人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

気が付けば

2006-03-07 02:38:20 | 人生論・閃き
私は18歳のとき、音楽の授業である曲を聞きました。コード分析などを行い、音符レベルまでにその曲を解剖しました。そして、ひとつの気付きにより喜びと嘆きが同時に起こる経験をしました。

「俺はまだ4歳のときのモーツァルトに追いついていない」と。

その曲とは、モーツァルトが4歳のときに書いた曲。短いが音楽理論とセンスが詰まっている。音の性質を、耳の構造と認識の心理を、秩序と混乱を、協和と不協和を理解しているのは明らか。4歳児が、当時はあまりにも遠く見えた。

そして気が付けば、それからまた10年近く経っている。

大学で音楽理論の副専攻を終えて、今は自宅に小さなスタジオまで構えている。それでもモーツァルトからすれば6歳程度のレベルなのだろうか・・・。

モーツァルトは史上最大の天才の一人だったと私は思います。肩を並べそうな人も思いつきません。しかし彼には及ばなくても、現代で色んな活躍をしている人たちがいます。そして気が付けば、「俺はこの数年間何をしていたんだ」と思うほど差を疲れられている人が何人もいます。浦島太郎状態です。

年下の人があらゆるスポーツで天下を獲り、ヒットチャートを賑わし、数十億を稼ぎ、愛する人と愛する子供を育てている。相手は年下なのに、手も足もでません。彼らの15歳のときのレベルにすら及んでいない自分がいる・・・。

子供の頃は言い訳があった。それは、親であり、学校であり、何より「才能」「常識」という幻想(洗脳?)であった。しかし社会に出たら、そのような元々言い訳でしかなかったことが言い訳ですらなくなる。無限の選択肢。それは選択範囲に含まれなかったものの喪失だけでなく範囲内の未達成部分に関する自らの不足なのかもしれないが、無限の可能性も与えてくれる。

最高の世界を与えられた我々は、なぜその1%も見ずに死のうとするのだろう。それが「最高」でないと気付くまでが「最高」なのかも知れませんが、逆に「最高である」と思える地点にも達しないのであればそれは平凡な人生でしかないのかも知れません。

少なくても、今は最高の世界に住んでいるという認識を持てるようになりました。
よって、これから世界の限界を見届けるまで生き続きたい。
世界が醜く見えるようになったとしても真実を見届けたい。
戦も失恋も耐え抜きたい。

そしてモーツァルトが生きた36年弱に、自分の100年で辿り着きたい。
才というものが存在し、才で劣るのなら、汗を流し時間をかけるまで。