人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

強力なブランディング

2006-08-31 20:58:19 | 人生論・閃き
父親は子供にとって「パパ」であり、永遠に「おっさん」にはなりません。

若くして死したジャンヌ・ダルクは、永遠に「おばさん」と言われません。

2度目に会う人なら、「ヘイ彼女、お茶しない?」でOKが出る可能性が著しく高くなります。

子供に牡蠣を食べさせている親を見たら、その牡蠣は食べても安全だと思ってしまいます。

人には「バカ」といわれても追う夢があります。「デブ」といわれてもおいしいケーキがあります。「犯罪者」といわれても、守りたい人がいます。

数十億の広告キャンペーンも響かないところで、強い想いが働いている。一瞬で視点や状況が常に変わっている。逆にいえば、一瞬でほしいものが手に入る。手に入っているものを改めて「欲しい」と思うこともよくある。それが人というものだ。

絶対的なものは常に主観のなかにあり、常に変化する。アインシュタインは、良いマーケターにもなれたかもしれませんね。

女に生まれたかったと思ったとき

2006-08-20 02:20:08 | 人生論・閃き
今回はとてもなさけないお話です。10歳ぐらいだった頃のことです。

私は2歳の頃から水泳をやっていて、頑張って練習していましたが、他のスポーツになると全くダメでした。水泳でも、同年代で自分より速い人がいないかというとそうでもありませんでした。それでも、オリンピックに出たいと思っていました。

水泳以外のスポーツをやっているときには特にそうだったのですが、どうしても自信が持てませんでしたし、自信を持てるほどの実力もありませんでした。でもスターにはなりたいものです。さて、どうすればいいのか。ダイエットするとか腕立てやるとか、子供なりに色々と考えました。

そしてそのうち、「比較の対照が弱くなればいいんじゃないか?」という発想が頭をよぎったのです。それで、「もし僕が女だったら、サッカーでも野球でもかなり上手いことになるんじゃないか?」などとふと思ったわけです。

思い出すたびになさけなくなります。でも、その気持ちはわからなくはないな、とは今でも思うのです。きっと大人になっても「逃げ」というか、自分が優越感に浸れるグループを選んだりすることがあるはずです。会社でいつも後輩と飲みに行っている人はいませんか?体育会に入れるのにあえてサークルに入った人はいませんか?新しい趣味を始めるのに躊躇する場合はありませんか?そして「これでも結構がんばったんだ」とそれを正当化するのは簡単なのです。甘い罠ですが、なんとか落ちないように気をつけたいですね。

負けっぱなしだと自信がなくなるし、つまらなくなるし、練習する気にもならないのも事実ですが、より大きい目標を夢見てひたする努力するしかないようですね。

・・・結局私は、15年間水泳をやっていたのに女性の世界記録にも及びませんでした。弟はその域に到達したのに。「女だったら・・・」と思っていた頃の自分はそれを知ったらがっかりしたでしょう。いや、そんな考え方だったからそういう結果になってしまったのかもしれませんね。

だから、今は大きすぎる夢の実現をひたすら信じ込むという戦略を採っています。小学時代の自分より自分の成長が感じられるような気がしますし、くやしく感じることも次へのステップだと思っています。

過去や現在の自分にではなく、未来の自分については傲慢になってもいいと私は思います。「5年前の俺はすごかった」といえる人より、「5年後の俺は絶対すげえ」といえる人の方が幸せなのではないでしょうか。

義手と好きな人の心

2006-08-11 00:07:07 | 人生論・閃き
義手と好きな人の心、今までは思い通りに動かせない代表例(?)みたいなものでした。しかし、前者については変わりつつあります。

脳波を拾って義手が思うままに動く。「鋼の錬金術師」というマンガに登場していますが、実は現実なものになりつつあるのです。これは素晴らしいことで、不自由な生活が一気に楽になる可能性を秘めています。

