人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

(多分)ビジネススクールで教えてくれないこと

2007-02-28 23:42:16 | 人生論・閃き
日本ではほぼ存在しないケースだと思いますが、私は学部でビジネススクールに行きました。なのでMBAは取得していませんが、3年生・4年生の授業のほとんどがMBA生との混同授業でした。とりあえずそこで学ばなかったこと、そして大企業勤務だったときにも気付かなかったことをひとつご紹介します。

「資本主義の幻」とでも名付けておきます。

「個人単位では別としても、企業単位ではほとんどの場合資本主義に乗っ取った活動を行う」というのは幻だと考えます。実は大企業でもかなり当てはまってしまうことだと思います。

説明の前に・・・「接待」で取引先を決めてしまうということもありますが、これはまだ資本主義に基づいていると考えています。これはセールス&マーケティングです。

ちょっと古いのですがマズローが提唱した欲求段階説では、人には①生理的欲求、②安全の欲求、③帰属の欲求、④自我の欲求、⑤自己実現の欲求という順番でモチベーションが起こるとされています。そこでお金によって得られるものを考えると、①(衣食住)、②(医療費、セコム?)が得られ、お金を得る過程もしくは得た結果として③(会社への帰属やゴルフクラブへの会員権)、④(地位、他人からの尊敬)が得られ、更に⑤(個人ジェットを買う、など色んな夢が叶う)まで実現される可能性が高くなっています。

それでは世の中のすべてがお金のように見えてしまいますが、マスターカードでは買えないpricelessなものもありますし、そこまでいかなくても「面倒くさい」と思ったり、「疲れた」と思ったり、「もう充分だ」と思ったりすることもあるでしょう。大企業で上司に言ったらまず叱られるでしょうが・・・。

しかし実はこれが、資本主義の社会でもかなり現れています。

そしてこれは当然のことです。一人で営業しているクリーニング屋が週7日営業したら、売上が伸びるかもしれません。でも疲れます。たとえば、週4日しか営業しないクリーニング屋も存在します。ここは近くのクリーニング屋にお客さんをとられてしまっています。でもいいんです。できるだけ働かないことを幸せに感じるオーナーさんだからです(⑤自己実現)。

そこで小さなプライベートエクイティ会社さんがクリーニング屋を2億円で買収して前代未聞500%のIRRを出して2年後にエグジットしたとします。資本主義登場です。(新しい社長が来て負債をいっぱい積んで週6日体制とし、宅配サービスも開始しました。)

さて、誰が一番得したのでしょう?もちろん、お金をもらって週4日から週0日働くことになったオーナーさんです。

ところが、経済人は「機会損失」などを持ち出して、「簡単に改善できてもっと儲かるはずだった事業を手放してしまった」ということで「実はオーナーは損したんだ」と言うでしょう。オーナーさんは、「ふーん、そうなんすか」といって平日に釣りに出かけたそうな。めでたしめでたし。

こんな人がいるから儲かる人もいて、その人たちは儲かりたいので、それはいい事かもしれませんね。経済は循環ですし。エコシステムってやつでしょうか(ちょっと違いますが、イメージ的に・・・)。

・・・変な例でしたが、「お金=幸せ」じゃないとわかっていても「得か」と問われるととお金で換算してしまいがちです。そして、必ずしもそうではないとわかっているのが創業者社長であり、漁師であり、5歳児です。

ほかにも、「この規模が居心地良いから」といって会社を拡大しない社長や、「占いによると・・・」といって2009年に設備投資をしようと考える社長もいるでしょう。

こういう話を聞くと、昔は「何甘いこと言ってるんだ」と思っていました。それでも社会人かと。しかし人間の本質、人生の目的、日常の幸せ、などを色々と考えるうちに、彼らの方がよっぽど高みにいるのだと感じるようになりました。

もちろん資本主義を否定するわけではありませんが、そんな不完全で人間っぽい資本主義の中にいることを幸せに感じる今日この頃です。

・・・最後になりますが、これを読んで「そうだよな、ニート万歳!」とは思わないで下さい。マズローの説はヒトのモチベーション理論なので、これだけで生きていたらとっても自分勝手な生き物になってしまいます。

仕掛ける

2007-02-28 22:39:39 | 人生論・閃き
私は「仕掛ける」という言葉が好きです。「仕掛ける」とはきっかけを作り、無から有を作り出す可能性がある行動です。何かを「しかけて」途中で終わってしまっても、次に活かすことができる行動派・積極派の考え方だと思います。

