人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

マルチすぎタスキング

2005-11-30 02:25:56 | 人生論・閃き
マルチタスキングができることは重要ですが、「マルチすぎタスキング」をするとタスク相互に支障が出てしまいますね。パソコンでも、プログラムを走らせすぎるとクラッシュしてしまったり、結局ひとつずつ作業をしていった方が早かったということもあります。

そこで、どこまでのマルチタスキングなら効率的かを考えてみました。私にとっては、4-5つ程度のプロジェクトだと思います。短期プロジェクト2-3件と、中期・長期を1件ずつ。短期でちょこちょこと自己満足を得つつ、中長期のタスクに挑み続ける。

人によって「マルチタスキング戦略」と、マルチタスキングとマルチすぎタスキングの境界線が異なると思います。自らどれほどのチャレンジに挑みたいとか、どれほど忍耐があるか、どれほどのリスクに絶えれるか、などを考えた上で、理想的な人生計画を練ってみてはいかがでしょうか。

「努力配分は、計画的に。(TM)」

偶然な発見

2005-11-23 23:51:38 | 人生論・閃き
英語で物事を学ぶとき、「日本語ではすぐ理解できそうだけど、英語で教わってもわかんないよ」という気持ちになったことはありませんか。コンセプトが難しいのではなく、ただ英語で言われるからわけわけんないし、時間もかかるし、面倒だったこと。

きっとありますよね。私は逆に、大学を出てから「日本語だから辛い」と思いつつも仕方なく色んなことを日本語で学んできました。結果として、ひとつだけ英語より日本語で言われた方がわかり易い分野ができました。法学です。

法学は英語で勉強したことがなく、日本語だけで勉強しました。確かに最初は1ページ読むのに10分以上かかることもありましたが、今ではある程度普通の速度で読めます。おそらく法律関係の理解については英語より日本語の方が早い可能性すらあります。

それは、偶然な発見でした。すなわち、ひとつの「言語」が得意なのではないということ。各「内容」について、どの「言語」で一番理解し易いかが変わるということです。日本語だからわからないのではなく、学習の仕方を学んでいないだけだったのかもしれません。結局慣れや経験に影響されることであり、得意な学び方が変化することもあり、これは当然のことであるはずです。

とすれば、時間をかければ不得意が得意になるのも当然のこと。日本語で法律を読むなんて3年前は想像もできなかったのに、時間をかけたから得意になれたのです。ちょっと飛びますが、昔から「器官の傷害がない限り音痴の人など存在しない」と思っていたのですが、その確証も得ることができました。

結局、時間と努力は「向き不向き」より強く、極端にいえば人はなんでもできるということになります。そして、学習プロセスを加速することも可能であるということです。私の考えでは、この学習速度こそが「天性」「才能」といわれるものであるので、この定義からすると「天性」「才能」は後天的に取得することができるということになります。矛盾ではありません。リーダーは作られるものであり、同様に、天才も作られるもの。「天性」という言葉の名付けの親がちょっと勘違いをしてただけです。(比喩と捉えれば問題ありませんが。)

そして、この「天性」を得る過程に必要である「時間」は、皆に平等に与えられたもの。ああ、なんと素晴しく公平な世界。(ちょっと限定的な意味になりますが。)

さて、この発見をここまで拡大解釈していいものか・・・?
いいんです。それが力となるのなら。

弁護士の悪意

2005-11-21 22:38:40 | 人生論・閃き
(注:法律用語の「悪意」とは、通常ある事実を「知っている」ことをいいますが、ここでは一般的に使われる「悪意」という意味で使っています。)

弁護士は法律の専門家です。これは子供でも知っていることです。しかし、六法全書を見たことがある人にはわかると思いますが、それをすべて知っている弁護士はこの世で一人もいないでしょう。弁護士といえども、おそらくほとんどの人にとっては条文の一つ二つどころか「へー、こんな法律があるんだ」という法律が幾つかあると思います。

