goo blog サービス終了のお知らせ 

人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

今は、行けない。

2011-03-16 22:44:33 | 出来事
現在マニラにいますが、できるなら今からでもボランティアしたい。

でも、今は、行けない。

それはマニラにいるからではなく、実力の問題です。今の自分が現地に行くより、働いて稼いで寄付するか、次に何かあったときのために腕を磨く方が日本に、世界にとって有意義。今できることは非常に限られていて、被災地に行ったらむしろ邪魔になる可能性が高い。

だから今日、目の前のデング熱の子を笑わせたり、犬に咬まれた子をなぐさめたりします。それしかできないから。明日もそうします。それしかできないから。

被災者の方々に何もできない我々は、せめてできることを、他の人にでもやりましょう。そうしたら、被災者の苦労のおかげでこの世界がより良い場所になったと思えるかもしれません。

だから誰でも、現状に貢献できる。
日常をこなすことも重大な貢献です。
そしてそれがいつか、何かにつながるはずです。

救われた一言

2011-02-17 18:03:42 | 出来事
2カ月ほど前ですが、昼寝をしてしまって、悪夢を見てしまいました。

水泳の練習に行くはずが、雨が降り出したのでなぜか豪邸になっていた実家に立ち寄りました。すると私が喉頭癌になったことになっていて、韓国人が韓国語でそのことを詠う劇をやりはじめ、いつの間にか盛大なパーティになっていて周りに「おめでとう」としか言われない夢でした。あとはパーティ会場(豪邸と化した実家)でハイソなおばさま達がクッキーとかのお中元を交換しながらザマスザマスしてました。

わけがわからないのが夢ですが、こんなに辛い「おめでとう」は今までありませんでした。目が覚めると、同じく夢関連で思い出す限り一番うれしかった「ごめんね」を思い出しました。セリフ自体は夢ではなく現実で言われたことです。

たしか小4のときの夢です。当時たまに嫌味を言ってくるいじめっこな、1年上の先輩小学生が二人いました。ひとりはインド系、もう一人は思い出せません・・・。その二人が殴りかかろうとしたので逃げまくって、ついに家に逃げ込んでほっとしたところ、家にまで入ってきて、母が「お友達?」と聞くと「はい」と勝手に返事されて、逃げ場のない家のなかで更に追いかけられました。そこで目が覚めました。

目が覚めて、泣きながらこのことを母親に話すと、辛そうに

「ごめんね」

と言ってくれました。

人は皆それぞれ違う「脳内世界」に住んでいますが、相手の世界に合わせた言葉を操れるのは精神科医だけではありません。人生を変える一言でなくても、その日の気分を変える一言は誰にでも思いつくものです。相手を気遣う気持ちさえあれば。

毎日意識すると大変なことですが、慣れてしまえば自然にできますし、そうしている人もたくさんいます。私は意識しているうちはできますが、大体仕事に追われたり疲労が溜まったりするとそれを忘れてしまいます。特に、幸せそうな人、安定している人、明るい人、強い人には甘えてしまい、相手の世界を理解する努力が薄れてしまいます。共有すれば、自分も幸せになれそうなのに。

英語では良い知らせを伝えられたりすると「You made my day」と言いますが、それを日常的にできるといいなと思います。

左手による脳の活性化

2010-12-09 00:05:12 | 出来事
最近、周りに呆れられながらも左手を使う練習をしています。みなさんも一度はやってみたことがあるのではないでしょうか。

個人的には、右手に怪我をすることが多く、そのたび左手の達人になろうと思いましたがすぐ諦めていました。

先週はじめたばかりですが、取り組んでいる課題としては

ペンで下線を引く(文字はまだ無理)
ペットボトルのキャップを開ける
はさみを使う
歯を磨く
糸ようじを使う
箸を使う

といったところです。箸には手こずっていて、食事がゆっくりになってしまいます。しかし食べ終わる頃には満腹感が出てくるので、実はダイエットにもなっているのかもしれません。

利き手ではない手を使うと脳が活性化されると言われますが、左手をうまく操ろうとすると新たな神経のつながりができるのは頷けます。しかしそれは、ただ単に左手を使っているからではないと思います。

箸を使うのは非常に大変なことだということに気付きました。今まで意識したことがないのですが、箸を使って食事を採るためには色んな動作が必要です。

挟む
刺す
切る
寄せる
すくう
引き離す
はがす
混ぜる・卵を溶く
箸にくっついたものをもうひとつの箸で擦り落とす
食べ物を上にのせてバランスを取る
流し込む

などなどです。左手を使うときには右手の見本に従い、ひとつひとつの動作をこのように分類して考えざるを得ません。動作が変わると驚くほど実行できませんから。

左手はこのように、日常に色んな「気付き」をもたらしてくれました。

あともうひとつ。自分は「ピアノを弾くから左手は他人より器用だろう」と思ってましたが、今はおごりだったと反省しています。右手は左手ができない何万もの動作をこなしていたのです。ピアノはそのごく一部でした。

