人生論:「生涯発展途上」を目指して

消化器内科医になった起業家・弁護士・会計士、岡本武士による人生論や新たな視点の提供、身の回りの出来事に対するコメント等。

尽くしすぎ?

2007-08-29 11:24:47 | 人生論・閃き
ストレスや不満となったり、愛情・友情を危うくする状況について2つ考えてみました。

① 互恵への過度の期待と要求
② 時間の価値観の差異

① 互恵 (Reciprocity) への過度の期待と要求

人間は互恵に関する意識が高いとされ、たとえ好きじゃない人でもいいことをされたらいいことをして恩を返そうという心理が働くようです。「借りができた」と思うのが嫌な人がいるのかもしれませんが、より良い世の中になっているのであればそれでも問題ないでしょう。

各人との間で「いいこと貸借対照表」みたいなものがあったら、常に完全にバランスされているわけではありません。それでも問題はないのですが、

A) 不均衡が恒常的となった場合
B) 天秤が過剰にどちらかに振れた場合

には注意が必要となります。Aは常に自分の方が相手に貢献している場合で、Bはあまりにも貢献しすぎて相手はそれを返す能力がない場合などを指します。

寄付行為を行う場合はAもBも該当しそうですが、自分が信じるものに対して自発的に寄付を行っていて、更にその満足感・達成感を得ているのでどちらにも該当しません。親子、兄弟、上司・部下なども(言い方に語弊があるかもしれませんが)与える方も得るものがあるので、同様とします。同等と認識している相手との関係が対象になると考えます。

さて、AとBは両方「相手に尽くしすぎてしまった」という状態です。これが持つ意味は多様だと思いますが、まず簡単な例として友人との関係があります。同姓の友人におごってあげたり楽しい企画に誘ってあげたりして、相手が同じようなことをしてくれないとします。この傾向が長期にわたること(A)、相手はあまりお金がなかったり企画の情報がなかったり(B)するとします。

この場合、特に異性であれば認知的不協和という現象が生じ、自分の中の整合性を保つために「この人が好きだからこうしてあげたいんだ」などというフィクションを作り出すことがありますが、同性であればこれにも限度があるでしょう。とすると、「俺はなにやってんだ、バカじゃん」と思ったり、「アイツは恩知らずだ、ハゲタカだ、コバンザメだ、ハゲた鷹野郎め小判を落として鮫に喰われてしまえ(?)」と不満になったりします。

このような状況で、利用されている気持ちになってしまうのは仕方がないのかもしれません。しかしそれで過剰に反応してしまったら、善意であろう相手を傷つけてしまったり、友情関係に亀裂が入ったりします。これは避けねばなりません。

そこで、このような関係になっている人たちを少し観察してみました。このような状況が生じています。

1. 師弟関係っぽくなっている
2. 偉そうにしている、他人に言いふらしている
3. 堪忍袋を必死で抑えている、チクチクと相手を責める
4. 別になんとも思っていない

1から3はあまりよい状況ではないのですが、4は目指すべきとこかなと思います。4ができなくても小さな人間だとは思いませんが、せっかくの好意を積み重ねを1から3でダイナシにする必要もないでしょう。

しかし1から4を見て、あまりいい対処法がないものだなと思いました。キリスト教的には「更に与える」のでしょうが、これは現代社会ではかなりの余裕がないとできないし、あったとしてもやはり不満になってしまうのが不完全な人間の性というものでしょう。

とすると、このような関係を生み出さないようにするべきなのかもしれません。厳密なスコアカードが必要なのではなく、ただ同等と思う友人などへの好意もほどほどにするという方針もアリなのかもしれません。私が理想とする対応策ではありませんが・・・。

良い案があったらぜひ教えてください。

最後に、恩を受け続けた方も辛い場合がありますが、こちらは最善の誠意を見せるしかないと思います。借金ではないし必ず同じ方法で返す必要はないのですが、心から喜んで感謝を重ねて述べるというぐらいしかできないのなら、それをすべきかなと思います。営業マンっぽいかもしれませんが。

② 時間の価値観の差異についてはまた後日・・・。

聖剣よ、万人向けたれ。

2007-08-13 12:57:02 | 人生論・閃き
色んな伝説に、「エクスカリバー」などの「聖剣」があります。大体「選ばれし者」しか使いこなせなくて、すごく重くて、とりあえずすごい効果を発揮するものです。

これはおかしいことです。最高の剣であれば、切れ味抜群で効果絶大なのに軽くてユーザーフレンドリーで、かつ利用者が怪我しないような処置がしてあるものだと思うのです。優れた剣ほど人を選ばないはずなのでは、と思ってしまいます。きっと物語的には、剣を扱う人を「すごい!」と思わせるための引き立て役なのでしょうね。

