人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

楽しい思い出

2006-12-18 00:02:40 | 人生論・閃き
あなたは多くの楽しい思い出を持っていますか?それらを思い出してみてください。とりあえずそれだけで幸せになれますよね。

これらの思い出の共通点として、おそらく、「時間の流れが速かった」と感じたり、「もうちょっとこうしていたかった」と感じたりすることでしょう。楽しいとあっという間に過ぎてしまうから。

そこで、楽しい思い出を増やすと同時に、楽しい出来事中に「楽しい!」という実感を感じれる方法があります。これは、楽しい時間を一緒に過ごす人がいたならば、その人にとってもより良い思いでにすることもできます。

「楽しい!」

・・・はっ?!
そう、ちょっとでも楽しいことをしている間に「楽しい!」と言葉に出すことです。それだけです。これにはすごい力があります。

まず、楽しさはあとで実感する場合が多いのですが、楽しい出来事中にも楽しいと実感したいですよね。しかし、皮肉にも楽しすぎて楽しさを実感することを忘れてしまうのです。そこで、自分自身が「楽しい!」ということで楽しい今を実感することができます。

次に、思い出は曖昧で大雑把なものなので、思い出を振り返るとき、「楽しかったっけ?」と自問してしまうものです。そして思い出はワンシーンごとにしか思い出せません(知ってましたか?)。そして大体の場合、印象的だったか、思い出しやすいシンプルな記憶が真っ先に蘇って来ます。「楽しい!」というセリフを口にしたときの記憶は、蘇り易いのです。それは、①楽しかったという確認となり、②楽しい場面を振り返れるため思い出をもっと良いものにすることにもなります。

更に、これは一緒にいた相手にとっても同じです。特にあなたが「楽しい!」といってくれたのだから、上記①②に加えて、③「私と一緒にいて楽しいと言ってくれた」という幸せにも包まれることにもなります。

やっぱりブログを書くのって、楽しい!

本当にわかった?

2006-12-08 23:56:13 | 人生論・閃き
映画を見て、決めゼリフや感動的な場面で「わかるぅ~」と思ったことは誰にでもあると思います。一部のアクションやコメディ映画を除いて、この共感という感覚なしにしてはストーリーがほとんど成り立ちません。

御伽噺ですらそうで、魔法や喋るクマさんなどありえない現象を差し引くとやはり(多くの場合は主人公に)共感することができなければ大した感動も教訓も得られないでしょう。比喩が使われる場合も(文章レベルでも物語レベルでも)必ずそうで、聞き手が共通性を把握できない比喩は「なにこれ?」感を誘い全体の効果を減少させるものとなってしまうでしょう。

さて、我々は現実社会で多くの人と接し、その中で共通の世界に住んでいるという認識を探っています。特に「建前」と「本音」が特長とされる世界のビジネスシーンや日本全般では、どれだけの「わかるぅ~」が勘違いにすぎないのでしょうか。

おそらく、かなり高い割合になると思います。

単独の行動を見た場合、その人が置かれている外部・内部環境や状況によって色んな意味を持ちうることは明らかです。一般的に人を殴るのはあまり良いことではありませんが、それが①罪のない子供を救うためだったり、②ボクシングの試合だったりしたら頷けるものになったりします。

心理学や、これを応用するマーケティングや刑事訴訟など幅広い分野において、このような環境・状況が重要な役割を持ってきます。

結局追っているものは、他人の思考回路。

刑事訴訟では特に、何をしようとして殴ったのか(=思考回路)が重要であり、やはり上の例でいうと①正当防衛、②正当行為だから無実ということになったりします。これは得られる証拠などから推測するしかないのですが、法廷外ではこのような証拠すら容易には得られません。

とすると、身の回りの人や、映画や小説に頼って他人の思考回路がいかなるものか、自分の思考回路が世間一般と掛け離れたものではないかを確認するしかありません。

そうなるとやはり建前・本音や単独の感動シーンに捕われてしまうことが多くなるのではないかと思います。偏重された世界観に影響される社会があるから、それがそのまま現実の社会の総意と早代わりしてしまう危険性もあります。

だったら少なくても一部の人間が、本当に思ったことだけでなく、その思考回路を記すべきではないでしょうか。大げさに聞こえるかもしれませんが、それが世界の基準を少しずつ形作り、極端な勘違いから逃れる手段となるのではないかと思います。

このブログもその手段のひとつ。人生論のカテゴリーの記事は、「こう思う!」とただ述べているだけではなく、なぜそう考えているか、そもそもどういう思考プロセスでその結論にたどり着いたかを書いているつもりです。逆にこれがなければ、「あ、そう」で終わってしまうでしょう。