何事も自然にやってしまう完璧な先輩(右手)に追いつくことを目指し、今日も左手を活用していきたいと思います。

ついに第3位へ・・・。

2010-08-20 02:02:34 | 出来事
雑誌「エコノミスト」によると、日本はついに世界第2位の経済大国の地位を中国に譲ることとなりました。平均給与水準は依然として10倍なのですが、日本人としては複雑な気持ちになりますね。

さて、世界的に「褒められて伸びるタイプ」が多く、日本人も例外ではないと考えています。現状が悪くても成長がみられる場合は「褒められている」ような気分になり、モチベーションも上がります。逆に勝っていても追い上げられている場合、特に逆転された場合はモチベーションの維持が難しくなります。

こんなときは、少しでも結果を出したり、視点を変えたり、新しいことに取り組んでも「プラスの方向に動いている」という実感が重要だと思います。

人は常に前に進んでいるわけではありません。年を取ると尚更のことです。そして現状に満足(自己暗示)し、全盛期は過ぎたと決めつけ、より緩い生活りに入ることになります。でも大学卒業の22歳まで遊びまくり、30歳からメタボ体質になり、40歳で社長になる野望を諦め、50歳でこれ以上の出世は望めないとゴルフに没頭、60歳で退職とともに腰が持たなくなりテレビとビールの毎日になるのではあまりにももったいないと思います。

この場合、社会貢献しているのが22歳から60歳、そして向上心を持って努力しているのが80年前後の人生のうち18年間です。40歳から60歳の間は全力の5割でそれなりにこなしているとして、合計で28年分の貢献となります。潜在能力の3分の1しか発揮しないまま死ぬことになります。

一方、記憶があるときからオリンピックを目指し、常に全力で仕事と体調管理に励み、家族を愛し、退職後も後輩の指導等に励む人は80年間のすべてで社会に貢献していることになります。

3倍充実していることになりますが、子供のころ何かを目指していたのかというのは環境因子の影響も強く、いまさらどうにもなりません(自分の子供の教育は熱心になさってほしいですが)。

ならば、モチベーションの維持(そして体調の維持と、隠れた老化現象のひとつである「自己中心的になる」ということを回避すること)こそが社会貢献の最大の鍵ともいえます。もちろん誰もが一日10時間ピアノの練習をすべきわけではなく、自分なりのやり方で最後まで全力で走れる・歩ける・車椅子を回せる・這えることが重要です。

前述のとおり、進んでいる感覚が得られれば楽になってくると思います。ダイエットで辛いのは最初の1キロと、安定期になってどんなに頑張っても体重が減らない期間に入ってからの次の1キロと思いがちですが、そうではありません。

一番辛いのは、見事にリバウンドして体重が元通り+1キロになったときに元通りに戻るための1キロです。

ふりだしより後方からのスタートで、しかも我慢してるつもりでも体重が上昇傾向にあるときに、前回以上のモチベーションを出せるだろうか・・・ここが勝負のポイントです。

行き詰ったら簡単な資格をとったり、新しい会合に顔を出したり、普段は読まないジャンルの本を読んだり、ちょっと休憩してみたり、昔の仲間に連絡してみるのもいいかもしれません(私はすべて実践しました)。でも、何かを何とかしようという気持ちだけはどこかに持っていたいものです。

できるけど、できないこと

2010-07-21 00:21:44 | 出来事
家に帰る途中で、暗く人影の少ない道の歩道に自転車が倒れていました。自転車には2つのライトがついていて、両方点灯していました。そして、その隣に30歳前後の男性が倒れていました。

怪我をしたのかも、万一頭を打って脳出血でも起こしていたらどうしようと思い、近づいてみました。どの程度で救急車を呼ぶべきかはわかっているつもりだし、119に電話することになった場合の説明や救急隊への申し送りなどには自信がありました。最悪の場合は救命処置をする心の準備もできていました。道路の向かいの公園か近くのスーパーにはAEDもあったはず。

自転車と男性から2メートルぐらいの位置まで近づくと、呼吸音までは聞こえませんでしたが、色々と確認することができました。

まず、ヘルメットをしていないこと。出血や嘔吐が見た当たらないこと。膝が擦り切れていないこと。服が破れていないこと。自転車の向きと体の向きが逆であったこと。そして、小さいバッグが枕のように、頭の下に置いてあったこと。

