ストレスや不満となったり、愛情・友情を危うくする状況について2つ考えてみました。
① 互恵への過度の期待と要求
② 時間の価値観の差異
① 互恵 (Reciprocity) への過度の期待と要求
人間は互恵に関する意識が高いとされ、たとえ好きじゃない人でもいいことをされたらいいことをして恩を返そうという心理が働くようです。「借りができた」と思うのが嫌な人がいるのかもしれませんが、より良い世の中になっているのであればそれでも問題ないでしょう。
各人との間で「いいこと貸借対照表」みたいなものがあったら、常に完全にバランスされているわけではありません。それでも問題はないのですが、
A) 不均衡が恒常的となった場合
B) 天秤が過剰にどちらかに振れた場合
には注意が必要となります。Aは常に自分の方が相手に貢献している場合で、Bはあまりにも貢献しすぎて相手はそれを返す能力がない場合などを指します。
寄付行為を行う場合はAもBも該当しそうですが、自分が信じるものに対して自発的に寄付を行っていて、更にその満足感・達成感を得ているのでどちらにも該当しません。親子、兄弟、上司・部下なども(言い方に語弊があるかもしれませんが)与える方も得るものがあるので、同様とします。同等と認識している相手との関係が対象になると考えます。
さて、AとBは両方「相手に尽くしすぎてしまった」という状態です。これが持つ意味は多様だと思いますが、まず簡単な例として友人との関係があります。同姓の友人におごってあげたり楽しい企画に誘ってあげたりして、相手が同じようなことをしてくれないとします。この傾向が長期にわたること(A)、相手はあまりお金がなかったり企画の情報がなかったり(B)するとします。
この場合、特に異性であれば認知的不協和という現象が生じ、自分の中の整合性を保つために「この人が好きだからこうしてあげたいんだ」などというフィクションを作り出すことがありますが、同性であればこれにも限度があるでしょう。とすると、「俺はなにやってんだ、バカじゃん」と思ったり、「アイツは恩知らずだ、ハゲタカだ、コバンザメだ、ハゲた鷹野郎め小判を落として鮫に喰われてしまえ(?)」と不満になったりします。
このような状況で、利用されている気持ちになってしまうのは仕方がないのかもしれません。しかしそれで過剰に反応してしまったら、善意であろう相手を傷つけてしまったり、友情関係に亀裂が入ったりします。これは避けねばなりません。
そこで、このような関係になっている人たちを少し観察してみました。このような状況が生じています。
1. 師弟関係っぽくなっている
2. 偉そうにしている、他人に言いふらしている
3. 堪忍袋を必死で抑えている、チクチクと相手を責める
4. 別になんとも思っていない
1から3はあまりよい状況ではないのですが、4は目指すべきとこかなと思います。4ができなくても小さな人間だとは思いませんが、せっかくの好意を積み重ねを1から3でダイナシにする必要もないでしょう。
しかし1から4を見て、あまりいい対処法がないものだなと思いました。キリスト教的には「更に与える」のでしょうが、これは現代社会ではかなりの余裕がないとできないし、あったとしてもやはり不満になってしまうのが不完全な人間の性というものでしょう。
とすると、このような関係を生み出さないようにするべきなのかもしれません。厳密なスコアカードが必要なのではなく、ただ同等と思う友人などへの好意もほどほどにするという方針もアリなのかもしれません。私が理想とする対応策ではありませんが・・・。
良い案があったらぜひ教えてください。
最後に、恩を受け続けた方も辛い場合がありますが、こちらは最善の誠意を見せるしかないと思います。借金ではないし必ず同じ方法で返す必要はないのですが、心から喜んで感謝を重ねて述べるというぐらいしかできないのなら、それをすべきかなと思います。営業マンっぽいかもしれませんが。
② 時間の価値観の差異についてはまた後日・・・。
① 互恵への過度の期待と要求
② 時間の価値観の差異
① 互恵 (Reciprocity) への過度の期待と要求
人間は互恵に関する意識が高いとされ、たとえ好きじゃない人でもいいことをされたらいいことをして恩を返そうという心理が働くようです。「借りができた」と思うのが嫌な人がいるのかもしれませんが、より良い世の中になっているのであればそれでも問題ないでしょう。
各人との間で「いいこと貸借対照表」みたいなものがあったら、常に完全にバランスされているわけではありません。それでも問題はないのですが、
A) 不均衡が恒常的となった場合
B) 天秤が過剰にどちらかに振れた場合
には注意が必要となります。Aは常に自分の方が相手に貢献している場合で、Bはあまりにも貢献しすぎて相手はそれを返す能力がない場合などを指します。
寄付行為を行う場合はAもBも該当しそうですが、自分が信じるものに対して自発的に寄付を行っていて、更にその満足感・達成感を得ているのでどちらにも該当しません。親子、兄弟、上司・部下なども(言い方に語弊があるかもしれませんが)与える方も得るものがあるので、同様とします。同等と認識している相手との関係が対象になると考えます。
さて、AとBは両方「相手に尽くしすぎてしまった」という状態です。これが持つ意味は多様だと思いますが、まず簡単な例として友人との関係があります。同姓の友人におごってあげたり楽しい企画に誘ってあげたりして、相手が同じようなことをしてくれないとします。この傾向が長期にわたること(A)、相手はあまりお金がなかったり企画の情報がなかったり(B)するとします。
この場合、特に異性であれば認知的不協和という現象が生じ、自分の中の整合性を保つために「この人が好きだからこうしてあげたいんだ」などというフィクションを作り出すことがありますが、同性であればこれにも限度があるでしょう。とすると、「俺はなにやってんだ、バカじゃん」と思ったり、「アイツは恩知らずだ、ハゲタカだ、コバンザメだ、ハゲた鷹野郎め小判を落として鮫に喰われてしまえ(?)」と不満になったりします。
このような状況で、利用されている気持ちになってしまうのは仕方がないのかもしれません。しかしそれで過剰に反応してしまったら、善意であろう相手を傷つけてしまったり、友情関係に亀裂が入ったりします。これは避けねばなりません。
そこで、このような関係になっている人たちを少し観察してみました。このような状況が生じています。
1. 師弟関係っぽくなっている
2. 偉そうにしている、他人に言いふらしている
3. 堪忍袋を必死で抑えている、チクチクと相手を責める
4. 別になんとも思っていない
1から3はあまりよい状況ではないのですが、4は目指すべきとこかなと思います。4ができなくても小さな人間だとは思いませんが、せっかくの好意を積み重ねを1から3でダイナシにする必要もないでしょう。
しかし1から4を見て、あまりいい対処法がないものだなと思いました。キリスト教的には「更に与える」のでしょうが、これは現代社会ではかなりの余裕がないとできないし、あったとしてもやはり不満になってしまうのが不完全な人間の性というものでしょう。
とすると、このような関係を生み出さないようにするべきなのかもしれません。厳密なスコアカードが必要なのではなく、ただ同等と思う友人などへの好意もほどほどにするという方針もアリなのかもしれません。私が理想とする対応策ではありませんが・・・。
良い案があったらぜひ教えてください。
最後に、恩を受け続けた方も辛い場合がありますが、こちらは最善の誠意を見せるしかないと思います。借金ではないし必ず同じ方法で返す必要はないのですが、心から喜んで感謝を重ねて述べるというぐらいしかできないのなら、それをすべきかなと思います。営業マンっぽいかもしれませんが。
② 時間の価値観の差異についてはまた後日・・・。