「殴る」の例を掘り下げてみます。環境が同じで、ふつうの状況で「殴られて、殴り返した」ということがあったとしましょう。ふつうに「わかるぅ~」と思っても、まあ、おかしくないでしょう。しかしそれだけではその殴り返した人を理解できず、①殴られたら殴り返す人なんだ→怒りやすい人なんだぁ→一歩引いた付き合いをしようとか、②殴られたら殴り返す人なんだ→正義感が強い人なんだぁ→ついていきまっせ師匠とか、色んな捕らえ方が出てきてしまいます。

このように、メタプロセス(簡単にいうと、プロセスのプロセス)の理解が、本当の「わかるぅ~」に繋がるのではないでしょうか。これを引き出す手段は、実際のところ①朝まで飲んで語り明かす、②他人の日記をひそかに読んでしまう、ぐらいしかないように思えます。

これに加え、③ブログというものに期待したいので、皆さんも少しずつ思考回路を公開してみてはいかがでしょう。個人的な内容でなくてもいいと思いますので、是非お試しください。

偶然という大いなる力

2006-12-02 13:28:49 | 人生論・閃き
(注:この記事は視点の提供のために書かれたものであり、特定の信仰もしくは信仰一般に対する批判ではありません)

信じる人のみが救われるのではなく、神は、運命は、そして永遠の愛は、信じる人のみのために存在すると考えます。そして信じるか否か、それは偶然という大いなる力のみの結果であると言っても過言ではないかもしれません。

もともと我々20世紀生まれの人間は、scientific methodが確立されたあとに生まれました。信仰か理性か、といったら概ね理性が勝ったといる時代なのかもしれません。そして信仰が「負けた」というのなら、負けたどころか無視され続けた第3の勢力として「偶然」を挙げたいと思います。

ダーウィンの進化理論は自然による遺伝子の選択を説いていますが、これは種の進化が偶然の変異によって起こることがベースになっています。選択自体も環境によりけりであり、どのような環境にある種が生まれたかもまた偶然である。世界が誕生したことも偶然。ビッグバンですら偶然の出来事と考えます。

偶然に頼っていては安定性がなく、我々は不安になるので、理論と因果関係に頼るようになってきました。水に触れれば濡れる。必ず成立する理論や因果関係があるゆえに秩序のある世の中であると思い勝ちですが、それらの成立自体が偶然なのです。

神の場合も同じです。神が存在する世界では人間が神の下最高最強の生き物であり、神の教えに従うことが最重要事項となります。しかし、人間としては、神に作られたことは偶然でしかありません。

人が偶然を過小評価していることは、簡単な傾向で見られます。二人に「20回サイコロを振って、その結果を書いてください」とお願いするとします。そして一人はサイコロを振らず、適当な数字を書いて誤魔化したとします。すると誤魔化した人はこのような数字を書いたりします:

4 6 1 2 6 5 3 4 1 3 6 5 2 1 4 3 5 2 6 1

各数字が3-4回登場し、連続で同じ数字が出ていません。一見奇麗なデータです。

しかし本当に振った人は、こうなったりします:

1 1 1 4 3 1 3 3 6 1 5 1 5 1 3 3 4 5 6 1

偶然同じ数字が並んだり、小さい順に並んだり、特定の数字(ここでは2)がまったく登場しなかったり、データは以外と偏りを見せるものです。昔に円周率を200桁暗記したことがありますが、そのときにもこのような偶然な配列に気づきました。

3.141592653589793238462643383279502884197169399375...

ここまででゼロが一つ、3が七つ。不思議な例ですが、偶然はここまで偏りを見せることができます。

さて、話を戻します。

努力したから報われたのかもしれませんし、努力する人になったのは親の良き教育の賜物だったのかもしれませんが、誰にとっても「私」と認識する人がそんな環境下で生まれ育ったことは偶然であるわけです。

とすれば、運命は運命があると偶然信じたから存在する。ならば偶然この記事を読んで、偶然「運命は変えられるかも」と考えたら偶然にもそのような世界に「引越し」することになります。これは偶然とはいえ、まぎれもなく本物の結果。見方を変えれば世界が変わり、これは大いなる偶然の中の小さな因果関係の結果ではないでしょうか。

このように、いくら頑張っても、何にも勝る力こそが「偶然」というものなのかもしれません。このような不安定さを「恐ろしい」と感じる人もいるかもしれませんが、その感情もまた偶然のものです。

そして我々は偶然、その姿勢を意図的に、そして瞬時に変えられる環境に生まれました。これを利用しない手はないですね。