枕に満足し、休息中と判断。そのまま帰ってきました。

しかし、違和感はありました。マウンテンバイクより長距離向けの自転車っぽかったのですが(自転車については詳しくないです)、長旅にしては荷物は枕になっていた小さいバッグひとつでした。安くはない自転車のように見えて、身だしなみも普通でした(野宿する必要なし)。ライトが点けっぱなしだったこと(寝てる間に歩行者等に踏まれないようにするため?)。そして、道路の向かいには公園がありました(寝るなら公園で寝ればいいじゃん)。

救命士さん達と救急車に同乗したことが活きたのか、ここまでは10秒ぐらいで把握できました。しかし結局は何もしなかったわけで、直接安否を確認すべきだったかを振り返ってみました。すると、見落としが無数にありました。

まず、転倒事故と考えたのなら、自転車の損傷を確認するべきでした。タイヤは曲がっていないか。ハンドルやペダルが擦れていないか。チェーンが外れていないか。そして路上の状態。タイヤ痕は確認するべきでした。転倒の原因となる段差や石はなかったか。前方不注意となる原因(携帯、イヤホン、かわいい女の子?)は周りになかったか。

本人に声をかけたり触れたりしなくても、確認できることはまだありました。表情はどうか。汗はどれだけ出ているか。寝返りはしているか。肩・腹の動きから呼吸は確認できるか。手や足首が変な方向に曲がっていないか。

そして、転倒以外にも路上で横になりたくなる・なってしまう原因はいくらでもあります。脱水・熱中症。低血糖。迷走神経反射。脳血管障害。不整脈。てんかん。悪性腫瘍。甲状腺機能低下症。急性アルコール中毒。腹痛。認知症。ナルコレプシー。過呼吸症候群。メニエール病。良性発作性頭位眩暈症。いじめ、家出、新興宗教・・・。なぜこのように考えられなかったのだろう。考えたなら、それぞれの兆候を探せたはずなのに。悔しく、そして申し訳なく思います。

普段ならできることが、「困っているかわからない」ということと「声をかけたり触れてはいけない」という自らが課したひとつの制約だけで、できなくなってしまいました。焦ったり緊張したりしたわけでもないのに。もっとできることがあった。そして、制約に関係なくもっとも重要である「考える」という面でも十分に機能できなかったことが非常に残念です。

力不足でごめんなさい。
そして、貴重な教訓をありがとうございました。

受け入れること

2010-06-05 00:41:04 | 出来事
医療従事者は院内で走ってはならない。焦ってはならない。検査や診察中に「あっ!」と言ってはならない。(ドラマに出てくる医師たちは、これらのすべての面において失格です。)

営業マンは逆に、走らなければならない。ときには焦るフリをしなければならない。「あっ!」とかいいながら。

この差は当然、第三者が医療従事者の動きから何かを読み取ろうとしてしまうからです。不安になってしまうからです。

しかし、医療従事者が落ち着いて話していても不安になることは多いと思います。専門用語だったり、重要性が理解できないことを言われているからだと思っていましたが、今はそうではないと感じています。

人間、わかっていても不安は感じるものです。すべてのリスクを理解していてもベンチャーに1億円投資したり、バンジージャンプに初挑戦するときには不安を感じます。

今週、病院で循環器系の検査を受けたときに偶然異常が発見されました。あまり心配しなくていいものだとは見てすぐわかりましたが、将来問題となる可能性はあります。あまり気分のいいことではありません。

患者さんに同じ所見が見られたら、私は「少し異常が見られますが、特に心配ありませんよ」などと説明したと思います。治療する必要はなく、注意事項はもしタバコを吸ってたらやめてもらう程度ですので。でも聞きたいことはたくさん出てきますし、不安になります。

その不安を取り除こうとするのも医療従事者の仕事ですが、すべて取り除けるわけではありません。ゆっくり話を聞いてくれる先生がいい先生と思われがちですが、それは外来で他の患者さんを長く待たせる先生にもなってしまいます。

結局、一患者として、「甘えてはいけない」と思いました。受け入れる覚悟は自分でしか作れない。誰のせいでもないつらさを誰かのせいにしても楽にならないし、治らない。自分のつらさは、他人に不快を与える権利ではない、と。五体満足であることを感謝して、何かに夢中になり、注意すべきところは注意する。

もう少し重症だったらこのように考えられなかったかもしれませんが、そうなれるようになりたいと感じました。社会人を数年続けていれば、診断名がつくものが2-3個、つかなくても異常所見が10個ほどあるのではないかと思います。少しずつ自分のことがわかっていき、100%未満を受け入れられるようになるのではないでしょうか。

そして、体が100%未満ならば知識や経験を身につけ、他人の指導や支援を行い、本を書き、寄付をする。そして、次世代に託す。何世紀もこの流れが当たり前のようにあったはずですが、今回の件でこの心理の移行がどれだけ大きなものかを少しわかった気がします。