好きな女の子がいたら告白したいですよね。個人差はあると思いますが大体早ければ小学校の高学年、遅くても大学で慣れた頃にはできるようになるものでしょうか。相手からの告白を待っていたのでは、始まりうる双方向の恋もあまり始まりません。

ここまでは大体の人が乗り出せると思います。子供の頃、「げげっ、人間って5割ぐらいの大人が結婚してねえか?そんなに運命の人に出会えるもんか?!」と思ってましたが、(結婚には色々と事情はあるでしょうが)それも昔ほど不思議には思えないようになりました。

しかし恋愛以外ではどうでしょう。ビジネスや昇進のチャンスを積極的に作り出さず待っていたり、既存の留学制度や福利厚生を「前提」として固定されたものとして捉えてしまっていないでしょうか。

例えば二人のサラリーマンがお互い相手のほうから「起業しよう!」といわれたら動くつもりでも、その一声がなければ一生サラリーマンのままでいるかもしれません。仕掛けてみないと損ですよね。

そういう意味では、郵便箱に入っているチラシも意外と効果的なのでしょう。「言われてみたら、試してみたいかも」という状況に仕掛けるわけですね。

空手ではカウンター狙いでじっと構えている人より、積極的に技を仕掛ける人の方が勝つ確立が(おそらく)高いと思います。

・・・それでは仕掛けるとはどういうことかというと、結局①何を仕掛けるかがわかって、②実際仕掛けるという2段階を踏む必要があります。

① 想像力を働かせるのも重要ですが、基本は色んな人と話すことですよね。一歩間違えるとケンカになってしまいそうな論争が大きな発見に繋がるものだと私は思います。ただ、これに同調してくれる人が相手でないと、ただのウザい人になってしまうかもしれません・・・。

② 実際仕掛けるというのは声をかけたり、電話一本したり、レッスンの見学にいったり、など簡単なことです。しかし1.5段階目で、「仕掛けてみよう」と思うか、少なくても「仕掛けることを検討してみよう」と思うことが大事ですね。それには「仕掛ける可能性がある」ということを認識することが必要であり、常に仕掛ける姿勢を保っていることが重要だと思います。

職業や日常に落ち着くのも素敵なことですが、常に「仕掛ける」姿勢を持っていたいと私は思います。環境に反応するだけの人間でも成功してしまう可能性があるのが世の中の不思議なところですが、仕掛けた人が味わう喜びには適わないのではないでしょうか。

人見知り

2007-02-22 16:57:10 | 人生論・閃き
日本で就職してから受けたカルチャーショックの一つ、それが「人見知り」です。まともな英訳もないのも頷けます。それはどんな理由で芽生える感情なのでしょう。幼稚園のときはなんとなく理解できたものでしたが、大人でもそういう人がいるのは驚きでした。

知らない人が怖いのか、知らない人に何を言っていいかわからないのか、知らない人に変だと思われたくないのか・・・理由はいろいろとあるのだと思いますが、やっぱり不思議な現象と感じてしまいます。明るく話しかけてくれる相手を避けるような行為は失礼だと思うのですが、「私は人見知りするから」で許されてしまう文化もすごいと思いました。

それでも「人見知りする人」といわれるのは、やはり褒め言葉ではないでしょう。そこで人見知りしてしまう人への、人見知りを乗り越えてしまう策を考えました。

名付けて、「大宣言作戦」。

自分が人見知りであると思う、ということを大宣言するのですが、早口で3回連続していいます。「私は人見知りしちゃうんです私は人見知りしちゃうんです私は人見知りしちゃうんです」(ここまでわずか2.8秒)と相手に言ってみてください。

これは、「これが言えたら苦労ないさ」と思うほどの人でも、実はできてしまうことだと思います。人見知りする人は、気まずくなったら必ず自分が人見知りであることを宣言しているように思えるからです。それを3回早く言うだけでいいんです。最悪の場合、妥協してぼそっと一回言ってみてください。