「なーんだ」と思っているあなた・・・!これは当然のことです。法律の量は膨大です。弁護士も人間です。たぶん。

しかし、これが問題なのです。法のスペシャリストだから、法を知ってて当たり前と思われがちなのです。期待されすぎるのです。「知らなかった」では許されないのです。

たとえば、刑法38条3項は「法律をしらなかったとしても、そのことによって、罪を犯す医師がなかったとすることはできない。」としつつも但書で「情状により・・・刑を軽減ん・・・できる。」とあります。「情状」により、明らかにアホなヤツだったら刑を軽減してもらえるかもしれませんが、弁護士だったら・・・?多分辛いんでしょうね。アメリカのように陪審制を採用する国ではもっと辛いんでしょうね。絶対「アンタわかってたでしょ」もしくは「アンタ、弁護士だったらわかってなきゃおかしいでしょ」と言われそうですよね。

(余談ですが、この条文って結構厳しいですよね。国民がすべての法律(←広義で)を知っていることを前提としているのです。そうじゃないと法律の意味が薄れるというのはわかるし、但書があるのも利益の均衡を図っているのもわかるのですが・・・。そんな前提だったら、なんで中高でもっと法律を詳しく教えないんでしょう・・・。難しいといっても、殺すな盗むな騙すな轢逃げするな外で裸になるな、などと噛み砕いて少しずつ教えればいいと思うのですが。それとも、氷河期やヘンリー8世のお勉強の方が大事なのでしょうか・・・??)

さて、ここまでの話は弁護士以外の、99.9%以上の国民には関係ないと思われるかもしれませんが、そうではありません。誰にでも得意分野はあります。この分野で「わからない」ことってありませんか?当然、あるはずです。私は社長になっても業務でわからないことがありますし、博士課程を終えても専攻でわからないことは山ほどあります。

なのに、専門だからといって100%の知識・技量を期待するのは困難なのではないでしょうか。それで、ひとつわからないことがある度に「あの人○○のくせに○○もわかんない」といわれては適いません。このような場合、アホでもなければ努力を怠っているわけでもないケースも多々あると思います。

自分に置き換えてみるとわかり易いですよね。みんな頑張っているのです。多少落ち度があっても、見逃してあげたいですね。・・・もちろん、専門分野で落ち度をなくす努力もしてくださいね。

誕生日会の御礼&年末に向けて

2005-11-20 16:27:02 | 出来事
昨夜、私と友人3名のために誕生日会を開いて頂きました。幹事の皆様、そしてご参加くださった皆様、大変楽しい時間をありがとうございました。

私の誕生日は11月であるため、「○○歳の抱負」などを考えているとすぐに新年になってしまいます。よって、基本的に年始に「○○年の抱負」という形で設定しまいます。しかし、その間の1.5ヶ月も短い期間ではないため、①今年の抱負の進行度チェックと、②今年中にできることをもうひとつ加える、ということをしています。

①については、正直上手く行っています。今後年末まで大きなイベントは幾つか控えているものの、修羅場といえるものはなく、(かなりの)努力さえすれば良いという状況になっています。このようなことが言えた機会は、この数年間記憶がありません。我ながら、順調なペースと思います。

とすれば、②にややレベルの高い目標を設定することが可能であるということになります。12月は遊びがち、太りがち、怠けがちになりますが、まずこれをある程度制限するということが前提となりますね。息抜きは大事ですが、息抜きをしすぎがちなのも12月ですからね。

ズバリ、目標はこれです:今書いている本の第1章の第1ドラフトを完成させる。まだ大体の目次とあらすじ、そして本文10ページぐらいしか書いていないのですが、おそらく3章構成、計300ページになると思います。約100ページ書く、ということですね。

