そもそも、朝倉文夫を知ったのは数年前で、
たまたま家族でお墓参りの帰りに立ち寄った浅草寺の裏で
何気なく見つけた彫塑のひとかたまりがとても印象深く残って、
これは?と探索したことから。
その「雲」と名のついた塑像は、
朝倉文夫の作で、
一塊の人の群れと雲がひとつになったような、
異様な鬼気迫る、不思議なものだった。
浅草寺の裏の広場の植え込みの中に、
突然現れるただごとではない雰囲気。
何があったのか、人々の視線の先が知りたくなる。
それで、日暮里駅近くの朝倉彫塑間の存在を知った。
そこは門構えからして一般の住居とは違う、こだわりがすでに
満ちていて、屋根の上からは誰かが見下ろしているのだ。
門をくぐるとその「雲」があった。
型があるから何作か同じものが生まれても当然なのだが、
まさかそこで「雲」と出会うとはびっくりだった。
懐かしい親戚のお家にお邪魔するような、そんな雰囲気。
上野にある大観のお家とはまた別世界。
アトリエから覗く住居空間も趣味の良さが溢れているし、
書斎におかれた文房具や、ちょっとした壺なども
愛らしく、頂きたい、連れて帰りたい衝動にかられた。
所々置かれる塑像とともに建築としても
実に作り手の愛情がこもった佇まいだった。
その朝倉彫塑館が工事中、というので、その機会の展覧会だ。
会場には一同に作品群が林立し、場内を重量感あるブロンズ色に染める。
こんなに作品があったのか・・・
1883年、明治16年に大分の渡辺家に生まれるが、
後に朝倉家に養子に出る。
1902年に上京し実兄の彫塑家渡辺長男(おさお)
のところで彫塑と出会う。
その後、東京美術学校に入学、直後からメキメキと実力を発揮する。
日本における彫塑を開拓。
1907年卒業し、谷中に住居兼アトリエを構え、
のちの朝倉彫塑塾とする。
文展に次々受賞し、
1916年文展審査員になる。
1921年 東京美術学校教授就任
1924年帝国美術院会員
1936年朝倉彫塑館塾 専門学校として認可。
1948年文化勲章授与
1964年急性骨髄性白血病で死去 81歳。
チラシを参考にした年譜だが、
順調かつ満帆な人生のようだ。
絵画と同様に西洋と日本との芸術の融合にさまざまな苦心があっただろう。
しかし、作品にはその悩みが現れず、伸びやか、
かつ清々しいまでの佇まい。
作品の生まれた年代順に、整理され展示されている。
実に気合の入った作品群。
「墓守」はもう、老年の紳士がこの仕事に捧げている
精神とあきらめと、誇りと、存在が怖いように降りていた。
裸体も男女ともにエロティックではない、健康的な
堂々としたものだった。
展示にあたり時代がまだ裸体に無理解だった頃、
色々とご苦労されたようだった。
かの黒田清輝の作品でも裸体問題があった。
時代の仕業は時としてこういう事態をもたらしてきた。
ブロンズ人物胸像も迫力あふれる。
九代目団十郎や、
双葉山関、大隈重信、柳楢悦などその人が多分そんな人だったろうと
実存が見事に現れている。
大型犬スターもすっくり立っていた。
奥の部屋は猫尽くし。
猫百態はもう、国芳に見せてあげたい。
どんなに猫を愛しているか、その形にどれだけ
執心したかが単純に見て取れる。
あぁ~ニャンたちの可愛さったら。
どれがお気に入りか、コンテストしても楽しいだろう。
珍しく油絵も数点。
作品はどれもコレも素晴らしく、
ロダンの像からは味わえない、精神の塊までが
表現されているようで、朝倉文夫のすごさがこれでもかと
言わせるような凄みのある展覧だった。
後もう残り僅か、6月6日まで、芸大美3階で。
仏像にはない実存の塊のすごさ、を感じた。
たまたま家族でお墓参りの帰りに立ち寄った浅草寺の裏で
何気なく見つけた彫塑のひとかたまりがとても印象深く残って、
これは?と探索したことから。
その「雲」と名のついた塑像は、
