人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

相殺

2007-05-31 23:54:42 | 人生論・閃き
民法には「相殺」という行為があって、お互い借りがあったら「相殺しようぜ」「おっけー」でお互いの借りを相殺しあえることになっています。もちろん、差額があったらそれは残るわけですが。

私は昔から「敬語の相殺」ができないかなぁと考えていました。というか、過去にブログに書いてしまった可能性もあるので、重複となっていたらごめんなさい。

「敬語の相殺」とは、お互い「敬語を使う理由」があるのなら、その理由を相殺してお互い気軽に敬語なしで話し合えるようにしてしまうということです。簡単な考え方ですが、実は実行するのが難しいのです。それは、「言いだしっぺ」が必要だからです。

普通に借金を相殺するのであれば、どっちからしても相殺したほうが楽だったりするので、どちらからでも申し出て問題ないと思います。しかし、今までお互いに対して敬語を使ってたのに、一方がいきなり「敬語やめようよ」なんて言えるでしょうか。たとえば、年上の後輩や部下がいたり、年下の先輩や上司がいたりしますが、なかなか均衡を崩しにくいのではないでしょうか。リスクも伴うような気がしますよね。

数年前までは「帰国子女で日本語が下手だから敬語が使えないんだ」などといって無理やり年上の友達とタメで喋っていましたが、さすがに今はこの手は使えません。

では、どうすれば無難に意思表示できるのでしょうか。昔は、みんなが「彼氏・彼女募集中」みたいなサインを首からぶら下げて歩いていたら聞かなくて済むのに、と思ってましたが、「タメでOK」というサインを首からぶら下げて歩いてもらうのも同じぐらい非現実的です。結婚指輪みたいに「敬語使えよ指輪」なんていうのも流行らないでしょうし・・・。

しかも、タメでいいと言っても敬語を使ってくる人もいますよね。敬語が身についていて、年上などにはどうしても敬語を使わないと落ち着かない、みたいな。帰国子女としては、絶対タメの方が仲良くなるしその方が楽だろうと思って、無理やりタメで話させようとプレッシャーをかけてしまっていた時期もありますが、これも間違いなんですよね。自分の価値観を相手に押し付けているだけで。

結局、一人ひとりとの関係やその周りの状況などを考えて個別に対応していくしかないのかもしれません。ただ、もし現時点で私と敬語を使い合う関係の方で、「敬語の相殺」を希望される方は是非ためらわず申し出てください。歓迎しますので。

人各有任

2007-05-27 02:26:18 | ビジネス
聖徳太子の十七条憲法の第八条の一部です。「人にはそれぞれ得手不得手がある」ということだと思います(違ったら教えてください)。

これを見極めて適材適所を目指すのが今日の経営者の役目のひとつ。7世紀に言われていたことが、今でも当てはまるわけです。

しかしアメリカではあまりこのようなことは言われません。なぜなら、これは主に部下の役目だからです。部下の方が自分をアピールし、しっかりとしたコミュニケーションの中で自ら適所へと移行していくことが要求されます。

日本で部下が上司に意見をするときは、ある程度溜め込んでから「ものを申す」という形になってしまっているケースが多いように思われます。コミュニケーションは原則一方通行。これは一流企業でも外資でもある程度あてはまることであり、「オープンな会社」「フラットな組織」「ベンチャー」などといっても結局はそうなのではないでしょうか。文句言えるのがオープンな会社じゃなく、良かったことを良かったといえることが重要だと思います。もちろん、TPOを心得ていることは大前提ですが。

仕事を知っている上司と、自分を知っている部下が知恵をあわせてはじめて、適材適所が生まれます。とすると部下からのインプットは最低条件です。人事評価があっても、「あなたはこういう評価をうけている」だけでは全く意味がありません。それでは高校の成績表と一緒です。高校では生徒だけがよくなればいいのですが、会社では会社自体がよくならなくてはならないのです。

前述のとおり、適材適所には「悩み」を聞くこと以上に、「何が楽しかったか、やりがいがあったか、何がやりたいか」を聞くのが重要だと思います。もちろん「わからない」というケースが多いのですが、「聞いてくれるんだ」と思えば、1年後、2年後には意見が出てくるかもしれません。それでいいのだと思います。

人各有任といえども、コミュニケーションを不得手としている人には生き辛い世界となってきています。海外でも、日本でも。自分が上司であっても部下であっても、これだけは早急に身に付けたいものです。

離婚率が高まった理由

2007-05-26 13:47:55 | 人生論・閃き
最近多くの国で離婚率が高まっています。米国では下がっているようですが、これは法律婚ではなく事実婚が増えているためだといわれています。日本では離婚率が90年代前半から急激に伸びているようです。

私が考える「離婚率が高まった理由」というのは簡単なものです。

それは、「離婚が選択肢になったから」です。

もともと法律上の選択肢ではありましたが、世間の目、親の教育、子への影響などから考えて数十年前はよっぽどのケースでなければ離婚に踏み出せなかったと思います。しかし今では、昔ほど大したことではないように思えます。

