はじめに
そもそもグレゴリイス・マノス氏とは?
この人は1850年に軍人のギリシャ人の家庭に生まれ、
26才で外交官となる。
ウィーン、イスタンブール、ベルリン、
に着任し、オーストリアのギリシャ大使を10年勤めた。
世紀末の未曾有の工業発展の時代。
パリ万国博できっと東洋の文化を目の当たりにしたことだろう。
既に集まったコレクションにいよいよ磨きがかかった。
家庭を持たずに、ひたすら東アジアの美術工芸品収集に
情熱を注いだ。
最初の6年あまりで400点。
その後、1918年までに総数4900点までに上る。
そこで注目は、
日本人美術商「林忠正」
1890年に既にビクトワール通りに大きな店を構えた。
彼の手を通って、
名だたる日本美術コレクターの手に渡った品々は
どのくらいになるのだろう?
浮世絵が裕福な西洋人を餓死させる、という噂が立ったほど。
1891年から1902年にかけて
林は156、487枚もの浮世絵を運んだ。
彼の妻は2~3円で買っていた歌麿や写楽が
1,200円で売れたことに驚愕した。
光琳の肉筆画の値段を遙かに超える値段だった。
そこまで跳ね上がった浮世絵人気は
林が引退して終焉を向かえることとなる。
展示されている浮世絵に丸い林忠の印を見ることができる。
情熱を注いで収集したコレクションの行方は、
フランスのギメに狙われた時期もあったようだが、
結局はギリシャに寄付し、美術館を提供してもらう
事となった。
聖マイケル・聖ジョージ宮殿である。
1年後、
1928年国立コルフ中国・日本美術館の開館。
その一ヶ月前に不運ながら、マノス自身は78才で
この世を去る。
マノスの死から80年を経た今、
ようやく夢から覚めて、
彼の日本実術への愛情と審美眼の結晶が海を渡り
日本で公開される機会を得た、ということだ。
まさに彼の情熱の炎が消えずに
燃え続けていたということではないだろうか。
それを発見できた調査団の感激もまた熱い。
(参考 図録、コルフ・アジア美術館館長)
小林忠氏の一文も興味深い。
一行の調査にどんどん熱を帯びてくることが
ひたひた伝わってくる。
日本に写楽の肉筆画扇面図があるそうだ。
三重県津市の石水博物館にある「老人図」
川喜多半泥子の所蔵だったものだそうだ。
その来歴も興味深い。
羽織の老人と、その横に立つ子どもの裸人形の図。
写楽は浮世絵から離れても、
絵筆を持っていたということか。
もしかしたら、まだ隠れている写楽の扇面図が
また出現するかもしれない、
という期待は否応なしにドキドキしてくる。
マノス・コレクションは浮世絵ばかりではなく
500点にも及ぶ陶磁器があって、
2000年に荒川正明氏らによって調査されているそうだ。
縄文から、須恵器、柿右衛門、古九谷、鍋島、
乾山、仁清などなど。
今回は浮世絵中心の展示となったが、
将来は中国日本の陶磁器、漆器を日本で紹介し、
マノス氏の情熱を伝えたい、と調査団の一員、
東大大学院客員教授のニコル氏が熱い思いを載せていた。
大変長くなったが、
展覧会への思いを知ると、
ますます作品の有り様がドラマチックに思えてくるものだ。
日曜日はこの図録をじっくり読んで過ごした。
図録を隅々読む、これは珍しいことです。
大パノラマ、つづりものの浮世絵が圧巻です。
では、つづきはつづく。
そもそもグレゴリイス・マノス氏とは?
この人は1850年に軍人のギリシャ人の家庭に生まれ、
26才で外交官となる。
ウィーン、イスタンブール、ベルリン、
に着任し、オーストリアのギリシャ大使を10年勤めた。
世紀末の未曾有の工業発展の時代。
パリ万国博できっと東洋の文化を目の当たりにしたことだろう。
既に集まったコレクションにいよいよ磨きがかかった。
家庭を持たずに、ひたすら東アジアの美術工芸品収集に
情熱を注いだ。
最初の6年あまりで400点。
その後、1918年までに総数4900点までに上る。
そこで注目は、
日本人美術商「林忠正」
1890年に既にビクトワール通りに大きな店を構えた。
彼の手を通って、
名だたる日本美術コレクターの手に渡った品々は
どのくらいになるのだろう?