年功序列の風習には未だ納得していませんが、一定の時を重ねるだけでも尊敬に値するということを少し理解できるようになりました。大きなショックや不可逆な変化を受け入れ、乗り越える・・・それも本当の大人への一歩なのかもしれません。

かたち

2010-05-16 14:20:19 | 出来事
昨日、カリフォルニア州弁護士協会のホームページにて2010年2月の司法試験合格者の一覧が限定公開されました。受験者番号とファイル番号を打ち込むと、一覧に名前が記載されているかを確認できるシステムです。

受験者として恐る恐る番号を記入して「検索」ボタンを押すと、記載されている場合は「上記の名前は一覧に記載されています」と一行のテキストがあるだけ。10回ぐらい読み直し、「受かってるっていうことだよなぁ・・・」と迷いながらも少しホッとしました。謎めいた記載方法で喜びの波に乗り遅れてしまった感がありましたが、そのページをそのままメールに貼り付けてロースクールのアドバイザーに送ると「おめでとう!」との返信が戻ってきたので、やっと素直に喜ぶことができました。

早ければ1か月以内に宣誓を行い、晴れて「弁護士」と名乗れるようになります。

さて、ロースクール入学前には一度だけ、日本の司法試験を受けたことがあります。これには合格できず、(仕事をしながらですが)1年近く勉強したのに「かたち」にできませんでした。しかし、これが私の法律知識の土台となったことも事実であり、かたちにならなくても有意義なこともたくさんあるのだということを改めて感じました。

会社経営、医学部通学と並行で4年間、通信制ロースクールに通いました。その3つの中で割いた時間が圧倒的に少なかったのが法律の勉強でした。日米では民法か判例法かという大きな差があるものの、基本的人権から禁反言まで通じる概念は数知れません。日本法を独学した1年間は決して無駄ではなかった、と自信を持って言えるようになりました。

このように、人の努力にはかたちになるものとならないものがあります。しかしかたちにならなかったからといって、何も実らなかったということにはなりません。どこかで生きているはずです。

また、世の中では目標や夢を明確に設定することが要求されます。これは面接から中期経営計画まで幅広い場面について言えることですが、それはコミュニケーション上相手に理解される必要性と、達成したか否かも明確になり、客観的な評価が容易になることだと思います。

しかし、明確な言葉にできない夢や目標もあります。最近になって思えるようになったことですが、こういった目標も重要であり、人の支えにも励みにもなり、主観的には同等の喜びが得られるものだと思います。言葉にできなくてもなんとなくイメージがあればよく、他人にうまく伝えられないものこそが核心を突くものであることも多いと思います。

「人生で何がやりたいのかわからない」という人は、おそらく「どの職業を選ぶべきか」「どこのどういった地位・立場・状態を目指すべきか」ということが明確にイメージできないのだと思います。こういったことは誰にでもありますが、どっちの足で踏みだすかなどあまり考えないのと同じように、あまり考えずに何かを試してみるのが近道なのではないでしょうか。正直、事後的に(多少強引に)色んな経験を結ってひとつの「かたち」とすることもできると思います。それでもいいと思いますし、歴史上の人物もよく実践していることだと思います。

私はすぐに弁護士として仕事する予定はありませんが、資格取得や好奇心を満たすだけのために勉強したわけではありません。まだ公開できない、まだ明確な言葉にならない目的があります。そのために、有形・無形を問わず、色んなものを求め続けたいと思います。

1か月記念

2010-01-22 23:29:10 | 出来事
昨日、禁酒1か月記念を迎えました。

今まで週1~2回程度の飲酒で、機会飲酒+αといった程度でしたが、年に何度かは二日酔いに悩ませられることがありました。つらいというより、翌日の時間ロスがとにかくもったいなく感じていました。

そこで禁酒する決心をし、忘年会シーズン、クリスマス、カウントダウン、元旦など1年で最も飲酒の機会が多いはずの時期にそれを貫きました。

直近のきっかけとなったのは「病的酩酊」なるものの初体験でした。症例報告の意味も含めて記しておきます。

まず(かなり大雑把な)定義ですが、

単純酩酊はただの酔っ払い。
異常酩酊はただならぬ酔っ払い。

異常酩酊には複雑酩酊と病的酩酊がありますが、

複雑酩酊はただの「ただならぬ酔っ払い」、
病的酩酊はただならぬ「ただならぬ酔っ払い」。

わかりやすくしようとしたのが逆効果になったように思えますが。

病的酩酊の特徴として「急激の生じる全健忘」があります。全健忘とは文字通り、なんとなく記憶が曖昧という次元ではなく完全に記憶がないことです。ただし、過去の記憶を失うわけではなく前向きの健忘です。