そもそも、離婚だけでなく、近年では「選択肢」というもの自体が急拡大してきています。気軽に海外に行けるし、気軽に転職できるし、気軽に親に甘えてニートできる(ように見えます)。ニートも離婚と同様、最近急増している「選択肢」だといえます。

「欲望を絶て」という宗教や共産主義と「欲望に生きろ」という教育ママや民主主義の間で、後者が勝ってしまっている今では更なる「選択肢」が生まれてくることでしょう。

「選択肢」とは、ちょっとでも価値観のバランスが変わると起こるものです。女の子に告白してフラれて恥ずかしく辛い思いをするリスクを犯すのと、幸せいっぱいなデートに出かけることができるようになる可能性のバランスを考えて、14歳ぐらいのときに(今では10歳ぐらいかもしれませんが)後者の方が優先されるべきと考えるようになり、「デート」という選択肢が生まれるわけです。そして民主主義が「自分が一番トクをする方法だけを選んでいればいい」と言ってくれるのなら、それだけで選択肢が増えます。

では、「懲役10年以下のリスクを犯してもドロボウになってしまえ」と思う人が出てきたらどうなるのでしょう。今のドロボウさんたちは、「俺はつかまんねぇ、ヘマはしねぇ」と思ってやっているのだと思いますが、これが選択肢に成り下がった場合、ドロボウという職業(?)は急増してしまうでしょう。

しかし、だからと言って離婚などの選択肢を奪うことはできません。個人の自由だからです。民主主義を掲げているのならそれが最重要だからです。

ことわっておきますが、私は民主主義が悪いと思っていません。むしろ好きです。しかし○○主義というのはどんなものでもどこかで極論が入り込んでいます。共産主義が全体的な崩壊をもたらすというのなら、民主主義は個人個人の自滅を招く可能性もあります。そして民主主義は、自滅からだけは守ってくれません。ざっくり言うと「人は強い」という前提ですから。

日本の死因トップ3(悪性新生物、心疾患、脳血管疾患)がすべて生活習慣によるものだなんて言ったら、戦国時代の武士たちは我々の規律をどう判断したでしょう。彼らにとっては「肥満になる、タバコを吸いすぎる」などすら選択肢になかったでしょうから・・・。

ライバルは後輩の未来

2007-05-24 05:42:56 | 人生論・閃き
あなたには、職場でのライバルはいますか?そして、仕事でのライバルは尊敬できる上司か先輩ぐらいだろうと思ってはいないでしょうか。

私にとってのライバルは、先輩というよりは後輩です。正確にいうと、後輩の未来の姿です。陸上の世界記録が頻繁に更新されるように、世界一になっても後輩にやられてしまうケースがほとんどです。ワクワクさせてくれる競争相手は、見本となっている人ではなく、自分を見本として追いかけてくる人なのかもしれません。

私には年子の弟がいますが、正直「ライバル」と思ったことはありません。同じ試合で敵同士であってもです。子供の頃は一歳の違いは大きいし、もともと私の身体が大きかったからかもしれません。しかし意識して比べていたのは、弟と1年前の自分でした。

同じときに競ったら勝てても、さすがは要領のいい次男・・・同じ年の実力を比べたら何一つで勝ってないように思えました。そして努力をするわけですが、それは「1年後の弟でも追いつけないレベルに達したい」という気持ちがありました。

最近では、年の差を離れた人を意識するようにもしています。2歳上の先輩に勝てても、10歳上の上司はどうか。弟の一年後の姿に勝てたとしても、すでにインターネットで情報検索している3歳児の25年後にも勝てるか。わかりやすく「勝敗」で説明していますが、理解力や包容力、何にでも当てはまる概念だと思います。

・・・そして最終的には、全力で戦いながらも全力で指導を行うことで、子供たちの未来が我々の現状を超えるものになることを願っています。この一生涯をかけた「勝負」では、手加減をせず、正々堂々と負けるのが人類への最大の貢献なのかもしれませんね。

私が(ほんとうに)愛した数式

2007-05-22 00:10:26 | 人生論・閃き
実は2週間ほど前にこのブログの3周年を迎えました。色々書いたと思いますが、なぜか私の人生論の根本にある数式について書いていなかったように思えます。

「博士の愛した数式」を見なくても、高校でe(πi)=-1と教わったときに密かに感動を覚えた人は多かったのではないでしょうか。そんな一人である私なりの、「愛する数式」のご紹介です。

私が子供の頃に「住んでいた」世界では、

y = ax + c

という数式が成り立っていました。
a=努力、c=才能、です。
x=時間、とりあえず年齢と考えていました。

努力で才能に勝てますが、才能がある人に努力されたら才能がない人は勝てません。なんだか筋がとおっているような気がしていました。

中1あたりで代数方程式を学ぶと、昔から思っていたのはこういうことなのだ、こう表したかったのだ、と思ってとても嬉しかった記憶があります。変わった子供ですいません。数学の無限の可能性を感じ、数学が大好きでした。大学で金融をやらなかったら、数学者になりたいと思うぐらいでした。

