人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

自分を十二分に、でも・・・

2006-03-22 01:26:53 | 人生論・閃き
自分を十二分に評価する。過去にも書いた私の人生ルールのひとつです。

簡単にまとめると、自分を今以上のものに育て上げるために、自分の能力を現状の1.2倍と仮定し、信じ込んでしまうわけです。100%の自分は、120が基準なのだから物足りないのです。怠けているのです。そう思って、「これできるかな、やりすぎかな、まだ早いかな・・・」などと思う内容でも頑張ろうと思うわけです。自分に厳しくなり、無理ができちゃうわけです。当然、通常以上のスピードで成長することができます。

しかし、これには注意すべき点がいくつかあります。今回の焦点はこちらの方です。

まず、150や200ではなくて120であること。逆に自分をつぶしてしまわないようにご注意を。

次に、他人に同じ基準を期待しないこと。自分に120を要求すると、他人に対しても相対的に高い数値を期待してしまうものですが、他人にはあまり厳しくしないようにする必要があります。その人の生き方は、その人が決めるのだから。

また、101以上の結果になったら自分をほめるべきです。120に満たないのが本当は当たり前なので、思いつめないでください。バランスも大事に。そういう意味では、自分の100を知っている必要があります。

もうひとつ問題としては、人が105に評価してくれてもあまり喜べないことです。自分は100なのだから嬉しいはずなのですが、自分は自分を120だと思っている。客観的には過大評価、主観的には過小評価。認識の不一致。これは、自分が勝手に120だと思い込んでいるのが「悪い」ので、素直にお礼を言いましょう。

最後に、このようなポリシーは、自分の核にとても近いものとなってしまいます。これは諸刃の剣。特に、家族や恋人、親友などとの関係で要注意です。なぜなら、このような人たちには自分をこの「120」を基準として評価してほしくなってしまうからです。

この人だけには、自分がどう考えてどう行動しているかを理解してほしい。同じ方向を見つめていてほしい。同じ基準で物事を捉えてほしい。こう思ってしまうわけですね。

いくら気が合う人でも、一生一緒にすごしてきた家族でさえ、理解や人生観の類似性には限界があります。特に恋人などの場合、「似ている」から好きになることが多いのに、「根本はちがったのか」と思えるには十分の差が生じてしまいます。これはすべての「人生ルール」にあてはまることです。

相手に望めるのは、意図を理解してもらうことまで。同じ基準で生きてほしいと思ってはいけないわけです。そう、人生ルールとは自分だけのもの。どんなに近い人間にも、自ら同調してくれなければ押し付けることは許されないのです。

私の博士課程の教授の一人は、「相手を危機から救える場合でも、相手がそれを望まないのなら救う権利はない」と言っていました。家族でも、誰でも。世界中の法律がこれに反している(自殺を強引に止めることは緊急避難となり罪ではない、一定の関係がある当事者間では救助の義務があり不作為犯となる場合がある、など)し、個人的にもこれは行き過ぎのような気がしますが、度合いは別として概念としては心に留めておくことが必要だと思います。

ということで、ポリシーは自分のポリシー。自分の中では120でも、他人の中の自分も、他人の中の他人も100であったらそれを変えられないのだから、自分の中の他人も他人の中の他人にあわせて設定してあげましょう。