人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

向いてる?

2009-03-24 11:52:28 | 人生論・閃き
何かに向いてるってどういうことだろう。

例えば、特にトレーニングもしなかったのに走るのが早い人は陸上に向いているのでしょうか。相対的に得意なことが何かに向いているということなのでしょうか。

それなら、努力する人がすべてに向いていて、努力できない人にはほとんどのものが向いていません。なのに、「君はなんでも向いてるよ」といった褒め言葉は聞いたことがありません。「なんでもできるね」と言いますよね。

では、生まれつきの強みに焦点を当てた概念なのでしょうか。人は先天的な能力に憧れます。しかし生まれつきサッカーがうまい人なんていませんし、サッカー技術遺伝子も存在しません。そもそもサッカーは人間の発明ですし。

思うに、我々が、誰かが何かに向いていると思うのは、その人の先天的な要素、後天的な要素、そして姿勢やその人に対するイメージなどを総合的に勘案して(=ごちゃ混ぜにして)導かれた曖昧な結論でしかないのです。

何かについて「向いてないんじゃない?」と言われた1年後に「すごく向いているよね!」などと言われた経験はありませんか?そんなものなのだと思います。

だから向いていることをやる必要はないのだと思います。周りは、向いていることをやった方が成功する確率が高いと思うかも知れませんが、そんなことはありません。好きなことをやった方が成功します。しかも、向いていても好きじゃないことをやっていたら、仮に成功したとしてもあまりうれしく感じないかもしれません。(実は、それでもうれしく感じてしまうのが人間の良いところ(悪いところ?)なのですが。)

それでもやはり、他人に「向いてる」「向いてない」といわれると考えてしまいます。進路に影響がでます。なので、他人にこういった曖昧な判断をするのは控えた方がいいかも知れません。

最終的には、何かに向いているかどうかがわかるのは、この道30年のベテランではなく自分自身しかいないと思います。そして、わかったからってどうこうということでもありません。自分の能力や性格を客観的に見極めるのも重要ですし、自分が選ぶ道についてはとことん調べたり話を聞くべきですが、一度しかない人生を使って自分なりの方法で世界に貢献したいですよね。

ものまね

2009-03-23 00:52:45 | 人生論・閃き
「ファイナルファンタジーV」というゲームに「ものまね」という能力がありました。ゲームの一番最後に身に付く能力で、それだけに非常に重宝する能力だったと記憶しています。

「ものまね」の能力は、前のキャラがやったことをそのままものまねできる能力です。前のキャラがどんなに高等なことをやっても、そのまま真似ることができてしますわけです。

スクウェア(当時)さんから子供たちへのメッセージだったかどうかはわかりませんか、それは実世界における人間にとっても最強の能力だと思います。

最高の能力、それは横断的であり、応用範囲が広く、成長や成長の加速につながるものだと思います。能力を身につける能力、いわば「メタ能力」。「ものまね」は、正にそんな能力だと思います。

ものまねだけで、ほとんどの技術が身に付きます。ほとんどの世界で頂点に昇ることができます。もちろん見て真似るだけでなく、勉強法や練習法を真似るということも含まれますが。

そして、発明のほとんどは応用力。そしてその応用力さえ、応用力や斬新な視点を持つ人の真似すればほとんど身に付くものだと思います。まさに最強の能力。

前述のゲームと違い、ものまねは人間の生まれつきの能力です。最強の能力を、我々は生まれながら持っていた。もちろんパクりではダメですし、著作権にも注意が必要ですが、この能力を活用しない手はありませんね。

そこで重要なのが、ものまねの対象。誰を真似したらいいのでしょうか。基本的には身近に、「こうなりたい」と思える相手がいればその人を真似すればいいと思います。最初は親や兄弟、次に友達、先生、コーチ、大人になったら先輩や上司などが都合いいでしょう。

技術はともかく、性格や振る舞いを真似するのならテレビの中のスポーツ選手やアイドルでもいいですし、実在する必要もありません。私が最初に真似ようとしたのは、漫画「ドラゴンボール」の孫悟空。小学生の頃は意味なく自分のことを「オラ」と呼んだりしてました。そして孫悟空は常に修行をしていたので、私も見習って毎日密かに腕立て伏せや腹筋をしていました。回数は少なかったのですが、どこかで役立っていると思います(必殺技は出せませんが、今でも続いている運動の習慣が身に付いたことは有意義だったと思います)。

神経言語プログラミングという学問で「モデリング」という技法がありますが、これは誰かのすべて(技術だけでなく、歩き方や考え方、食事の内容、口調などすべて!)を真似することでその人に技術面で早く近づくことを目指すものです。極端ですが、ものまねがいかに重要で効果的であるかを知った人が開発した技法なのでしょう。

ということで、次の試験を受けるときは将棋の羽生さんのような寝ぐせをつけて望みましょう。

褒め方

2009-03-17 14:45:18 | 出来事
褒めることはとてもいいことなので、悪い褒め方があるとは思っていませんでした。しかし考えてみると、褒めすぎは良くないですし、褒めるときに他の弊害が生じることもあります。

数年前の経験ですが、なぜか非常に印象に残った褒め方がありました。

匿名性を確保するために漠然とした説明となってしまいますが、出会ったばかりの人たちがチームを組んで目的を達成する会でした。その中に、人を褒めることに躊躇がない人がいました。とても素敵なことですし、関心しながら作業を進めていました。

