人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

新会社法について

2005-07-31 15:31:23 | 法律
先月末ぐらいからから話題になっている新会社法の内容を、少し不思議な気持ちになりながら読んでみました。全条文を読んだわけではありませんが、「くるくるぱーでもわかる新会社法」(みたいなタイトルの)本は2時間で読破できる内容だったので2時間で読破しました。

改正することについては大賛成です。現況に適さない条文は法全体の力を弱めます。変えるべきでしょう。(ついでに憲法も・・・。)

しかし、今回はちょっとやりすぎ感、というか考えすぎ感があります。法律のベースとなる三段論法は、大前提と小前提が正当に思えればその後はチェックなしで一人歩きしてしまう可能性があるという欠点を持っています。極端な話をすると、法の趣旨の正当化は反対意見を無視してしまいさえすればいつでも可能となるわけです。

今回の改正で具体的に何がやりすぎだと思ったかといいますと、定款自治の原則の徹底です。結局あるようでないような法律になってしまっているのでは。結局組織形式とガバナンスの組合せで(合同会社を除いても)20種類以上の選択肢ができますが、これほど柔軟性がある必要はあるのでしょうか。直感的にですが、こんなに選択肢がある国は世界にないのではないかと思います。

このようなやりすぎ・考えすぎというのは、政治に常に付きまとうものです。最近では反対の方向にですが、個人情報保護法や米国サーベンス・オクスレー法も現状を打破しようとしすぎて極端に厳しい制限を課してしまったものといえるでしょう。

特にアメリカではよく見られることです。たとえば、1930年代以前のアメリカの労働組合の力が弱すぎ、結局その使命を果たせていないと思われていました。そこで、1932年でNorris-LaGuardia Act、その3年後にWagner Act が施行され、労組が強くなりすぎました。やりすぎてしまったわけですね。結局1947年にTaft-Hartley Act が施行され、なんとか経営と労組の力関係が均衡に近づいたわけです。(それ以降も色々と問題はありましたが)

ついでに、この頃実務家の意見をかなり重視して改正をしているみたいですが、一部の実務家に聞いているだけなので偏りが出来てしまいます。そして、実務家はやはりルースな法整備を望むものなので、それを抑制するのが国会などの役目の一つのはずです。(それ以外の、一般消費者などを保護するため。)

もちろん、これが結果論であるということも認識しています。中途半端な改正は困りますし、「やっぱり日本の国会は動きが遅い」という話になってしまいますよね・・・。

果たして、今回の改正にはすべての利害関係者の利益バランスがしっかり図られているのでしょうか。来年4月1日、楽しみですね。

ホルモンバランス

2005-07-30 14:38:24 | 出来事
この頃流行りとなりつつあるホルモンバランスについての記事を読みました。ストレスやコンビニ弁当症候群(?)などからバランスが崩れてしまうそうです。更に、睡眠不足でもバランスが崩れるようです。

当然身体に良くないというイメージはつきますが、やはりホルモンバランスにも良くないわけですね。ホルモンといえども様々ですが、まさかこれらによって少子化が促進されているのでは・・・?

とすれば、大げさですが日本のようなストレスとコンビニが多い国から少子化が始まっているのは偶然ではないかもしれないんです。そう、生活習慣病は、別に血管が詰まったり、胃炎になったるするだけではありません。人の根本的な欲求に関わりうることは認識しておくべきでしょう。

改善策は、おそらく「人間っぽい生活を送ること」なのでしょう。ちゃんと食べてちゃんと寝て、適度にリラックスして適度に運動する。充分に笑う。たまには他人や自分に甘える。

自分も最近、これらの当たり前のことがあまり出来ていないと思います。大きな目的を前にするときは仕方ないと思いますし、多少の犠牲は覚悟すべきだと思いますが、それが習慣になってしまったら大変ですよね。

あなたももう少し、自分の身体を気遣ってあげてはいかがでしょう。日頃の激務、お疲れさまです。

主役ばかりの会(2)

2005-07-28 08:17:57 | 人生論・閃き
引き続き「主役ばかりの会」をお楽しみください。


前回は、「主役度」「主観的主役度」「客観的主役度」など数々の造語を紹介してしまいましたが、今回は自分の主観的主役度と客観的主役度との間で乖離が見られる場合どのように対処すれば良いのか、ということについてお話したいと思います。当然、全くの私見ですが。