しかしその社会に及ぼす影響は測り知れないところもあります。以下、幾つか思い浮かんだものを挙げてみます。

① 身体障害者の雇用

身体障害者の行動範囲が広がるため、雇用の可能性も広がります。障害者の雇用の促進等に関する法律のようなものも改正されるかもしれません。

② 保険関連

損害保険でカバーされるものができれば、どちらかというと保険会社の収入を上げるものになるかもしれません。確率が低いので。しかし医療保険の適用内になるのはかなりの時間がかかりそうですね。

③ 憲法19条

思想の自由といっても、考えただけでで義手がかって動いてに人を殴ってしまったら傷害罪ですよね。また、「殴りたい気持ちはあったけど、本当に殴ろうとは思わなかったんだ!」と主張した場合法廷でどうなるのでしょうか。ここら辺の法的論争が出くるかもしれません。

④ オリンピック

砲丸投げで、義手で投げた世界新記録は認められるか?認めたら意味がなくなってしまうが、認めなかったら障害者に対する差別となってしまうのか?

⑤ 好きな人の心

やっぱり思い通りには動かせないんでしょうね・・・。

はじめてのカレー!

2006-08-10 07:20:02 | 出来事
この歳になってはじめてカレーを作ってみました。もちろん、市販のルー使用です。具はちょっと工夫してエビ・ホタテ・イカ・椎茸・にんじんといったシーフードカレー。たまねぎは目が痛くなるので今回は避けました。

とても美味しかったです。

カレーは箱の裏の順序どおりに作っていけばいいので誰にでもできる料理ですが、「よし作ろう!」と思わないと絶対にできません。そこに初めて達した自分に小さな拍手を送ってみました。

人が何かに興味を持つ瞬間は、その人の未来予想図を完全に変えうる輝かしいものです。はじめてのカレーを作った日、それはそんな輝かしいものなのではないでしょうか。カレーを作ったことがない人は是非やってみてください。作ったことがある人は、サーフィンをトライしてみてください。両方やったことがある人は、政治の本でも手にとってみてください。

地方病院の実情

2006-08-09 00:05:52 | 出来事
先週は久しぶりに入院などというものをしてみました。しかも、栃木県宇都宮市で。問診・触診なしに「熱中症だな!」と言われましたが、食中毒だったと思います。無理やり点滴を4本打ってきました。

地方病院に入院することはもちろんのこと、訪れるのも初めてでした。とても辛い経験ではありましたが、同時にとても勉強になりました。

まずは緊急外来で診てくださった先生ですが、「これから52時間勤務だ」と仰ってました。明らかに40代後半ぐらいなのに。いくら労働基準法があてはまらないとしても、これはひどすぎるし、患者としても心配ですよね。顔も見ずに診断したくなるのもわかります。ちなみに私の最大連続勤務時間は60時間程度だったと思いますが、能率どころか世界がぼんやり白かっただけで目がほとんど見えませんでした(怖かったです)。

そして看護師もとても不安そうに点滴の針を入れてました。というか、「わかんないなぁ」といいながら適当に腕を刺されました。案の定血管にまっすぐ入らず、結局手の甲(ここは痛いんです)でやり直しになりました。今でも腕が青いというか、黄色いというか、まあ内出血の修復中です。

失敗するのはよくありますし、東京にある某一流私立大学付属病院(これでは普通にわかってしましますね)で麻酔してもらったときも同じことが起きました。麻酔と点滴では針の太さなど違うんでしょうが、まあ、医療従事者も大変だということです。地方での問題は、不安でも実践で覚えるしかなくて、指導してもらえないということでしょうか。回りの人も忙しすぎるので。もちろん、不安を声に出してしまっては絶対ダメですよね。上記東京の病院では自信持って失敗してました(これはこれで困りますが・・・)。

病室は6人部屋。平均年齢は私を入れても80才程度だったかもしれません。うるさくても意外と寝れるものだな、と思いながら起きてみて時計を見ると15分しか経ってないということが何回もありました。懐中電灯でチェックに来られると必ず目が覚めます。看護師が着ているということなので、みんな甘えたくてしょうがなくて文句を言い出します。すると余計目が覚めてしまいます。

