国のせいか?ゲームやマンガか?仲間の問題か?

人間は常に変わる環境と自己とともに生きていますが、現代では何もしなくても現状維持ができてしまいます。生物としては、実はニートになるほうが自然なのかもしれません。

思うに、ニートになるのは多くの場合、夢や野望がないからではなく、世間が怖いからでもなく、偏った知恵を身に付けてしまったからです。「理屈ではなく頑張れる」ということがバカにみたいに思えてしまい、「こっちの方が人生トクじゃねぇ?」と思えてしまうのではないでしょうか。そこから「面倒くさい」「うざい」「飽きた」という気持ちに繋がっていくのかもしれません。

今の10代に必要なのは協調性や忍耐力だけではありません。「理屈じゃないんだ感」というか、「とりあえずやってみるか感」というか、「習うより慣れろ感」が必要なのかもしれません。

園児のように、理由がなくはしゃげて熱くなれるような人で溢れる国が作れたら、などと夢を見てしまう今日この頃です。

競争が激化した?

2007-09-14 22:44:49 | ビジネス
「○○業界の競争が激化している」という記述を、幾つの有価証券報告書でみてきたでしょうか。もしかしたら全上場企業の1割ぐらいは、その記述を毎年の有報に記載しているかもしれません。

そこで、「競争の激化って何だ?」と考えてみました。競争が激化したということは、競合が以前より相対的に強く感じるようになったということですが、実は「今までダラけてた競合が頑張り始めてしまった」という状況もあるのではないでしょうか。

外資系に買収されたり、妙に熱いコンサル会社が入ったりしたら業績があがったり、逆にリストラがあっても売上が下がらないのは尻を叩かれているから、ダラけている人がいたからです。市場原理があまり届かない中小企業などを見れば、給料ドロボウはまだまだ日本に存在していそうです。

格差社会の批判もあるでしょうが、がんばっている人とがんばっていない人が同じように儲けて報われる方がおかしい話です。「親の金」でも、親ががんばって、親の幸せである子の幸せを得た結果なので、子がラッキーといっても仕方ありません。親の努力の賜物です。そんなことを言っている暇があったら、もう一社に営業回りすればいいのです。そして自分の子にラッキーな思いをさせてあげてください。

頑張りたいけど頑張れない人はかわいそうに思えるかもしれませんが、それだけでは「かわいそう」に値しません。かわいそうなのは、頑張りたいけど頑張れない人で、いざ頑張れる状況になったら本当に頑張る人です。こういう人は意外と少ないと思います。人生には色々あるので「こうなったらこうするのに・・・」というセリフの信憑性は一般的にあまり高くないと考えています。

有言実行はそれだけ難しいということですね。

ダーリン(?)にどれだけベタベタ甘えてもいいと思うのですが、自分だけには甘えてはいけないと強く思います。競争が激化したのは、少し頑張ったぐらいの敵に追随を許した自分の責任です。

双方向の大和撫子

2007-09-01 15:50:56 | 法律
前回に引き続き、「時間の価値観の差異」について。

価値観は様々ですが、「時間」とは何か、どう使うべきか、という認識の差異によっても問題が生じることがあると思います。

これは、時間がありあまっている高校生のときはほとんど問題にはなりません。たとえば勉強の内容やスポーツのテクニックを誰かに教えてもらいたかったら、相手は「嫌な奴」じゃなければ教えてくれるでしょう。時間の価値をほぼゼロだと考えれば、「タダ」で教えれるというわけです。

大人になってしまえば、時間の価値はゼロではなく、逆に「時間が全て」ということになるのかもしれません。時給はいくらか。〆切、結婚式、死期が近づいてきているか。人によって一分の価値が全く異なるようになり、そしてその人の中でもどの一分かによって価値が変わってきます。

自分の中でも生じる差異なのだから、他人とこういった「時間の価値観」の差異が生じるのは当然のことです。しかし自分だけであれば、金曜日が忙しいなら木曜日中に用事を済ませるなどと調整ができます。他人の時間の価値観は流動的なのだから、長年の秘書でもなければ完全に把握しきれないものでしょう。

それでも、ビジネス上では相手の気分を害することを少なくしつつミーティングしたり接待したりしています。これはなぜでしょう。

それは、おそらく仕事だからです。給料をもらってやっている仕事だから、その時間を使って他人の配慮をすることは、当人にとっては「自分の時間を売って他人のものになった時間」を使うようなことであり、「タダ」に等しいのです。いくらでも気を使えるわけです。高校生のときのように、このような配慮をしない人は、やはりただの「嫌な奴」になってしまうのかもしれません。

こんなビジネスマナーを家庭や友人関係に持ち込んでは疲れます。しかも家族や友人と過ごす時間は「自分の時間」であって、前述のとおり人それぞれの価値がつけられ、また時間によって価値が異なります。

相手に配慮したいけど自分にも都合があります。しかも、やっぱり前回書いたように互恵を意識してしまい、一方的にあわせるのも辛いものです。

男がCAや看護師などに憧れるのは、自分の時間の価値が低いとき(要は、暇なとき)、そして相手の時間の価値の方が高いとき(仕事で忙しいとき)にもこちらへの配慮を優先してくれることなのかもしれません。プライベートでも変わらない態度で接してくれる人がいたら、それは多くの人にとって理想的な妻・恋人・友人かもしれませんね。「大和撫子」も、実は人への配慮ではなく人の時間への配慮なのかもしれません。

とすれば、別にこれは女性に限った徳ではないはずです(というか、女性に限ってしまったら男女差別です)。大きな目的を犠牲にしない範囲でお互いを優先する「時間価値の互恵関係」・・・実はこれが理想的な関係なのかもしれませんね。