① 観音の手大作戦

客観的に、(自分以外に)主役と見られる人が一人しかいない場合。まずは聞き手に専念し、ラポールを築く。うそっぽくならない程度のオーバーリアクションも◎。信頼を得て話題が多少振られるようになったら、段々違う方向に引っ張られるようになるでしょう。あなたの手は、観音のごとく世界を握ることに。

② コウモリ大作戦

客観的主役が2名いる場合。主権を争っていたとしてもコウモリごとく両方を支持するサポート役。両方に多くの質問をし、段々ミディエーター(MCっぽい立場)になれば会話の主導権を握れる。

③ ホームグラウンド大作戦

次元の違う話がされているけど、やっぱり自分も会話に加わりたい!というときの作戦。アウェイで戦っていると分が悪い。笑いや薄い関連性のある話で、流れを自分の得意分野に引っ張ってみましょう。

④ 一本勝負!大作戦

あえてアウェイで勝負。知らないことについては素直に学ぶ姿勢を保ちつつ、意見がある場合は積極的に。ちょっと斬り味のある質問もありでしょう。どうしてもその場で印象付ける必要がある場合は、やってみる価値あり。

結局客観に主観をあわせるのと、主観を客観にあわせるのと二通りの作戦がありますね。グループ・ダイナミックスの中で生き残るのは非常に大事です。「今日は疲れたからいいや」「人間観察するいい機会だ」と思うことは良くあると思いますが、めげずに参加しましょう。

やっぱり主役は、あなたでしょう!!

主役ばかりの会(1)

2005-07-26 16:10:59 | 人生論・閃き
最近良く出席するのが、「主役ばかりの会」。

「何それ?」
説明しましょう。

人は無意識的に、あるグループの中での「主役度」を認識しているのだと思います。それは、集まったメンバーの中で、誰が「偉い」か、「しゃべりまくる」べきか(主役度=100)、そして逆に誰が借りてきた猫のように座ってわずかに微笑みながら5000回うなずくだけの聞き手となるべきか(主役度=0)ということです。もちろん、これらは極端なケースで、これらの間にいるケースがほとんどでしょう。

どの物語もそうですが、すべての人が主役になれるわけではない。しかし、それぞれの人生ではそれぞれが「主役」なわけである。そこで、仮に「主役度調査」をしてみると、平均は50を超えることになるでしょう。

すなわち、自分が認識している自分の主役度(主観的主役度)と他人が認識している自分の主役度(客観的主役度)が一致していない状況が出てきます。

結局「目立ちたい」「俺の話聞けよ」などと思い不満になる人も出てくるということです。そして、「主役度争い」が始まります。いい年の大人が、「俺はお前なんかより、すごい経験をした・すごい人を知っている・えらい・金持ち・モテる」などということを丁寧な言葉に包んで発砲しているわけです。なさけない。

特に、それぞれの輪でチヤホヤされていたり、エリート扱いされている人が集まって飲みに行ったりすると問題が生じるのではないでしょうか。せっかく楽しいはずの会が、エゴのぶつかり合いになってしまいます。当事者にとっても周りの人にとっても辛い展開ですね。

では、自分の主観的主役度と客観的主役度との間で乖離が見られる場合、どのように対処すれば良いのでしょうか。これについては、次回お話したいと思います。

苺とフォアグラ

2005-07-23 21:03:28 | 出来事
数日前、レストランでフォアグラに苺がのって出てきました。もちろん、初の試みです。

昔の私なら、まず①苺を食べて、その後②フォアグラを食べていたでしょう。イメージ的に合わないし、2つの良いものを併せて良くないものを作り出しても意味ないからです。でも、食べてみると美味しかったです。

やっぱり、理屈じゃないんだ、と思いました。

さて、「理屈じゃない」ことって、実は「理屈」なのでしょう。少し前にLuck be a Ladyで「運」について書いたことと同じようなイメージでしょうか。やっぱりどこかに理屈がある。

しかし、やっぱり理屈じゃないものもあってほしいですよね。夢を描いていたい。アイドルに恋したい。ボブサップに「サップさんの頭って、上から見ると焦げたメロンパンみたいですよね」って言ってみたい。理屈じゃないんです。

すべてに理由・根拠・理論・正当化を求める世界のおかげで、我々は細かくなっている。神経質になっている。固くなっている。これが生きる道なのでしょうか?