同じように、人間として高みを目指すことはよいことだと思うのですが、それは一部の者しか接することができないような高貴な存在になることではないと思うのです。むしろ誰とでも仲良くでき、誰とでも対等に接することができる人だと思います。それなのに何でも知っててなんでもできて優しくておもしろい人、といったイメージでしょうか。

私は歌手になることがあったら、「毎週一回はランダムに選んだファンと一緒にご飯を食べるアイドル」みたいなものになりたいと思っていました。芸能人の手が届かないようなオーラがあまり好きではなかったので(実際会ってみるとそういうオーラを持った人は少ないのですが)。

5歳児とはプラモデルについて熱く語り、105歳の人とは善と禅について深く語れる人が私の憧れです。誰にとっても居心地の良い人になれたら、自分にも数え切れないほどの幸せの種類が見えることでしょう。

ただの通り道

2007-08-09 02:21:12 | 人生論・閃き
私は7歳の頃アメリカのカリフォルニア州に住んでいました。カリフォルニア州には日本のように、サーフィンも山登りもスキーも楽しめるという恵まれた環境があります(これらがすべて叶う州はかなり少ないのです)。

ということで、7歳の私も親に連れられて何度か山登りに行きました。歩くのは嫌いではなかったのですが、山登りは嫌いでした。なぜか?山道にはガラガラヘビがいるからです。

何が苦しくて毒蛇に咬まれて死んでしまうリスクを犯してまで、急斜面を汗ダクダクになって何時間も登り続けるのだろう。人間の心理の七不思議かと思うほど不思議でした。

そしてある日曜日、家族と山登りに行ったのですが、下山の途中に、山道にガラガラヘビが現れました。身体が凍り付いてしまったのは今でも覚えています。しかもこっちを向いてるような気がしました。飛び越えないと一生帰れないけど、飛び越えている最中にニュキーっと伸びてきて咬まれたら死んでしまう。究極の二択です。結局勇気を出して飛び越えたのですが、その後50メートルぐらい細い山道を全力疾走してしまいました(←こっちの方が危ない)。

その後、ガラガラヘビが現れても普通に飛び越えれるようになりました。もちろん毎回嫌な感じなのですが、凍り付いてしまうことはなくなりました。恐怖というものは一回乗り越えると、かなり緩和されるものだなーと思いました。

考えてみると、その後も色んな恐怖を味わってきました。はじめて一人で飛行機にのったとき(13歳)、はじめての告白(14歳)、はじめての寮生活(17歳)、はじめてのお酒(18歳←えらい!?)、教習所ではじめて車を運転したとき(19歳)、はじめての会社勤務(19歳)。告白は未だにドキドキしますが、それ以外は「経験」となり、「あはは、あんなことでびびってたんだなー」なんていえるようになりました。

だとしたら、今抱えている恐怖も、将来的にはただの通り道になっているわけです。重要でないわけではないのですが、恐れる必要もないということですね。どうせ乗り越えられるんだからどっしり構えればいいと思ったほうが、適度な緊張感で乗り越えられるのかもしれません。

とはいっても、やっぱり告白は緊張します。この理論が適用できるものではあるはずなのですが・・・。

恩とアダの貸借対照表

2007-08-06 12:51:11 | 人生論・閃き
誰かに褒めてもらったりけなされたり、物をもらったり奪われたりすると、その事実を覚えていると共に、その人に対して「借り」があるか「貸し」があるか、その人に恩返しをしたいか仕返しをしたいか、などという付随情報も記憶します。世界最初の法といわれる「目には目を」という法則も、心理学的に生じるふつうの感情を許容したにすぎなかったのかもしれません。

人にはなんでも許そうとする人もいれば、恩知らずもいます。しかし、強弱はともかく、人には誰でも「恩とアダの貸借対照表」というものが頭の中に働いています。知り合いについて、恩があるか恨みがあるかなどをリストアップした「貸借対照表」を作れといわれたら、きっとできるはずです。左右がバランス必要はありませんが、長期的には均衡に向かわせるための行動をとってしまうので、バランスしてしまう場合も多いと思います。

小さい恩を小さい恩で返しあっていくのが社会の望ましい形だと思います。大きすぎる恩は返しにくいので、人間関係のバランスが崩れてしまう可能性があります。

大の恩に小の恩返しをされたら逆に反感を買う場合もあります。たとえば、指輪を買ってあげた人が「御礼に」といってケーキを焼いて、一切れを持ってきてくれたとしましょう。そして、ついでだから他に人にも配ってしまったとしましょう。恩返しを求めていたわけではなくても、かえって不機嫌になってしまうかもしれませんよね。