背景にはイッキ飲みがあります。「しない、させない」を徹底したいところなのですが、「させない」はできても「させられない」はなかなか難しいもの。普通なら断れることでも、元々単純酩酊の状態から断れるか、断りたいと思うかはまた難しい問題です。させる側も、普通は飲ませたりしないのにノリでそうなってしまったというところでしょう。「しない、させない」だけではこのような頻繁に生じるシナリオの考慮が不十分であることが明らかです。

さて、一部記憶のない出来事について語ったり自己診断するのも不思議ですが、相当量を飲んでから相当量のワインをイッキすることになりました。そして2杯目を飲み始めて、途中で「もう絶対ムリ」と思った瞬間からプツンと記憶がありません。まさに「急激に生じる全健忘」。気づいたら次の日の正午で、自分のベッドで服を着たまま目を覚ましました。そのとき当然二日酔い(+)でしたが、食欲(-)嘔気(+)嘔吐(-)。おそらく脱水のため頻脈気味でしたが、発汗等その他の自律神経症状はありませんでした。

治療としては、近医でリンゲルの点滴を受けることを検討しましたが、自分の代謝能力に任せて水分補給のみの経過観察にしました。

病的酩酊では乱暴になったり人格が変わったりして、犯罪に走ってしまうケースもあるそうです。今回は、人格の変化といえるほどの症状があったとは聞いていません。よくみられる症状である妄想・幻覚もなく、もちろん犯罪(-)です。

それでも、犯罪にしろ病気にしろ、何かが起きえた。危なかった。

ということで今後お酒を再び嗜むこともあるとは思いますが、今のところは禁酒とし、将来的にもイッキは絶対避けようと思います。

諸先輩方、友人知人の皆様、その点ご理解のほどよろしくお願い致します。

2010年の元旦メッセージ

2010-01-01 00:00:00 | 出来事
本年明けましておめでとうございます。
アフィア株式会社・東海大学医学部の岡本でございます。
例年通り、年賀状に代わる「年賀メール」をお送り致します。

2009年は、私にとって「ソナタの年」そのものとなりました。春には臨床実習を開始し、夏には3ヶ月間ニューヨーク医科大学にて内科実習に参加し、秋には再び日本で実習・学問に励み、冬にはカリフォルニア州の通信制のロースクールを卒業しました。

さて、本年のテーマは、「根気の年」にしたいと思います。

2010年には大きな決断と多くの試験を控えていますが、その中でも揺るがない軸とリズムを保てるように努めたいと思います。短期集中型である自分に安定した成長基盤を備え、特別なイベントや締切がないときでも前に進んだ実感を掴んで行きたいと思います。

2010年が皆様にとって幸せ多き年となりますよう心より祈念申し上げます。
本年も、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

平成 22年 元旦
岡本 武士

ご参考:
2009年(ソナタの年)の元旦メッセージ
2008年(序曲の年)の元旦メッセージ
2007年(統合の年)の元旦メッセージ
2006年(余裕の年)の元旦メッセージ
2005年(初心の年)の元旦メッセージ
2004年(結果の年)の元旦メッセージ
2003年(飛躍の年)
*************************************************
Happy 2010! I trust all is well with you and your family.
As in the past years, I have condensed Christmas cards and New Year greetings into a single message.

2009 turned out to be “in sonata form” as planned: I began clinical rotations in the spring, ventured out to New York for rotations during the 3 summer months, resumed rotations in Japan in the fall, and graduated from Concord Law School, an online law school in California, in December.

My theme for 2010 will be: A Year of Perseverance.

Despite the major decisions to be made and numerous exams to be taken which will undoubtedly make 2010 a roller coaster, I would like to focus on also acquiring the ability to take the slow-but-steady route in achieving long-term goals. I have always produced the greatest output in the face of deadlines and necessity, but would like to aim for similar results on an everyday basis.

Finally, I would love to hear from you and correspond on an individual basis. Communication is a two-way street; I have put my latest "out there" and would be delighted to have your latest "out here."

Best regards,
Tak Okamoto

January 1, 2010

褒め方

2009-03-17 14:45:18 | 出来事
褒めることはとてもいいことなので、悪い褒め方があるとは思っていませんでした。しかし考えてみると、褒めすぎは良くないですし、褒めるときに他の弊害が生じることもあります。

数年前の経験ですが、なぜか非常に印象に残った褒め方がありました。

匿名性を確保するために漠然とした説明となってしまいますが、出会ったばかりの人たちがチームを組んで目的を達成する会でした。その中に、人を褒めることに躊躇がない人がいました。とても素敵なことですし、関心しながら作業を進めていました。

そのチームの中で、作業の担当部分を素晴らしくこなした人がいました。当然みんな褒めますが、上記の人はこのように、みんなが聞こえるように褒めました。

「すごい!○○さんはこの中の誰よりも能力が高くて才能があると思います。」

周りは空気を読んで頷いていましたが、その発想に違和感を感じている人がいたのも明らかでした。

比較すると具体性が出ます。原則として具体的な褒め言葉の方が、リップサービスではないように感じるためとてもうれしいものです。しかし甲乙を付け、比較の対象を乙とするなら、少なくてもその対象が聞こえないように言うべきですよね。しかも、このケースでは協力関係が重要なときに競争の要素が導入されてしまいます。