内容は・・・内緒です!自分らしい作品になるとは思いますが。

・・・こうやって発表することによってやる気が出てきました。勝手ですが、ありがとうございます。

裏の裏 vs 表

2005-11-19 14:50:32 | 人生論・閃き
「裏の裏」は「表」ではない。

裏の裏を考える場合、結論は結局表であったとしても当然思考プロセスが全く違います。じゃんけんで考えても、「相手は最初はグーを出す可能性が一番低いからチョキで勝負すると考えているだろう」と思ってあえてグーを出すのか、考えずにグーを出すのかといったことである。

では、どちらが良いのか?これも難しいのです。

裏の裏からは学ぶことがあるケースが多い。反面、時間も手間もかかるし、結局同じ結論であるからムダに思えるかもしれない。一度しかないイベントであれば、単純に表とした方がいいかもしれない、ということですね。

しかし、ビジネスでは必ず裏の裏を要求されます。単純にいうと、人件費は大体固定費と考えてよいからかもしれません。しかし、使う相手が時間ベースで採用するコンサルタントだったら?・・・判断しがたいですよね。

同じように、社員は人であり、酒も飲みたければ子供とも遊びたい。不要な作業はしたくない。とすれば、経営者は、裏の裏と表を選ぶ能力が要求されるのではないでしょうか。カリスマ系は大体表を選んでしまい、アナリスト系は大体裏の裏を選んでしまう。バランスのとれた経営者になるためには、しっかり選択できるような状況適応型であるべきなのかもしれない。

状況適応型リーダーシップというのは通常、状況に応じて判断することであるが、ここで述べている話は1次元上位の話である。状況適応型リーダーシップでは表か裏の裏か、を選んだ上で(大体「正しい」とされている裏の裏が前提となる)色んな利益を比較することになるからだ。

即ち、「考えよう」という前提の下で判断を出す。しかし、私が述べているのは、「考えるか考えないか」自体にもある程度の重きを置いてもいいのではないか、ということ。これは追加のステップのなるので、前述裏の裏の問題としてあげた時間・手間の消費があることは否めないが、新たな選択肢としてご理解いただきたいと思います。

刺激と人生範囲:2050年の自分を描く

2005-11-18 00:00:00 | 人生論・閃き
人は動物である以上、好奇心を持つ生物である。好奇心がなければ学習がなく、成長がなく、安定性や安全な暮らしが望めない。

しかし、今は知らなくてもいい情報が報道されるなどして入手可能となることが多い。このような情報過剰によって、より情報を求める者と逆に情報を押し返すものが生じる。私は、その情報過剰を整理することがある意味「サバイバル」に繋がるため、前者が自然と考える。

しかし、人が興味持てる内容・範囲・期間などには限度があるだろう。その限度を超えた場合、好奇心が満足される・自然消滅するのいずれかの途を辿り、新たな刺激を求めることになる。

好奇心があるからこそ刺激が大きい。よって、好奇心が失せてしまっては刺激が足りなくなる。しかし刺激は、個人差があれど最低60歳までは要求されるものと考える。

前述の情報過剰によって、(好奇心の低下を経由せずとも)刺激が多く、ひとつひとつの情報の効果・影響力が希薄化されている。そして、他人の極端な成功も失敗も理解でき、本を手に取ればドラマやマンガの主人公とともに恋や冒険ができる。ということは、逆に、何もしなくても日常で好奇心が満たされる恐れもある。今の日本は、刺激過剰だ。

それは、雇用市場にも影響を与えているのではないだろうか。フリーター・ニートが急増しているのは彼ら自身のせいだけではなく、むしろ平成に生まれたにも関わらず昔ながらの愛社精神・終身雇用願望をもてる方が不思議とも言いうるのではないだろうか。

そして、それは私のような昭和50年代生まれの人間にも、ある程度言えることではないだろうか。

若者の間で起業が増えているが、これが必ずしも中小企業庁が望む雇用増大や経済活性に繋がるとは限らない。当ブログで過去に書いた、「逃げ」である場合も多いと考えるからだ。適応できない。コミュニケーションが下手である。自己至上主義である。