浮世絵が裕福な西洋人を餓死させる、という噂が立ったほど。
1891年から1902年にかけて
林は156、487枚もの浮世絵を運んだ。
彼の妻は2~3円で買っていた歌麿や写楽が
1,200円で売れたことに驚愕した。
光琳の肉筆画の値段を遙かに超える値段だった。
そこまで跳ね上がった浮世絵人気は
林が引退して終焉を向かえることとなる。
展示されている浮世絵に丸い林忠の印を見ることができる。
情熱を注いで収集したコレクションの行方は、
フランスのギメに狙われた時期もあったようだが、
結局はギリシャに寄付し、美術館を提供してもらう
事となった。
聖マイケル・聖ジョージ宮殿である。
1年後、
1928年国立コルフ中国・日本美術館の開館。
その一ヶ月前に不運ながら、マノス自身は78才で
この世を去る。
マノスの死から80年を経た今、
ようやく夢から覚めて、
彼の日本実術への愛情と審美眼の結晶が海を渡り
日本で公開される機会を得た、ということだ。
まさに彼の情熱の炎が消えずに
燃え続けていたということではないだろうか。
それを発見できた調査団の感激もまた熱い。
(参考 図録、コルフ・アジア美術館館長)
小林忠氏の一文も興味深い。
一行の調査にどんどん熱を帯びてくることが
ひたひた伝わってくる。
日本に写楽の肉筆画扇面図があるそうだ。
三重県津市の石水博物館にある「老人図」
川喜多半泥子の所蔵だったものだそうだ。
その来歴も興味深い。
羽織の老人と、その横に立つ子どもの裸人形の図。
写楽は浮世絵から離れても、
絵筆を持っていたということか。
もしかしたら、まだ隠れている写楽の扇面図が
また出現するかもしれない、
という期待は否応なしにドキドキしてくる。
マノス・コレクションは浮世絵ばかりではなく
500点にも及ぶ陶磁器があって、
2000年に荒川正明氏らによって調査されているそうだ。
縄文から、須恵器、柿右衛門、古九谷、鍋島、
乾山、仁清などなど。
今回は浮世絵中心の展示となったが、
将来は中国日本の陶磁器、漆器を日本で紹介し、
マノス氏の情熱を伝えたい、と調査団の一員、
東大大学院客員教授のニコル氏が熱い思いを載せていた。
大変長くなったが、
展覧会への思いを知ると、
ますます作品の有り様がドラマチックに思えてくるものだ。
日曜日はこの図録をじっくり読んで過ごした。
図録を隅々読む、これは珍しいことです。
大パノラマ、つづりものの浮世絵が圧巻です。
では、つづきはつづく。
津市の石水博物館の名は一度も聞いたことが
ありません。
先日の日本美術館名品展で三重県立美術館に
行ってない自分を恥じたので、今度津市に
でかけようと思っています。
ついでに、石水博物館も寄れたら寄ってみます。
津市も広いですからね。
時々、歴史はまだ息づいている、と思う瞬間がありますね。
知られていないことが眠ったままで、
巡り会った人にしか与えられない至福があって。
謎の人物写楽らしい話しです。
津市に訪ねることがあったら、ぜひ現地のお話聞かせて下さい。お待ちします~
いやあ、ギリシアの地にアジア美術館があることにまず
びっくり、それも佐川近信とか今回の調査ではじめて確認された人もいるのですね。
いや、すごいなあマノスというお方。
僕も図録を熱心に読みましたよ。
ギリシアと言ったら僕には哲学発祥の地ですが、イメージ変わりましたね。しかし江戸東京すごい、次回は
大正新版画で、その次は生け花でしたっけ?あべまつさん
目が離せませんね!
この展覧会は、背後のストーリーがドラマチックですね。
私は展示作品自体はミネアポリス、ボストン、ベルギーなどからやってきた絵の方が色鮮やかですばらしいと感じたのですが、こちらのストーリーには心ひかれます。
図録、しっかり読んでみます。
写楽展お楽しみになったようですね。
今展覧の図録はなかなか面白かったです。
つづりものシリーズ、圧巻でした。
他にも見応えたっぷり。大満足でした。
続々楽しい企画が続いているので、
江戸博通い頑張ります!
土曜日はお目にかかれず残念でした。
それにしても日本の名作があちこち外国で大切にされているのって、嬉しいような、
有り難いような、複雑な心境となります。
サントリーにもうすぐシアトルがやってきますね。
あの時代の裏話、盛り上がります!
お忙しい中お越し頂きありがとうございました。
マノスさん最後はちょっと寂しい人生だったようですね。
それでも時を経て日本でこうして称賛を浴びる日が来たのです。
けだいの目利きだったこと間違いなしです。
こちらこそ、貴重なお話を伺うことができ、
感謝申し上げます。
素晴らしい作品達もやっと日の目に当たれ、
晴れ晴れ感じていることでしょうね。
高い審美眼をお持ちだったと思います。