人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

最後の一歩とは

2006-05-29 23:56:12 | 人生論・閃き
山の頂上まで登るととても達成感がありますが、無事下山できて初めて何かをやり遂げたことになります。サッカーの試合はホイッスルではなく2チームの礼と握手で終わります。このように、終わったと思ったり、達成感を味わったりした瞬間が必ずしも最後のステップでないことが多いと思います。

人は色んなプロジェクトに取り組み、物理的にも精神的にも様々な「旅」に出ます。それはいつ「終わった」といえるのだろう?その最後の一歩とは何なんだろう?などと少し考えてみました。

結論として、それは、次の旅の一歩目と重なるものではないでしょうか。次に繋がるからこそ過去の経験は活き、学習があり、意義がある。金メダリストやノーベル賞受賞者でも、「私はこの一生での役目を果たした」と思って麻雀に明け暮れる毎日に切り替えるわけではなく、更なる目的に向かって動き出すものです。

我々も知名度や貢献度においてはこれらに劣るプロジェクトを行っていたとしても、次につなげることができれば彼らと肩を並べている状態だと考えられるでしょう。理由は神でも神々でも、母親でも責任感でも息子でもミナちゃんに振り向いてもらうためでもなんでもいいでしょう。

最後の一歩に踏み出せることさえできれば、我々は永遠なる進化を続けられるわけです。単利と複利を比べる程度の話ではなく、これは0と1の差です。ゴールを割った瞬間には、すでに次のゴールのことを考えているようになりたいですね。

ピアノを購入しました!

2006-05-28 14:01:52 | 出来事
本厚木の我が家にもピアノが登場!アパートの契約の関係でヘッドフォンで弾かなければならない電子ピアノなのですが、ピアノとして使うピアノを買うのは初めてのことです(シンセではなく、ということです)。

カシオのものであるからか、ヤマハよりタッチはやや軽めですが、手にしっくり来たのと、ペダル3つ組み込んであることと、ボディがインテリアに合うことから迷わずこれに決めました。

あまり弾く時間はできないと思うのですが、新しい環境で新しいピアノを弾くなら新しい作曲家にチャレンジしたい!と思い、チャコフスキーの「くるみ割り人形」の楽譜を買ってきました。ピアニスト志望の方はともかく、普通にレッスンだけでやってきた人の中ではあまり弾いたことがない曲なのでは。

くるみ割り人形は、チャイコフスキーが作曲した最後のバレーであり、本人はこの作品にあまり満足していなかったとの話です。しかし世界に愛され、今でもよく演出されているバレーですし、個人的にもとても好きです。

チャイコフスキーはロシア出身でありながら欧米の影響を受けたため、その作品は「ありきたり」に聞こえたり、「中途半端」に聞こえる場合もありますが、全体的にはよい中間のポジショニングを確立できた人といえるでしょう。人生でもビジネスでも「中途半端」と「丁度いい」の差は紙一重だと思いますが、この僅かな差異を見極めれるような人になりたいですね。

銀行とともに成長

2006-05-20 08:15:57 | 出来事
最近は忙しすぎてあまりブログが書けていないのですが、いざ書くことになると出来事が多すぎて何から書いていいのかわかりません。しかしそれでは何も始まらないので、直近の出来事をひとつ取り上げてみました。

最近銀行の法人口座の通帳がいっぱいになったので新しい通帳をもらってきました。すると、「東京三菱銀行」ではなく「三菱東京UFJ銀行」の通帳が!当たり前なのですが、手元にあったのは5歳から持っている「三菱銀行」の通帳と、会社設立時の「東京三菱銀行」の2種類の手帳だったので、ちょっと時代を感じていました。

環境が変わっていく中で、人間もこんなに変わって来たんだな、と思いました。

特に個人の銀行通帳には毎日記帳するわけでもないので、一種の日記みたいなものでもありますね。なぜかちょっと感動してしまいました。

世界の変え方入門

2006-05-06 14:04:49 | 人生論・閃き
我々は、どれだけ他人の引いたレールの上を歩いているのだろう。

人類の学習と自分の判断の間には、天秤にかけるまでもないほどの差がある。なんとなく幼稚園に行き、小中高(大)を進み、一定規模の企業の中の歯車のうちのひとつの歯になることで衣食住が確保でき、子孫が残せる。流れに呑まれる方が安全であり、大半の親が子にこのような道を辿ることを望んでいることも納得が行かなくはない。生物学上でも理に適っている選択である。

自分は違うと思っている人も、食べ物という宇宙の中でチョコアイスからチョコミントアイスへの移行ほどもしていない。

中には少しずつ人類を脱皮させた人たちがいます。それはソクラテスであろうとシェイクスピアであろうと、何か誰もしたことがなかったことを、誰も考えたことがなかった組み合わせを実現させたのだと思います。そしてそのプロセスはいつも同じであると考えます。

① 最低でも「人並み」の学習をする。
② 考える。色々と経験する。創造を意識する。
③ 学習したことを取捨選択するか、組み替える。
④ 新しいものを作り出す。

全く斬新なことが生まれるのは極めて稀で、「歴史」という学問がなりたつのもこれが理由なのかもしれません。大体はパラダイムシフトではなく、小さな改善や変化が大きな結果を生むものです。とすれば、人類に大きな影響を与える小さな発見に、誰でも辿り着けるはずでは。

現代では、大半の人が①をしている。しかし99%以上は一般に認識される程度での④には辿り着いていない。それはなぜか。

③から④が「天才」のなす技だと思われがちですが、私は異説を立てたい。すなわち、できるのに行われていない②の段階で止まっているのが95%。このうち50%以上の人は、③まで行けば④に行ける人、歴史に残りうる人だと考えます。

そして③では、学んだことを違う視点で学び返したり「unlearn」したりする必要があります。これは①の学習以上の時間がかかる可能性もありますが、日常の中で②さえあれば③は自動的に行われるものだと思います。③が困難なのは、②が行われていないからなのです。

結局、②がほぼすべてなのです。人は①が原則であるという環境に恵まれ、②を行えば③④に高い確率で繋がるという性質に恵まれていると言えます。なのに、なぜ考えない。なぜ経験しない。なぜ創造を意識しない。

・・・それは、「必要がない」からではないでしょうか。

前述のとおり、普通に生きていれば不自由がないケースが多くなっているわけです。必要がないことはしない方向で考えてしまうのは悪いことではありませんし、かつては生きていくために必要なスキルでもありました。そして、教育としても「これが試験に出る」に拘っているがためにプロセスではなく最終の答えのみを覚えてしまう。社会人として機能することはできるが、「考える」ことができなくなる。

我々に苦労が少ない100年が与えられるのは、全人類の全先祖が命をかけてきたから。今地上にいるということは数百万年の偶然と変異の繰り返しが生んだ奇跡。そのありえない確率で生じた奇跡の産物である我々が、上司の機嫌をとって夜は酒を飲んで週末はテレビを見るだけの生活を送っていていいのだろうか。

そう、②は「必要」です。

このような思いで夜中ベッドから飛び降りて、急にランニングにいったり本を手にしたり、あるいはこの命の使い方を考えた夜は数知れない。他にもそういう人がいることは疑わないが、日本の過半数には到底及ばないのではないだろうか。

・・・これを変えられないだろうか・・・。

考えよう。踏み出そう。
自分が「奇跡」より生まれたことを認識し、その責務を果たそう。