そして、人は飽きっぽくなっている。

幼児は、「ガラガラ」の音や、信号が赤から青に変わっただけで素直に、極端に喜べる「才能」がある。しかし大人の我々は、ルーティンが含まれる仕事を何年続けられるのだろうか。日本人の道徳のひとつである「忍耐」も薄れているのではないか。

反面、すべてにおいて悲観的になる必要はない。今は、誰でも何でもできる。選択肢はほぼ無限である。会社を辞めても、退学しても、なんとかなる。(もっとも、選択肢が多ければいいというのは人口の5%にもあてはまらないだろう。)

・・・このような理解の下、私は自分の人生を考えた。

私は今年はじめて、「3年計画」でなく「30年計画」を考える視野を得た。今までは想像もできず、「30過ぎで結婚するんだろう」程度だったが、今は60歳までの人生計画を練りたいと思い、また練れると思い始めた。そして、一歩ずつ動き始めた。

30年は長い月日である。私はまだ30年を生きた経験がないが、これに異論はないと思う。この間に、私は広範囲における経験を得、「能力ポートフォリオ」を作りたいと考える。今は、ひとつのもので優秀になればいい世の中ではない。「優秀」という位についた数だけの能力を集めたポートフォリオで勝負するようになると私は考える。

反面、そうしなくても20代で大金持ちになり、退職してハワイで住むことも可能である。私の生きたい人生ではないが、それはそれでいいのかもしれない。しかし、逆に彼らが60歳まで働けないのだ。もはや仕事にやりがいを感じていないのだ。満たされすぎたのだ。

能力ポートフォリオがあれば、そうはならない。常に新しい「刺激」がある。当然得る過程は長く、これは刺激の連続他ならない。そして、能力を組み合わせることによって新しいものが作られる可能性もある。「好奇心」も湧く。色んな人に会える。「The TRUTH」などという天の法則などがあるのであれば、自分なりにそれに近づけるのではないか。

私の描くこのようなビジョンを言葉で示すのは難しいが、簡単にいうと
① 人は刺激が必要で、もう得れなくなれば逃げる
② 現代で60歳まで刺激を保つためには「能力ポートフォリオ」が必要

そして、語弊を恐れずざっくり言ってしまうと、

③ 人生とは長い「ひまつぶし」である。

これはかなり広義に捉えれば、マザーテレサにもナポレオンにもあてはまる。テレビにたとえるのならば、どんなにTBSが好きでもチャンネルを多く持ってみて日テレも見える選択肢を得る価値はあるだろう。反論する人は多いだろうが、上記を踏まえた上で、少しでも理解してほしい。皆に、何かを求めていてほしい。

ここで断っておくが、命を過小評価しているわけではない。むしろ逆だからこそ、このような発言によりインパクトを発見を世間に与えることができると信じている。

・・・そしてこのような前提の下、今後「安定性」などという幻想の定義がまったく変わってくる。安定性という温室は、その場しのぎでしかないのかもしれない。仕事は変わる。夢も動く。命は進む。

ならば、常に新しいドアを叩く以外はない。
過去に繋がっていなくても、正当化できなくても、理由がなくても。

27年目の夜明けが迎えるのは、このひとつの確信である。
それ以降の夜明けが迎えるのは、それを実現すべく走る姿であってほしい。

逃げ

2005-11-17 08:29:04 | 人生論・閃き
突然ですが、自分の得意分野で誰かに負けたとき、どう反応しますか?

