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明日はクリスマス-悪人は誰なのか

比較的穏やかな日和の続く今年の12月、明日はクリスマス、この1年もいよいよ終りを迎え、新しい年へ向かおうとしています。


本ブログでは、123便事件を中心に世の中の不可解な出来事についてその真相を求めようとしています。そのための調査や意見交換の中で、時々次のような質問を受けることがあります。

 結局、誰が一番悪いやつなんですか?

正直なところ、これが一番困る質問なのです。それがよく分からないから、10年近くも調査を続け拙文を書き続けているのです。逆質問になりますが、このような質問をされる方は、それを知って何をされたいのでしょうか?その悪いやつを罵倒し、嘲笑いたいのでしょうか?もしもそうならば、それって、小さな過ちを犯した芸能人を寄って集って暴言で袋叩きにする、あの醜い行為と同じなのではないでしょうか?

かく言う私も、123便事件の調査を始めたころは、同じ怒りを持ち、その怒りがまた調査を続ける原動力になっていたことはあります。しかし、事の真相が分かれば分かるほど、誰が一番悪いのかなんて分からなくなってきたのです。いわゆる法的責任の所在という観点を除外すれば、誰が悪いのか?という質問に対し、私はこう答えるしかありません。

 私を含む、あなたたち全員です

と。

その理由を示す最新の記事が以下の3点です

 1) 新嘗祭イヴの呪い ・・・ (真)日本の黒い霧
 2) 123便事件と芸能界の闇(2) - 岡田有希子と「卒業」
 3) 123便事件と芸能界の闇(1) - 岡田有希子と123便

これらの記事の中では、言語の効力を用いた高度な大衆心理操作-私はそれを「呪詛(じゅそ)」と呼んでいますが-を扱っています。世の中を動かすには、一つの偉大な発見・発明・行為だけではなく、それを受け入れる社会の心理形成を整えなければなりません。例えば、複数の同一機能の商品の中からどれか一つを選ぶとき、テレビのコマーシャルで見慣れているものをつい選んでしまうことは多いと思います。

賢い消費者ならば、その成分や、口コミなどを参考にして厳選するかもしれませんが、多くの消費者はそうではありません。そして、宣伝効果の高い商品だけが生き残り、最も優良な商品が市場から消えてしまうことはよく聞く話ではあります。

呪詛もそれと同じです。社会を変える何か大きなイベントを実行するに当たり、まず時間をかけて、それを受け入れる下地を大衆の心理世界に醸成しようとします。そして、その歪んで成長した大衆心理(集合意識)を一気に動かし現実化するために、トリガーを打つのです。それが世に言う、大事件・大事故だったりするのです。

不思議なもので、醸成された心理世界は現実までをもその方向に動かそうとします。これはもう現代科学の体系内で説明できることではありません。経験則でのみ測れる事象です。過去から連綿と続く真の為政者たちはその辺の因果関係をよく理解しており、その為のエキスパート、陰陽師・修験道者・密教僧・祈祷師などを育成し、ノウハウを貯め体系立て、社会の改変に利用してきたのです。

江戸時代末期、薩摩藩の「お由羅騒動」は島津斉彬の廃嫡を目指して、お由羅の方が呪詛を掛けたことが嫌疑として上がっています。この時まで呪詛は社会を変える実行力であると認められていたことを示す史実です。他にも、天皇やその嫡子に呪詛を掛けたという故事は枚挙に暇がありません。これを迷信であると一笑に付すのは簡単ですが、そんな迷信を何の成果もなく千年以上も続けるものでしょうか?明治の文明開化期に入り、呪詛は非科学的であると排除されましたが、実はこのときに、これらの心理操作技術は一部の権力者たちの独占物になってしまったのです。

これは、本当に、最近になって分かってきたことですが、123便事件については、戦後直後からその為の準備がなされてきた痕跡が見られます。私が「123便撃墜計画」と呼ぶものです。そして、この事件の本質を最もよく表す名を付けるなら、それは

 昭和天皇呪殺計画

でありましょう。

こう書くとまた、その計画者の主犯は誰だ!、そいつが一番悪いのか!という話になってしまうのですが、ここでよく考えて欲しいのは、

 計画の踏み台になったのはあなた自身

だということです。知らず知らずとは言え、そのとき流行の歌謡曲やアニメ、映画に熱狂しながら皆さんはこの計画に加担していたのです。詐欺と言えば詐欺ですが、賢く立ち回れば詐欺には引っ掛かりません。皆さんもよく「騙された方も悪い」と言ってませんか?

犯人探しをする前に何が起きたのかを正確に知る、全ての判断はそれからです。


 * * *


明日はクリスマス、その日を迎えるに相応しく、聖書からの一節をお届けします。

AUDISTIS QUIA DICTUM EST ANTIQUIS: NON OCCIDES: QUI AUTEM OCCIDERIT, REUS ERIT IUDICIO.EGO AUTEM DICO VOBIS: QUIA OMNIS QUI IRASCITUR FRATRI SUO, REUS ERIT IUDICIO. QUI AUTEM DIXERIT FRATRI SUO, RACA: REUS ERIT CONCILIO. QUI AUTEM DIXERIT, FATUE: REUS ERIT GEHENNÆ IGNIS.SI ERGO OFFERS MUNUS TUUM AD ALTARE, ET IBI RECORDATUS FUERIS QUIA FRATER TUUS HABET ALIQUID ADVERSUM TE:RELINQUE IBI MUNUS TUUM ANTE ALTARE, ET VADE PRIUS RECONCILIARI FRATRI TUO: ET TUNC VENIENS OFFERES MUNUS TUUM.ESTO CONSENTIENS ADVERSARIO TUO CITO DUM ES IN VIA CUM EO: NE FORTE TRADAT TE ADVERSARIUS IUDICI, ET IUDEX TRADAT TE MINISTRO: ET IN CARCEREM MITTARIS.

あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
(新共同訳聖書 マタイによる福音書 第5章21-25節)


キリストの御国にて記す
管理人 日月土
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