朝倉文夫の作で、
一塊の人の群れと雲がひとつになったような、
異様な鬼気迫る、不思議なものだった。
浅草寺の裏の広場の植え込みの中に、
突然現れるただごとではない雰囲気。
何があったのか、人々の視線の先が知りたくなる。
それで、日暮里駅近くの朝倉彫塑間の存在を知った。
そこは門構えからして一般の住居とは違う、こだわりがすでに
満ちていて、屋根の上からは誰かが見下ろしているのだ。
門をくぐるとその「雲」があった。
型があるから何作か同じものが生まれても当然なのだが、
まさかそこで「雲」と出会うとはびっくりだった。
懐かしい親戚のお家にお邪魔するような、そんな雰囲気。
上野にある大観のお家とはまた別世界。
アトリエから覗く住居空間も趣味の良さが溢れているし、
書斎におかれた文房具や、ちょっとした壺なども
愛らしく、頂きたい、連れて帰りたい衝動にかられた。
所々置かれる塑像とともに建築としても
実に作り手の愛情がこもった佇まいだった。
その朝倉彫塑館が工事中、というので、その機会の展覧会だ。
会場には一同に作品群が林立し、場内を重量感あるブロンズ色に染める。
こんなに作品があったのか・・・
1883年、明治16年に大分の渡辺家に生まれるが、
後に朝倉家に養子に出る。
1902年に上京し実兄の彫塑家渡辺長男(おさお)
のところで彫塑と出会う。
その後、東京美術学校に入学、直後からメキメキと実力を発揮する。
日本における彫塑を開拓。
1907年卒業し、谷中に住居兼アトリエを構え、
のちの朝倉彫塑塾とする。
文展に次々受賞し、
1916年文展審査員になる。
1921年 東京美術学校教授就任
1924年帝国美術院会員
1936年朝倉彫塑館塾 専門学校として認可。
1948年文化勲章授与
1964年急性骨髄性白血病で死去 81歳。
チラシを参考にした年譜だが、
順調かつ満帆な人生のようだ。
絵画と同様に西洋と日本との芸術の融合にさまざまな苦心があっただろう。
しかし、作品にはその悩みが現れず、伸びやか、
かつ清々しいまでの佇まい。
作品の生まれた年代順に、整理され展示されている。
実に気合の入った作品群。
「墓守」はもう、老年の紳士がこの仕事に捧げている
精神とあきらめと、誇りと、存在が怖いように降りていた。
裸体も男女ともにエロティックではない、健康的な
堂々としたものだった。
展示にあたり時代がまだ裸体に無理解だった頃、
色々とご苦労されたようだった。
かの黒田清輝の作品でも裸体問題があった。
時代の仕業は時としてこういう事態をもたらしてきた。
ブロンズ人物胸像も迫力あふれる。
九代目団十郎や、
双葉山関、大隈重信、柳楢悦などその人が多分そんな人だったろうと
実存が見事に現れている。
大型犬スターもすっくり立っていた。
奥の部屋は猫尽くし。
猫百態はもう、国芳に見せてあげたい。
どんなに猫を愛しているか、その形にどれだけ
執心したかが単純に見て取れる。
あぁ~ニャンたちの可愛さったら。
どれがお気に入りか、コンテストしても楽しいだろう。
珍しく油絵も数点。
作品はどれもコレも素晴らしく、
ロダンの像からは味わえない、精神の塊までが
表現されているようで、朝倉文夫のすごさがこれでもかと
言わせるような凄みのある展覧だった。
後もう残り僅か、6月6日まで、芸大美3階で。
仏像にはない実存の塊のすごさ、を感じた。
なかなか渋い地味な展覧ですけど、
芸大ならではの企画展でしたね。
猫好きと知ってましたが、
あんなに沢山制作しているとは。
子猫のカタマリがめちゃくちゃ可愛かったです。
あの建物とセットで見ることが今から楽しみです!
先週行って来ました。
改修工事前に行った朝倉文夫彫塑館で観た
彫刻たちと出会えて楽しかったです。
奥の猫コーナー。
いろんな猫ポーズもまとめて拝見すると、楽しさ倍増でした。