① 「今日は運が悪かっただけさ」
② 「努力しなきゃ」
③ 「あいつは天才だよ」
④ 「でも俺は○○で絶対勝ってるからいいんだ」
⑤ 「あいつむかつく」

この他の反応も色々と考えられますが、とりあえずこの5択で検討します。

似たような心理テストがあるのではないかと思いますが、これは心理テストではありません、私の勝手な結論です。

まず、①。これは「逃げ」です。自分以外のもの(状況など)のせいにしているからです。

次に、②。これは素晴しい。がんばってください。

では、③。相手を認める態度は素晴しい。その後の行動をしっかり考えてください。

更に、④。これも「逃げ」です。負けを認めるのは辛いので、こうなってしまう人も多いのでしょう。正直、私もこう思ってしまうことがあります。でも、これでは甘いのです。サッカーの試合で負けて、「でも俺はあいつらより数学が得意だ」と思えればいいわけないですよね。「じゃあ何のためにサッカーやってるんだ」ということになりますよね。やるからには全力で。やるからには勝ちに行く。

そして、⑤。当然、「逃げ」です。だからといって自分に怒りを向けるとストレスが溜まるだけなので、②の方向に思考を転換させましょう。

「逃げ」は「いいわけ」と言い換えてもいいと思いますが、こんなんではあまり成長できません。すべてのスポーツマンガのヒーローは、きっと「逃げ」ていないから甲子園に出れたりトーナメントを勝ち抜いたりしているはずです。現実の世界でも、きっとそうなのではないでしょうか。

さて、また今日一日努力しますか。

鵜呑み

2005-11-16 01:29:28 | 人生論・閃き
すべての人がいうことを鵜呑みにし、完全に信じたら、世の中はどう見えるのだろうか。

きっと、90%の人が平均以上の実力を持ち、70%の人が運が悪いなど矛盾が多く思えるでしょう。人は自分の相対評価を誤っているからです。

一番「自分」を知っているはずなのに、このようなことが生じるのは比較対照、すなわち他の人たちの評価を誤っているのでしょう。そして家族では、固定した関係(親子、兄弟など)で時間が過ぎるために家族の構成員の相対評価についての変化に気付かないことが多いでしょう。そして、あまり親しくない知人の評価を見誤るのは、その人をあまり理解していないから。

したがって、以下の教訓が得られると思います。

① 自分を相対的に低く見積もった場合、それは多分誤りである。無意味に人工的な限界を作ってしまうだけであるので、直ちに考え直すべきである。
② 自分より若い家族の構成員を相対的に低く見積もった場合、それも多分誤りである。無駄な口出しはやめるべきである。
③ 他人を理解するのは大変である。一定の評価に固執せず、柔軟的に評価を改めるべきである。

上記は勝手な説ですが、とにかく自らの固定観念を「鵜呑み」するのも危険ということですね。オープンに、フレキシブルに、一日一日の冒険を楽しみましょう。

無敵になれる日

2005-11-11 19:12:49 | 出来事
人にはたまに無敵になれる日が訪れます。良いことがあって他に何が起こっても起こらなくてもビクともしないと思える日。いてもたってもいられない、笑顔がとまらない、流れてもいない音楽に合わせて踊ってしまうような日。人によっては恋人ができたり、昇格したり、芸能人に会えたり、芸能人になれたりするとあるのではないでしょうか。数年に一度でもあれば素晴しいものです。

私には今年一度ありましたが、その前は3年前、その前は大学4年生のとき、その他高2、高3、大3。結構アクティブな人生を送っているつもりですが、それでも2-3年に一度しか味わえない。千手観音の手のうちひとつだけ「無敵の手」があって、これに偶然触れられたという感じでしょうか。

このような日は、きっとかなり昔のことであっても覚えているはずです。なので、これらを思い出してみてください。きっとそのときの2-3割ぐらいでも蘇って、ちょっとだけ無敵な気分になれるはずです。

あと、どのようなときにこんな気持ちになれたのかを考えてみてください。それは、自分の性格や価値観を理解するひとつの視点になるのでは。そして、今の生活の中でそのような出来事が起こりえないと思える場合は、少し気分転換をすることも考えてみてはいかがでしょう。新しい習い事をはじめたり、新しいグループの友達の集まりに参加してみたり。