その後色々と考えました。xを二乗にした方が実態に即しているのではないか、cには範囲があるのか、xは年齢なのか、起きている時間なのか、など色々と考えました。すべてが円を描くe(πi)=-1ではなく、無限に届く唯一無二の数式・・・自分が納得できるものがあるはずだと思いました。

結局有る程度結論に至ったのは、大学卒業後でした。

y = a(x)^b + c + d

dという「偶然」もしくは「説明できないもの」を加えました。(エラーではないのでeと言う文字を使わなくて済んで、勝手に喜んでいました。)

では、努力がどれだけ実るかという最重要ともいえる変数、bとは何か。このようなものがあると思っても、実際言葉にするのは難しく感じました。人によって異なるものかもしれません。

しかし、あえて言うなら、「次元」です。私にとっては物事を見る「視点」、触れた「世界」の数です。A級の努力は当然必要ですが、bをひとつでも増やすのが成長への近い道と考えます。そこで、bを増やすことが私の生涯の目標とも言えるでしょう。

これで一旦満足したと思うと、更に疑問の嵐が生まれました。強かった疑問は3点あります。

①次元を探す意欲・能力・才能なども指数とすべきではないか
②次元同士の相乗効果はないのか
③すべての変数(とりあえずcは定数と考える)は時の経過とともに変化する可能性はあるが、一生涯をプロットすることはできないのか(→微積が必要)

特に②は、存在するという前提で歩む道をまで変えてしまっているんで、なんとか織り込みたいと思いました。

では変数が500ある数式を作ればいいのか、というとそうでもありません。複雑すぎて意味がなくなります。

そこで、変数を逆に減らすことにしました。
現状の「愛する数式」はこれです。

y = ax^b^a

ここまできたら才能も偶然も無意味。神を信じないとか恩知らずとかそういう話ではなくて、それだけに「a=努力」「x=時間」「b=世界」という要素が強いと考えます。特にaが2度現れていますが、これはただ「頑張る」という努力ではなくて、自分や周りの人の健康を考えたり、どういう世界を模索してみたいかという好奇心などを含めた「思考と行動」とお考え下さい。一言でいうなら、「熱意」といってもいいかもしれません。一応、aが2度現れることで組み入れたかったフィードバックのような要素も加えました。

ちなみにAXBAと言う形は、クラシック音楽のソナタ形式の「AABA」という流れの原則にも現れるように、美しく完結した形だと私は感じています。そういう意味でも、大好きな数式です。

まとめると、
y = ax^b^a
x=時間という軸を用いて、
a=熱意(思考と行動の量と質)
b=世界(次元や視点の数)
と考えます。

最後に・・・「y」は何だ?と考えてくれた人がいるかもしれません。もしこれが講義だったら、この質問をしてくれた人がいたら感動の涙を流したかもしれません・・・。この疑問を持った人こそ、小にとらわれて大を見失わない人だからこそです。もちろん目的である「y」が無意味だったらすべてが無意味です。しかしこれこそ、人によって全く異なり、誰にも教えてもらえないことですよね。

・・・ただ、イメージとしては、「y」だけに、
「夢の実現」でいかがでしょう?

「アフィア」という会社名が「夢の実現」を意味するのはご存知の方も多いと思いますが、これで私という人間が少し見えてくるようだと幸いです。

時の流れのスピード

2007-05-20 17:27:22 | 人生論・閃き
時の流れは、段々速くなるものなのではないかと昔から感じています。いつかゆったりとした生活を送るようになるかも、などとも思いますが、ゆったりと過ごしたからって時の流れがゆっくり感じるわけではないと思います。むしろ、ゆったり過ごした冬休みの方が、仕事より早く過ぎしてしまったと感じる方が多いかもしれません。

時の流れを遅く感じるのは、ある時間の到来を待つときぐらいではないでしょうか。「痛みが1時間続きます」といわれたら、その1時間はとても長く感じるでしょう。つまらないバイトが5時まであったら、それまでの時間は壁の時計との睨めっこになってしまうでしょう。このように時間が長く感じるのは、時間を意識している時間だと考えています。(もちろんタイムリミットまでに焦って何かをするときは逆ですが。)

だから、時の流れは速いままでいいのではないでしょうか。むしろ時に流れが速いことは楽しかったり充実したりしていることであり、ゆっくり流れている時間の中では過去の栄光に浸ることはできても、あまり前に進んでいない時間なのではないでしょうか。そういう時期も必要かもしれませんが、時の流れを加速しようと思うぐらいの姿勢を持ってもいいのだと思います。

逆に時間を意識することによって、その流れ星を適所で捕えられるかもしれません。