そのチームの中で、作業の担当部分を素晴らしくこなした人がいました。当然みんな褒めますが、上記の人はこのように、みんなが聞こえるように褒めました。

「すごい!○○さんはこの中の誰よりも能力が高くて才能があると思います。」

周りは空気を読んで頷いていましたが、その発想に違和感を感じている人がいたのも明らかでした。

比較すると具体性が出ます。原則として具体的な褒め言葉の方が、リップサービスではないように感じるためとてもうれしいものです。しかし甲乙を付け、比較の対象を乙とするなら、少なくてもその対象が聞こえないように言うべきですよね。しかも、このケースでは協力関係が重要なときに競争の要素が導入されてしまいます。

薬の副作用のように、行動に意図しない悪い結果が伴わないように気をつけたいと感じました。

思うに、何事にもいくつかの視点、いくつかの「次元」があります。他人との比較はそのひとつであり、他に次元の褒め方を選べばより良かったのではないかと思います。

同じ次元:「すごい!テレビでやってた人より上手ですよ!」
(より無難で、よりうれしい褒め言葉ですが、やはり他人との比較。)
違う次元:「すごい!この文章の言い回しはすごくスムーズでしっくりきます!」
(作った人ではなく、その結果に着目している。具体性もある。)

このような言葉の入れ替えが実践できれば色んな場面で役立つのではないでしょうか。

最後に、上記のような微妙な褒め言葉はアメリカでなんどか聞いたのですが、日本ではこれが初めてだったと思います。それで印象に残ったのでは、と。

その理由を考えてみたのですが、日本人は気遣い上手であることが一つ挙げられます。その反面、人を喜ばせるより怒らせないことを優先する文化であるようにも思えます。

上記のように多少気をつけるべきことがあるにしろ、やはり積極的に人を褒めることができるのは非常に魅力的なことだと思うので、今までより一日一称賛増やせるように努めたいと思います。

きっかけなき変化

2009-03-15 04:33:11 | 人生論・閃き
本を読んだり、劇を見たり、人と会ったりしたあとに、刺激を受けて何かがしたくなったり、やる気が出てきたり、人生の生き方を変えうるような発見があったりすることがあります。

有名人のスピーチで「この出来事で私は変わった」という話がよく出てきますが、その「出来事」は実は日常に起っていることが多いのです。とくに出来事がある必要もありません。何かを見て、「あ、あれいいなー」と思ったから始めた趣味もあるのではないでしょうか。

「あの子かわいいよなー」と他の人が言っているのを聞いたから誰かを好きになってしまうということも世界では意外と頻繁に起きているようです。

「きっかけは自分が作るもの」というのは正しいと思います。ですが、別にきっかけを作らなくてもいいとも思います。きっかけは自分の解釈なのだと思います。

私は、去年に調子を崩して体重が減ったことをきっかけに「このままやせよう」と思って、その後ダイエットを成功させました。何かが起こってそれを「チャンス!」と思えさせすれば、それはきっかけとなってしまいます。

とすれば、なんでも無理やりポジティブなきっかけに変えてしまう姿勢は自分にとってとても良いことなのではないでしょうか。例えば、子供を見るたびに「子供たちの見本となれるような人生を送ろう!」と思えて気合いが入るようにしたらどうでしょう。毎日一人ぐらいは子供を見るでしょうから、毎日気合い入って、毎日気合いが充電されます。結果として、有意義な毎日を過ごすことができるでしょう。

ベルの音でよだれが出るパブロフの犬みたいですが、それでいいのでは?上記は、実は私のモチベーションの維持に一役を買っている技です。実践あれ!

理解への理解、軽蔑への理解

2009-03-05 15:39:53 | 恋愛
同業の人と結婚するケースはどの業界でも多いと思います。出会いやすい、業務や辛さが理解してもらえる、仲間も共通だったりする、といろいろ理由はあると思います。

しかし特殊な業界の中では、それ以上に深い共感が生まれるのではないでしょうか。特に、一般の人に軽蔑されたり、不潔と思われたりするものを扱っている場合です。

例えば、彫刻家。裸体が見慣れているから、目の前にいても動揺しないし、直視できるし、普通の人がどう反応するのか忘れてしまっているかもしれません。例えば、医療従事者。血液や臓器、そして排泄物を生理的なものと考えるため何の抵抗もありません。そして、学校の先生。色んな親、色んな子を見ているため、「この人、ヘン。」と思うに至る閾値が高いのかもしれません。

逆に、例えば保険会社の人と商社の人との間では、業種は違いますが、一般人が「うわっ」と不思議がることを普通と思うところが少ないのであまり問題にはならないと思うのです。

価値観は環境に影響されるもの。大人になるにつれて、そういうところを理解できる必要があると思います。最近では「これが俺・私だから」と自分は変えない、相手が合わせてほしい、という人が多いように思えます。

しかし、生き方は変えなくても、物事に対する姿勢は一瞬で変えられます。みんなが面白いと思うことが面白くないと思う人の気持ち、そしてその背景を理解できるでしょうか。そうしようとしているでしょうか。自分がキモいと思うことを普通に処理している、もしくは楽しんでいる人がいたら軽蔑せずに共感できるでしょうか。誰にでもそういう点があるはずですし、子供たちにもそんな柔軟性を持ってほしいと思います。

もちろん、逆に軽蔑の目を持つ人の背景も理解しなければなりません。これは容易にできるはずなのになぜか「違う種類の軽蔑」を抱いている人にはあまり理解を示せないのが人間です。もちろん軽蔑を強めるという意味ではなく、軽蔑する人を軽蔑することも良くないという意味です。

どの業界でも「ニーズが多様化している」と叫ばれていますが、その半分はもともとあったニーズで、珍しくて、または恥ずかしくて、軽蔑されるのが怖くて、表現すらできなかったニーズなのではないかと思います。それに目を付けるのはビジネスの秘訣だけではありません。

それは人の心への扉でもあると、私は考えています。