薬の副作用のように、行動に意図しない悪い結果が伴わないように気をつけたいと感じました。

思うに、何事にもいくつかの視点、いくつかの「次元」があります。他人との比較はそのひとつであり、他に次元の褒め方を選べばより良かったのではないかと思います。

同じ次元:「すごい!テレビでやってた人より上手ですよ!」
(より無難で、よりうれしい褒め言葉ですが、やはり他人との比較。)
違う次元:「すごい!この文章の言い回しはすごくスムーズでしっくりきます!」
(作った人ではなく、その結果に着目している。具体性もある。)

このような言葉の入れ替えが実践できれば色んな場面で役立つのではないでしょうか。

最後に、上記のような微妙な褒め言葉はアメリカでなんどか聞いたのですが、日本ではこれが初めてだったと思います。それで印象に残ったのでは、と。

その理由を考えてみたのですが、日本人は気遣い上手であることが一つ挙げられます。その反面、人を喜ばせるより怒らせないことを優先する文化であるようにも思えます。

上記のように多少気をつけるべきことがあるにしろ、やはり積極的に人を褒めることができるのは非常に魅力的なことだと思うので、今までより一日一称賛増やせるように努めたいと思います。

ABC関係

2009-02-09 23:35:21 | 出来事
最近こんなシーンに遭遇しました。

A君、B君、C子ちゃんが一緒に食事していました。

A君:「C子ちゃんって結構ドジだよね!」
B君:「そうだね。」
C子ちゃん:「B君ったらひど~い☆」
(B君:「あはは☆」)

C子ちゃんは、ネタ提供したA君にではなく会話に何の価値も付加してないB君に向かってそういうと、B君にポカポカパンチをお見舞いしていました。

しかし、B君とC子ちゃんは恋愛関係になく、A君も別にC子ちゃんが好きなわけでもない様子。一番確かなのは、C子ちゃんがA君には興味がなく、少なくてもA君よりはB君と絡みたいということでしょうか。

そのとき、似たシナリオを思い出しました。

部長:「この戦略はリスクが高すぎるから採用すべきではない。」
社長:「そうか、そうだな。」
課長:「さすが社長!」
(社長:「まあな。」)

A君も、部長も、心中穏やかではないでしょう。B君と社長も、C子ちゃんと課長も、A君・部長に気を使わないのは自己中心的過ぎます。ちょっと飛躍しますが、著作権の精神に反しているとすら思えます。

ほとんどの人は自分の手柄を無償で譲れるほど単純でもブッダでもありません。A君はC子ちゃんが好きなわけでもないし、一部「ぶっちゃけどうでもいい」と思いながらも、なんとなく腹立たしく感じることでしょう。

また、もしB君と社長が同一人物だったとしたら、後者のケースでは部長を褒めるなどできても、前者の状況だったら「大したことじゃないから別にいいだろう」と思ってしまうかもしれません。

しかし、このABC関係を体験するとしたら、
①自分がA君だったら、B君とC子ちゃんを許してあげたい
②自分がB君かC子ちゃんだったら、A君に話題を振ってあげたい
と思います。

我々はおそらく、どこかでA君・B君・C子ちゃんすべての立場を経験していると思います。このABC関係が生じたとき、まずその状況に気づき、A君の立場に置かれても気にせず冷静を保てるようにし、B君かC子ちゃんの立場にあったら速やかに、そしてさりげなく、事実関係を正す(?)方向に動けるようになりたいと思います。

そして、「ひとつの状況でA君的な思いをしているのだから他のグループではB君的な、働かざる者が食っている状況もあったっていいじゃないか」という考え方もやはり間違っていて、これは「先輩にいじめられたから後輩をいじめる」に近い発想です。どっちみちゼロサムゲームといっても、各個人にとっていじめる&いじめられる状況が両方ある世界ではなく、どちらも存在しない世界の方が魅力的ではないでしょうか。もちろん、A君のような思いばかりしている人もいれば、いじめられるだけの人もいるわけですし。

ヒトは、自惚れるか傷付くまで優しい生き物です。
自分も、他人も、優しいままに保ちたいですね。

2009年の元旦メッセージ

2009-01-01 13:02:14 | 出来事
本年明けましておめでとうございます。
アフィア株式会社・東海大学医学部の岡本でございます。
例年通り、年賀状に代わる「年賀メール」をお送り致します。