実は地球にいるヒト以外のほとんどの動物も、我々と同じ時間をかけて進化してきました。だったら、彼らもかなり完成度の高い生き物のはずです。我々に決して遅れをとらぬはず。しかし、彼らにはゲーム理論も微積も「5時から男」もないのです(多分)。

我々は我々の理論的な部分だけを伸ばしすぎたのでは?ただ単に左脳寄りということでなく、意図的に世界を「チョキ」と決めつけ、すべてのジャンケンに「グー」を出してきたのではないか?おそろしくワンパターンで、おもしろくなくても負けるよりマシと思っているのでは??

今こそ、あえて「パー」で勝負!!
苺とフォアグラ、是非お試しあれ。

It's not WHAT you know, it's WHO you know

2005-07-17 10:23:19 | 人生論・閃き
大学一年のときの友人が大好きだった言葉です。

当時もなんとなく感じていたことではありましたが、本当の意味を理解していなかったように思えます。

最近、この言葉が良く頭を過ぎります。知識の豊富さより知人の質・量で評価される世の中なんだなぁと。実際、誰々と仲がいいということは、昔と違って大きな実益を生み出すものであり、重要なことではないと誰が言えるでしょう。

しかし・・・。昔から「俺はインターハイ出場校のエース4番だったんだぜ」はまあ許せたとしても、「俺はインターハイ出場校のエース4番の親友なんだぜ」という自慢には笑ってしまいそうになってました。しかし意外と、大人になるにあたって精神面の成長は他の成長についてこないものです。結局、古今東西、同じような会話になっているわけです。

思うに、少し大げさですが40歳、50歳にもなったら、日本を牛耳ってる人たちが知人であるか、何らかの関係があることは当たり前です。高校、大学、勤務先などであらゆるネットワークができるものであり、偶然その一部が有名・偉くなるのは当然のこと。たとえば東大を卒業すれば、その後50年何もしなくても多くの著名人が「後輩」となるわけです。ネタとしてはともかく、それで自分の価値を見出すのはどうかと。

結局、確かに「It's not WHAT you know, it's WHO you know」の世界なのですが、子供を持っても孫をもっても、常に自分を磨くことを続けたいと思います。最低でも「It's WHO you know, and then it's WHAT you know」という認識を皆さんに持ってほしい。私にとって友人・知人はとても大事であり、人間大好き人間なのですが、現代病ともいえる「他人依存症」にはかかりたくないなぁと思います。

あなたの一番尊敬する人は?

2005-07-16 00:46:32 | 人生論・閃き
聞かれたことがある質問でしょう。
ミス日本などでは、決まって「父です」「母です」と言われるケースが多いようです。
これが「正しい」答えかのように。

事実、私にとっても父や母は、最も尊敬する人に入ります。
では父と母に甲乙がつけられるのでしょうか。
としたら、父と母は兄弟の間に甲乙をつけているのでしょうか。

さて、話がちょっと変わります。

Situational Leadership (SL)という経営手法がありますが、状況に応じて違う人がリーダーになるべきだとされています。「どんな状況でも、この人が一番高い判断能力を持っている」ということはありえないからです。

このような考えを、「一番尊敬している人」に応用してみたいと思います。

すなわち、「一番尊敬している人」も状況に応じて変わるものなのだと思います。よって常に不動な回答が出ることもあるとは思いますが、すぐに答えが出てくる場合は本当に考えて答えているのか少し疑ってしまいます。本当にその瞬間そう思っているのでしょうか?

よって、私にとって「一番尊敬している人」の理想な答え:
「今、目の前にいるあなたです。」

一秒毎に、直接関わっている人を最も尊敬する人かのように思えるのが理想だと思うのです。私はまだこの水準に達していませんが、そのうちこのように思えたい。こう思えるレベルまで人間的に成長したい。

これこそが聖書、仏教、共産党、アメリカ独立宣言、マンデラ、あらゆる教えが描く理想の形なのではないでしょうか。

You have nothing on this guy

2005-07-02 00:35:49 | 出来事
"You have nothing on this guy."

今年久しぶりに会った大学時代の親友に、ある人について言われた言葉です。

まずは言葉の説明を。読み方によっては、「この人について情報がない」という意味とも捉えれますが、今回の使い方での意味は「何においても、この人には勝てない」ということです。口説き方でも爪の切り方でも整形手術でもバスケの3ポイントシュートでも、世界のあらゆることで適わない、ということ。

同じ年の人に関して言われた場合、これ以上ショックなことはありません。自分は餅屋なのに、あの八百屋は自分より美味しい餅をついてしまうわけですから。しかし逆に、このような人になれたらこれ以上気持ちいいことはありません。

このセリフ、自分について言われたい。
そんな人になりたい。
そう強く思う一日でした。