技術的には意外と進んでいました。はじめて授業で学んだ機材を使うことになったり(パルスオキシメータなど)、見れたりして良い経験でしたし、点滴しながら歩き回るとどんな感じなのかも体感できました。これは慣れで、結構しっかり固定されているので棒が倒れなければ大体大丈夫なんですよね。

車椅子に乗せられて運ばれましたが、これも意外と斬新な経験でした。恥ずかしいかなと思っていたら、痛みでそれどころではなかったし、ちょっとの距離でも歩くより全然楽でした。歩けるならいらないのかな?と思っていたのですが、一歩一歩が辛いときにはまさに助け舟となります。

地方病院には医療従事者が足りないというのを肌で感じることができたので、自分が行かなかったとしても医療政策面、待遇面などのさまざまな提案を該当機関にできるようになりたいと一層感じる2日間でした。

落雷!

2006-08-08 11:43:38 | 出来事
今朝落雷とともに目を覚ましました。一瞬停電し、PCが落ちるとともにエアコンやドア開錠システムなど色んなものが一斉に再起動しました。実際の雷に効果が伴うのを経験したのは初めてかもしれません。

脳裏を過ったものの順序としては、何が起こったのだ?→雷だ→停電だ→はっ、データは?というものでした。現代を物語っているプロセスですよね。

現代には、普通の生物から考えて可笑しな連鎖が色んなところで見られます。きっとこんな思考を持つ動物がいると思います:

雄だ→いい季節だ→子孫を残さねば→ライバルは?

しかし21世紀の日本人はどう考えうるか?

男だ→
お、アルマーニじゃん→
指輪はしてないな→
でもただ合コン用にはずしてるのかも→
火曜なのに靴は今日磨いた感じだ→
これは女のしわざか→
なんか神経質っぽいな→
こっちからアプローチかけるのもねえ・・・

かなり複雑です。厳選しているように見えますが、この例ではまったく本質をみていないだけでなく、結局動けずにいて、非効率ともいえます。「愛」は非効率でいいのかもしれませんが、「愛」か否かを定める定義は効率的(一目惚れ?)であるのが自然の形なのかもしれません。

文明が人から一目惚れを奪ったのか?!
話の筋がわかりません(というか、ありません)が、落雷にはご注意を。

工事現場にて

2006-08-03 20:49:29 | 出来事
昨日、偶然工事現場での作業を観察しました。観察といっても、足を止めたわけではないので、時間にすると10秒ほどでしょうか。

火花散る中、水道管を補強していました。

そのときまず、「すごいなー」と思いました。そして次に頭に浮かんだのが、「きっと私は一生あのような技術を身につけることはないだろう」ということでした。

「世界は広い」といわれますが、「近所も広い」んですよね。世界で何かの王者になっても、その極めて近い分野では初心者のようなもの。隣のおじさんにも敵わないのです。

何年生きても、何回生きてもこの世界のすべてどころか、○町○丁目のすべてを知ることができない。こんな無限な環境に生まれてきて本当によかった。

やさしさ

2006-08-03 02:49:10 | 人生論・閃き
「世界には2種類の○○があります」という説明が成り立つケースは無限にあります。たとえば「世界には2種類の人がいます」。頭がいい人とそうでもない人。きゅうりが大好物の人とそうではない人。などなど。

というわけで、世界を2つに分けた場合、それはどこに視点を当てるかだけであって、それだけが分け方ではありません。人がきゅうりが大好物の人とそうではない人に分けられて、それが人間の分類のすべてだったらたまったもんじゃないですよね。

なので、「やさしさ」の2種類を勝手に作ってしまいます。「そういう分けかたって・・・」と思う人も多いと思いますし、それでよいのだと思います。筆者の頑固な意見としてではなく、新しい視点として捉えてみてください。(このブログをいつもご愛読頂いている柔軟性の高い方々にはいうまでもありませんが。)