2008年には「序曲の年」というテーマを掲げておりました。アフィアは6期目を迎え、医学部では座学をほとんど終え臨床実習の準備をしています。課題であった健康面につきましても、睡眠時間や体脂肪率を改善し、初の富士登山も達成しました。この30代に向けた序曲の演奏に携わって下さった皆様に深く御礼を申し上げます。

さて、本年のテーマは、「ソナタの年」にしたいと思います。

古典派の楽曲形式であるソナタ形式は提示部、展開部、再現部、結尾部の4つに分かれています。この形式に従い、2009年前半は学問に集中し、夏には幅を広げる挑戦を試み、秋には再度学問に集中し、12月には1年間で学んだことを自分の中で統合した上で2010年以降にどのように指揮棒を振るかを決定します。1年間をいくつかのテーマに分けることにより目標を明確にし、メリハリのある毎日を目指したいと思います。

2009年が皆様にとって幸せ多き年となりますよう心より祈念申し上げます。
本年も、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

平成 21年 元旦
アフィア株式会社
岡本 武士

ご参考:
2008年(序曲の年)の元旦メッセージ
2007年(統合の年)の元旦メッセージ
2006年(余裕の年)の元旦メッセージ
2005年(初心の年)の元旦メッセージ
2004年(結果の年)の元旦メッセージ
2003年(飛躍の年)
*************************************************
Happy 2009! I trust all is well with you and your family.
As in the past years, I have condensed Christmas cards and New Year greetings into a single message.

In 2008, Afia has achieved steady performance in its sixth year of operations so far despite the worldwide financial crisis. I also completed most of the classroom work at medical school, and am preparing for clinical rotations which will begin next April. I think I was also able to introduce the notion of circadian rhythm into my sleep schedule for the first time in several years!

My theme for 2009 will be: A Year in the Sonata Form.

In classical music, the sonata form is composed of 4 sections: the exposition, development, recapitulation, and coda. Consistent with this theme, I plan to focus on academics in the first half of 2009, explore new territory over the summer, shift my focus back to academics in the fall, and wrap up the year by integrating my experience during the year and raising the baton for the next movement in 2010 and beyond.

Finally, I would love to hear from you and correspond on an individual basis. Communication is a two-way street; I have put my latest "out there" and would be delighted to have your latest "out here."

Tak Okamoto
Afia Corporation

January 1, 2009

こんな年、この人の年

2008-12-30 16:19:00 | 出来事
2008年も明日で終わりです。今年は色んな人にとって、あまりよい年ではなかったのかもしれません。

先日友人と電話で話した際に「調子どう?」と聞いたら「順調だよ」と言われました。そのとき、この問いにポジティブな返事が返ってきたのはすごく久しぶりだと感じました。

そんな年だったのかもしれません。「こんな年なんて忘れたい」と忘年会を何度も開いた人も多かったと思います。

世界が不況に陥るということ、それは誰もがいつの間にか調子にのってしまっていたということなのかも知れません。実体のない保証を信じてしまったのかも知れません。GDPが1%悪化したら市場は数倍、数十倍の影響を受けるということを、多くの人がはじめて身をもって理解したことでしょう。

そんな年だったのかもしれません。「こんな年なんて忘れたい」と忘年会を開くにも、忘れるための費用が出せなかった人もいたと思います。

私にとっても、2008年が今まで最高の年だったかと聞かれたら「ノー」というかもしれません。でもそれは、景気のせいではありません。

今年は、師と友人を亡くしました。

師は音楽や演劇の道で「生きる伝説」のような人でした。大学入学当時から、劇団で明らかに一番下手だった私を育ててくれました。音楽家になりたいと思いながら「結局はできるはずはない」と思い込んでいた私を、「やってみよう」と思えるレベルにまで引き上げてくれた人です。結局音楽家にはなりませんでしたが、ブロードウェイの扉を叩いてオーディションを受けることができたのは間違いなくこの人のおかげです。

友人は周りに広く愛されながらも調子にのらない、深い話も頭が悪そうな話もできる人でした。他人と壁を作らず、いつも自然体でいられる人。一緒にいると自分のことがもう少し好きになれる、そんな魔法をかけてくれる人でした。

2008年を「こんな年」ではなく「この人の年」、一生そう思っていたい。
そう思うと、良し悪しではなく、とても大事な年だったと感じます。

11,000の日々

2008-11-30 13:47:54 | 出来事
今月でついに30歳になりました。日数で考えると、もうすぐ11,000日を迎えることになります。11,000日の朝を迎え、3-4,000回は目覚まし時計と格闘したことになります。

今は久しぶりに安定した日々を送っています。息抜きは時間の無駄と思っていた数年前に比べれば余裕が持てるようになったと思います。これはおそらく、中期的な目標へのレールを引き終えたからだと思います。もちろん忙しいのですが、「今後どうしよう?」という迷いがないので毎日が過ごしやすいように感じます。これ自体がひとつの目標であったとも言えますが、それを実行するだけでは足りないと思います。私は人の数倍の時間をかけて人生計画を企てていると思いますが、それは具体的な到達目標を細かく設定しようとしているからだと思います。なぜか?

