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2011年晩秋 日本一時帰国レポート

先月(11月)下旬から今月の初めまで、所要のため日本に帰国しました。

内部被曝を極力低減するため、今回は、東日本へは一切立ち寄らず、食事もフィリピンから持参の物を中心に、西日本山系の飲料水と、地元の農産物と確認できるものを時折買い求めて空腹を凌ぎました。とは言っても、付き合い上の外食は全部断りきれないので、「大丈夫かなぁ」と思いつつ、出された肉・魚に箸を伸ばすこともありました。

メニューに気をつけていたこともあり、とりあえず、九州・四国で食べたものでは、ほとんどダメージを感じませんでした。私の場合、ある程度放射能汚染されたものを食べると、頭部の特定箇所に痛みを覚えるので、それが汚染センサーの代わりになっています。むしろ、食事よりも、移動で使った新幹線車内の汚染度合いがひどかった。頭痛と鼻のつまり、喉の痛みが降車後数10分近く続きました。一方、ローカルの一般特急の場合にはそのような体調の変化は起こりません。

今回の帰国では、日本西部がどれくらい放射能汚染されているか気がかりだったのですが、空気・食品に関しては九州・四国はまだ何とかなるとの感触を掴みました。ただし、汚染瓦礫の地方での焼却や、汚染食材・物資の流通が進むとそれもどうなるか分かりません。何よりも、福島からの放射能漏洩がいつ収束するか全く目処がたたないのが、最大の気がかりです。


■久々に神社へ参拝

所要の合間を縫って、フィリピン戦慰霊の報告のため、大分の宇佐八幡を参拝しました。宇佐はかつて旧海軍航空隊の基地があった土地で、神風特攻隊やレイテ海戦とも縁が深いと聞き及んでいます。現在の酷く穢された日本を英霊の皆様がどう思われるか、内心忸怩たるものがありましたが、それでも祖国であることには変わりありません。どうか、この地で我々を最後まで見守っていただけますようにと、神前でお願い申し上げました。


写真1:宇佐八幡(奥宮)


なお、入国当初から再び監視行動を受けることになりましたが、この辺のことはいくら書いても頭のおかしい人の誇大妄想にしか聞こえないと思いますので、そういう事実があったとだけ記します。1985年に起きた日航機事件は、国体の本質を揺るがす大事件でありますが、今現在、福島放射能汚染の現実を鑑みるにつけ、もうこの国の国体が事実上崩壊していることは、私のブログを読んでくださる皆様ならとっくに認識されていることでしょう。

この非常時に日航機事件を蒸し返すことの意義については、日々考えさせられるものがあります。帰国中、私の頭上に超低空で出現する自衛隊ヘリを見ながら私はこう思いました。

「あなたたち、そんなことをしている場合か?」

私が日航機事件の真実のほぼ全貌を掴み、その証拠を握っているのは間違いないのですが、それをこのブログで公開したところで、また阻止されたところで、今日本で始まりつつある悲劇に比べればもはや取るに足らない問題のような気もします。

私が、それでも日航機事件を書き続ける理由はただ一つです。罪なき犠牲者、同胞達を事故という形でこの世から葬り去ろうとした。それを全て為政者のせいにするのは簡単ですが、その為政者を許したのは結局私たちです。同じ日本人としてその贖罪を果たすことは一生の義務だと思うからです。福島の悲劇の原型が日航機事件の中に全て見出せます。


* * *

フィリピン帰国直後、被曝処置を施しました。被曝量が少なかったせいか、好転反応も穏やかでした。同国産の白米と天然フルーツを頬張りながら、安心して食事ができる喜びと恵みを、神とフィリピン国民の皆様に感謝しました。


NAM ET QUI CERTAT IN AGONE NON CORONATUR NISI LEGITIME CERTAVERIT
LABORANTEM AGRICOLAM OPORTET PRIMUM DE FRUCTIBUS ACCIPERE
INTELLEGE QUAE DICO DABIT ENIM TIBI DOMINUS IN OMNIBUS INTELLECTUM
また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。
労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです。
わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。
(テモテへの手紙2 第2章5-7節)


南の島フィリピンより
管理者 日月土
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