それでは・・・。

世界には2種類のやさしさがあります。それは暇だからできるやさしさと、そうではないやさしさ。

暇だからできるやさしさは、暇ならできるもの。暇な人なら誰でもできるはず。でもしない。面倒だと思ったり、あえてそんな義理がないと思ったり、結局はその人の中で優先順位が低いのでしょう。だから暇だといっても優しい人は優しい人。素晴らしいことですね。

しかし暇じゃない人もいる。暇じゃないのに優しいと思われる人は、私のなかでは特に尊敬に値する。時給100万円稼いでいる人にとっては、2時間つかって誰かのお見舞いに行くことは200万円の機会費用を生み出しているわけである。それでも行くべきか?相手との関係によるが、必ずしもそうとはいえない。あなたが相手だったら、相手に2時間仕事してもらって給料の半分でである100万円をもらった方がいいと思うのではないだろうか。

冷たいのではない。優しさにも効率性が、優先順位がある。むしろ、冷静な優しさこそが最大の優しさなのかもしれない。ドラマでは売れないネタですが・・・。

たとえば、医師はゆっくり患者さんのお話を聞かないケースが多いといわれるし、実際そうだと思う。冷たいとか偉そうとか言われ、日本にはやさしい医師は少ないといわれる。しかし、そっけなかったとしても効率的に診断を終えたことにより、毎日10人多くの患者さんを診ることができたとしたらどうか。どっちが本当のやさしさだろう。これも場合によるのではないだろうか。

これは医師に限ったことではない。弁護士や会計士、インベストメントバンカーなどは顧客に憎まれても正しい道を示さなければならないときがある。これは優しさとは少し異なるが、仕事の目的は「感謝されるため」ではないし、顧客も究極的にそれを求めているわけではない。

「より多くの人により多くの便益を・・・。」ジェレミ・ベンサムが提唱した功利主義も、この後者の意味では最大のやさしさと成りうる。

逆に、無駄に見えても、毎日誰かのために礼拝堂に行ってお祈りをささげたりお見舞いに行ったりするやさしさもある。語弊があるかもしれないが、これはここでは「暇だからできるやさしさ」に分類される。「暇=時間」があるというこは悪いことではないし、前述のとおり暇があってもできない人が多いので、これも当然尊敬すべき行為だと思う。

私は、自分で自分が「忙しい人」の分類に入ると思っている。だから優しさにも効率性や優先順位があると考えるし、優しさを見せれない場面においても功利主義の下に自分の行動を正当化してしまうことがある。時には判断を誤るが、考え方として完全に誤っているとは思わない。

むしろ、状況判断をしてどちらかを目指すと考える事前のステップが重要だと言えないだろうか。

正直「やさしいね」といわれる回数は高校時代より減ったと思います。しかし小泉首相を、イチローを、ビル・ゲイツを「やさしい」と思う人は何人いるだろうか。忙しくて「暇だからできるやさしさ」を発揮できないのもその理由なのではないかと思うわけです。では、見えないところであっても社会一般に「やさしさ」を発揮するまで。

そして恋愛においても「暇だからできるやさしさ」を求めるケースが過半数なのではないかと思います。男女ともに、かなり顕著な傾向だと思います。結婚するなら「癒し系」「家庭的な子」と思う人が多いのもこの表れなのではないでしょうか。弱ったときに支えになってくれたから結婚したという例は数知れません。人は自然と、こういう優しさを望むものですが、「そうではないやさしさ」を発見し、理解する目を養うこともきっと重要なのだと思います。

最後に、「好きな子を暇でマメなダメ男にとられた」という忙しいボーイズへ・・・。よくある現象ですが、これは仕方ないんですよね。暇だからできる優しさを犠牲にしてでもしたい社会貢献があるのなら、その道を進み、それを理解してくれる人を探すしかないでしょう。ただ、もうひとつの優しさを常に意識していたいものですね。