安定した急成長曲線を描きたいからです。

経済界では矛盾とも捉えられそうですが、速ければ安定していないなどというルールはどこにもありません。これを可能とするのが目標設定。

これは企業にはできず、個人にしかできないものだと思います。100年債を発行した企業もありますが、それは現在か近未来のため。長期ビジョンといっても長くて10年。企業理念といっても「業界一」や「お客様に喜ばれる」などと他人の評価や他人との比較が必要となるものばかり。

これは様々な理由により仕方のないことです。経営陣は毎年のように変わるし、世界情勢も変わるし、頻繁に変更するわけにも行かないし、具体的な目標を達成しなかったら株価が下がったりします。

しかし、個人にはこれらが一つも当てはまりません。(世界情勢は変わりますが、個人への影響は企業へのそれより軽微なものです。)

周りに影響されても体はひとつ、司令塔である脳もひとつ。100歳までの計画を作ってそのまま実現することも可能。いつでも変更できる。自分の夢にわがままになることも許される。夢に労働基準法の適用などなく、四六時中追求することができる。(もちろん睡眠もその過程のひとつです。)

だから、目標設定をしないなんて勿体ないと感じてしまいます。そして目標設定をしたら、100歳まで健康に生きてもまだ足りないと思いました。子供の頃はそう思っていて、その後病気や老化のことを知って「短く太く生きよう」などと考えてしまったこともありますが、今は喜んであと2万回でも3万回でも目覚まし時計と格闘したいと思います。

安定した急成長を遂げたら、長く太く生きることも矛盾ではなく必然となります。そんな30代、そんな人生にしたいと思います。これからもよろしくお願い致します。

パラリンピック

2008-09-13 03:11:33 | 出来事
2008年9月のメインイベントのひとつとも言える北京パラリンピックを7日目にして初めて見ました。恥ずかしながら名前とオリンピックの障害者限定版であることしか知らず、競技も井上雄彦作「リアル」で有名になった車椅子バスケがあるだろうとしかわかっていませんでした。

そして今回、知らない世界を一つ知った気がしました。

パラリンピックは運動機能障害、脳性麻痺、視覚障害、切断等といった4種類の障害が対象となるようですが、「切断等」以外の競泳種目を見ることができました。

運動機能障害者の決勝では「どこが障害してるの?」と思わせられ、ハンパない努力をしてきたのだろうと思わされました。

そして視覚障害者のレースでは、私の現役時代の自己記録より早いタイムで泳いでいる人がいて驚きました(注:筆者は2歳のときから高校3年までほぼ競泳一筋でした)。プール外からのヘルプは、自由形のときにターン前に棒で壁が近いことが知らされることのみだったように見えました。失明して間もない人もいるのでしょうが、何年間も目が見えずして孤独な練習をしてきた人も多いに違いません(注:競泳は目が見えても孤独なスポーツです)。

視覚障害者の走り幅跳びも見ました。なぜファールせず飛べるのかが今でも不思議です。蛇足ですが、車椅子ラグビーたるものまで種目として存在するようです。さらに視覚障害者の自転車競技もあります。

最後に脳性麻痺のショットプットを見ました。私としては、そもそも「脳性麻痺」という障害分類があることが意外でした。なんとなく運動機能障害に含まれているのかも、と思っていたからです。

そもそも脳性麻痺というものが何かわからない人も多いと思います。アメリカでは「Cerebral palsy」といえば大体の人がなんととなく理解している障害です。脳性麻痺は定義上、生まれつきの(正確には、受精から生後4週までに生じた)脳障害です。脳の色んな部位が損傷される可能性があるので色んなタイプがあるのですが、片麻痺や四肢麻痺が生じるケースが多いと思います。たとえば記憶があるときから両足が麻痺している選手もいるわけですが、彼らは一定レベルの健常者以上の結果を出しているわけです。

身体障害者を「助けたい」と思ったことは何度もありますが、それは傲慢なことであり、差別ですらあったのかもしれません。ならば背が低い人も助けたいか?茶髪も助けたいか?契約社員も助けたいか?その程度の考えだったのかもしれません。

人がそれぞれ強みと弱みを持っているのなら、むしろ身体障害者に教わり、助けてほしいと思います。フリーターを、政治家を、お坊さんを、お坊ちゃんを、そして私を助けてほしい。人は誰にでも手を貸すことができ、誰にでも手を借りることができる。そんな世の中は、意外と近いところにあるのかもしれません。

・・・心が熱くなってしまったので、明日にでも泳いでこようかと思います。