ということで、別に恩を返してもらうべきだというわけではないのですが、「いいこと」を返しあっていく好循環が作れるのが望ましいと考えています。もちろん大きな寄付をしたり骨髄ドナーになったり溺れている子供を助けることなどはとてもよいことだと思いますが、これは人間関係上の話と考えてください。

逆に、人を傷つけたりすることは当然良くないことですし、やられたらやり返したい気持ちが生じるのは仕方がないことです。生物として、たとえばいじめの対象だったら、それは動物の世界ではすぐ殺されるということとイコールだと思いますし、自己防衛のためにそんな感情があってもおかしくありません。

少し不思議に聞こえるかもしれませんが、悪いことをされたらその分いいことをして仕返しをするという方法もあります。それが相手にとってストレスになったり、相手が行動を改めるきっかけとなる可能性もあります。立派な仕返しです。それで心の中で「勝った」「すっきりした」などと思えれば、それで自分の中の貸借対照表をバランスしつつ、マイナスをプラスに転じることができるのではないでしょうか。双方にとって良い結果がうまれる・・・多少「仕返し」の定義から外れるものかもしれませんが、それは「まあいっか」と思えるレベルのものではないでしょうか。

敵意を優しさで返せる人は相当の人ですが、このように「優しさで仕返し」と考え、「戦いに負けたが戦争に勝った」と思える人はより多くいるかもしれません。

最初はこんな形で「アダを恩で返す」ことに慣れていけば、最終的には敵意を優しさで返せる人になれるかもしれません。

美人の世界観

2007-08-02 03:48:31 | 人生論・閃き
たしか小学生の頃、弟と「どんな人が人生で特するか」という話をしたことがあります。話といっても、2分ぐらいの会話でしたが。

結論としては、「きれいな女の人が一番トク。きれいじゃない女の人が一番ソン。男はその中間。」というものでした。

小学生の会話なので、多少のことはお許しください・・・。しかし、あのときの結論はそんなに間違っていないのではないかと思うこともあります。

美人さんが必ず楽で素敵な人生を送っているわけではないのは言うまでもありませんが、チヤホヤされたりコクハクされたりというケースが多いことも事実でしょう。しかしそれ以上に、美人の世界観というものが、他人に比べて美しいものである場合があるのではないかと思います。

周りの人が優しくしてくれるから、人というものは基本的に優しい生き物だと思えるのではないでしょうか。男が尽くしてくれるから、男は誠実な生き物だと思えるのではないでしょうか。無視されないから、服が似合うから、わからないことがあっても人が手を差し伸べてくれるから、人生って基本的に素晴らしいものだと思えやすいのではないでしょうか。

その美しさが故に悲劇があることもあるでしょうし、激しく偏った見方のステレオタイプではあるのですが、統計が取れたとしたらこういう結果がでるのではないでしょうか。

美しさは中身から・・・。一理ありますが、男が小悪魔系に騙され続ける事実にもわけがないわけではないでしょう。

それはともかくとして・・・

美人の世界観を得られるのは、美人だけではないと思います。美人の要素はマネができなかったとしても、美人の世界観という内部要因に繋がった外部要因を作り上げることができれば、自ずと自分の世界観も美人のそれに類似するものとなるでしょう。

その要素が人からの愛や優しさ、チヤホヤやコクハクなどとしたら、それは美人でなくても得られる外部環境です。明るい職場、家族や友達、部活やサークル。オープンな心で何かに参加してみればいいだけのことです。できる人、優しい人、面倒見がいい人、努力する人・・・それぞれ一定の場では「美人扱い」されているといえるし、よって美人の気分を味わえます。逆に美人だってつねに美人扱いされるわけではありません。

このような環境を作ってハッピーになるのが重要ではなく、美人以外の人が美人扱いされる経験を基に明るくなったり、美人に嫉妬を感じなくなったり、美人も楽ではないなどとわかればいいのだと思います。美人であれば美人扱いされない経験も同様に重要ですが、これは別に努力しなくても味わっているものだと思います。それで、美人と非美人(?)という分類が消えるわけです。

そうすれば、「きれいな女の人が一番トク。きれいじゃない女の人が一番ソン。男はその中間。」という仮説も消え去ります。小学生さえ常識と考えてしまうこの概念を、少しでも薄めることができればいいなと思います。美人だって、他人に「美人だからトクしたんだろう」と思われたくないでしょうしね。