あべまつ行脚

ひたすら美しいものに導かれ、心写りを仕舞う玉手箱

古九谷の再興 徳田八十吉

2006-10-08 22:46:54 | 日本美術
あの緑、黄色、そして、絵の大胆さ、描き込みの激しさを、どうも日本のものかと思えるほど、遠いものと感じている。それは、薩摩焼の豪華絢爛ともまた違うのだが、どこか、無理があると思ってしまうのだ。

しかし、今日の放送を見る限りでは、短命だった、江戸時代に消えた、(江戸時代以前を古九谷というのだそうだ)古九谷を復興させようとした陶工がいたのだ。
その人が、初代徳田八十吉。
現在は、3代目が嗣いでいる。

人間国宝一号をライバル富本憲吉に渡ってしまい、さぞ残念であったろうとは思うが、
八十吉の仕事は、金沢に生まれた悲運の九谷の存在を明るいところへ取り出してくれた、重要な仕事をした。

手元にある、金沢出身の金工師高橋介州氏の「日本の工芸」によると、
九谷のあの装飾の華美さに、料亭では、料理がもれない皿だと使ってくれなかったそうだ。さてもあり、とは思ったが、
初代八十吉は、とても余白を優雅にして、使うものも生かすし、飾っていてもそれだけで美術品。バランスのとれた作品を残しているのだ。

どうも、中国からの陶器の技術と関係があるらしいし、徳川時代、工芸に力を入れた頃、短命の悲運を惜しんで、伊万里に技術を学びに行ったり、青木木米も力を注いだときがあったらしい。
その頃の作をこつこつ復元し、釉薬の配分などの研究を一人黙々と続けてきた八十吉。命に掛けてその配分を暗号化して、ノートに書き残した。
初代が亡くなり、かわいがられたお孫さんが(3代)仏前に手を合わせていると、
暗号がハタとわかった。お仏壇に掛かっている仏様の経文にヒントがあることに気がついたのだった。

現在は、その3代目がノートの暗号を解明し、九谷の陶工の意地を生かして、存続に力を注いでいるのだそうだ。

ものすごい話だと思った。

職人の魂というものは、しっかりと生き続けているのだと思い知ったのだ。

しかし、先ほどの「日本の工芸」にもあったけれど、時代に即して日本の文化に馴染んで、生かしていく道のりは、なかなか簡単ではない。

そうして、生まれては消え、また、生まれては消える、ものつくりの道。
それが巧みの力となって、日本文化を支えてくれていることもけっして忘れたくない。(でも、やっぱり、九谷は肌に馴染まないのだけれど

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2 コメント

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Unknown (一村雨)
2006-10-09 07:28:05
おはようございます。

あの番組で、印象に残ったのは、

2代目(息子さん)が富本憲吉に弟子入りしていたこと。

だから、3代目に、父にも教えるなよと言い残して

伝授したのだろうかなぁと思いました。



昨日の久住守景の話。新日曜美術館を見ていたので

印象に残っていたのです。この放送でも久住守景が

ちょこっと登場していましたね。
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一村雨さま (あべまつ)
2006-10-10 15:58:51
本当に、知らないことがいっぱいです。

目に見えている表からは、知られざる裏話がとっても生々しく、興味深いものですね。



今週で、芸大の展覧会が終わってしまいますが、あぁ、行けるでしょうか・・・

金曜日、頑張ってみます。
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