・・・相手はびっくりして笑うか、「そう言ってる時点で違うんじゃない?」と振ってくれるか、とりあえず話題になるので話を少しでも進めてくれるでしょう。

なぜこんなことが効果あるのか?まず人見知りする日本人は自分の欠点を言う方が、自分を褒めるより得意な人が多いと思います。だから、言い易いセリフです。そしてそんなにしゃべってしまったらそれ以降黙り込むわけには行きませんよね。変人度3と思われたのが、そこで本当に黙り込んだら変人度10が確定してしまいますから。そして一回口を開けたら次しゃべるのはより楽になるし、相手もしゃべりやすいし、なにより相手が人見知りであることを知っているから、黙り込んじゃっても「ほんとに人見知りなんだね」とフォローしてくれることも期待できます。

そして、別に人見知りじゃないけど話のきっかけがつかめないという人は、なぞなぞでも一つ用意してみてはいかがでしょう。バカみたいですが、会話が始まればなんでもいいんです。第一印象が重要だからって固まっていたら、第二印象までたどり着けませんから。

思考が世界を救う

2007-02-12 22:43:14 | 人生論・閃き
よくマンガで、犬を助けるために命をかけて一生の怪我を負ってしまったり死んでしまうキャラ(大体主人公ではないがファンが多いキャラ)がいます。

これはとても素敵な話ですが、その人が獣医を目指していて、結果的に数千匹の犬の治療をできたはずだったのにこの怪我・死のせいでそれができなくなってしまったとしましょう。本末転倒だと思われる方も多いのではないでしょうか。

一般にいう「優しすぎる人」の多くに共通する点として、「自分(の体力、労力、限界、苦痛、時間、命)を計算に入れていない」ということがあります。自分はどうなってもいい、「ゼロ」の存在であるとの(おそらく無意識的な)捉え方です。まず、こんなことを言って人のために尽くしたことは誰にでもあると思います:

「私がもうちょっと頑張ればなんとかなるんだから」
「これぐらい我慢するさ」
「一回徹夜したぐらいじゃ死にやしないよ」
「ジェシカちゃんのほうが辛いんだから」

これは社会において必須の考え方であり、素晴らしいことですが、過剰になってしまうこともあります。そして、上記のレベルであっても、採るべき選択肢でない場合が多く存在します。

社会に生きる以上他人への責任がありますが、これは他人を能動的に助けるだけでなく、自分の存在や健康自体が他人喜びや精神の安定に繋がることもあります。そして、その「責任」の中で機会費用(代替的に実行し得たこと)や、自分や周りの人に与える影響、選択肢の結果社会への貢献がどのように変わるか、などを考えるのも必要だと思います。

これらを考えて、はじめて自分が「ゼロ」となります。そうでなくては、捨て身の行為を見ている人が「正義の味方」「責任感のある人」「やさしい☆」と思ってくれても、残念ながら実は社会にとって純のマイナスにしかなっていないのです。・・・そして普通の人の場合、自分の欲求などが付加されてくるわけです。

私はこの新しい定義の「ゼロ」より、少し自分の欲求に素直になる程度でいいと思います。逆に自分の欲求ばかりを重視する人もいますが、そのような考え方は否定するまでもありませんね。そういう人はきっとこの記事を読んでいないでしょう(楽観的)。

さて、タイタニックではまず女性と子供を助けることを優先しました。しかし冷静に考えてみると、ボートに乗せても寒すぎて生き延びることができない乳児もいたかもしれません。船長がいたら的確な指示ができ、男手があったら更なる氷山の衝突が避けられ、男の医師がいれば怪我人の最小限の手当てができたかもしれません。

このように、タイタニックの船長は自ら水に呑まれましたが、これは選択肢の一つにすぎなかったはずです。

こんなことを船が沈みながら考えるのはほぼ不可能でしょう。とすれば、事前に計画しておくことが必要となります。はい、コンティンジェンシープランです。企業ではやっていますが、個人のコンティンジェンシープランは缶詰を買い込んでいる程度ではないでしょうか?「万一○○が起こったら○○する。」とある程度決めておけば、実際の危機が生じた場合に考えるべき変数は大きく限定されます。

タイタニックの場合でも、「女性と子供を優先的に助ける」というポリシーすらなかったら、それこそ大混乱になって助かる人数は更に減っていたでしょう。そう、危機においては次善のポリシーでも、「酷くはないけど・・・」程度のポリシーでもないよりマシというケースが多いと思います。

もちろんすべての状況を想定するのは難しいのですが、お風呂に入っている間にでも、2,3のシナリオを想定しておくのもいいかもしれませんね。

人前でかっこいい姿を見せることができなかったとしても、行動ではなくその思考こそが、人や自分の命を救うかもしないのだから。