あべまつ行脚

ひたすら美しいものに導かれ、心写りを仕舞う玉手箱

「いまなぜ青山二郎なのか」 白洲正子 著

2006-10-20 21:21:00 | 
青山二郎という人がどんな人だったのか、
この本を読んだら、大体の予想は付きそうだけれど、
それでも、とんでもない人だったようだ。

そのそばで始終を見ていた人が白洲さんだった。

まるで女性という空気を感じない男友達の文章だった。
だからこそ書けたのだとも思う。

自分の目に正直に生きるってことのしんどさ、理解不能な孤独、
これでもかこれでもかと疑問詞との戦いだ。
まるで、禅僧のよう。

禅僧ならば、師匠がいる。道もある。
従っていれば、いつかは道が開けるかもしれないという、
叶わぬことでも道筋がある。
仏の道。

自分の目の探求は、美の探求でもあって、
誰が好んでそんなことをする必要があるのか。
やらなければならない宿命を背負った人々の辛酸のお話。

辛酸をなめて、極楽があったのだろうか?
ありはしない、その道、道程が美しかったのだろう。

一生、定職に就かず、仕事を持たず、趣味人で生ききった青山二郎。
こんな人がいたこと、
その近くに白州さんがいたこと。
その門弟に様々な匠が集まっていたこと。

白洲さんは、その本の中で、赤瀬川氏の利休は面白いと勧めていた。
よかった、私もあの本は最高に面白かったから。

数々のエピソードに眼がくらむ。

どろどろの中にピカッと光る獲物を見つけたような狩人の眼。
どんなに理解不能な人生であったとしても、
自分の眼を偽らないで、ガッツリ生きた剣幕だけが残されたようだ。

あぁ、凡人でいることの幸せ。

非凡であることの不幸。

努々骨董に身を任せるような境遇でなかったことを感謝する。

光悦、のような人だったのだろうか?
利休に秀吉がいたように、青山二郎に為政者が付いていたとしたら、
やっぱり、首が飛ぶようなことになっただろうな、と思った。
あぁ、絶対誰かに与するってことは選ばないにしても。
為政者の方が理解不能になって、ジェラシー全開で、首をはねただろう。
嫉妬の力を侮ってはいけない。

光悦、のように、理想郷を作ってしまうこともしないだろうけれど、
自由度からいったら、光悦が近いのかもしれない。

小林秀雄も大変な友人と出会ってしまったものだ。

そんなことを息使いまで伝えてくれた、白洲さんの力にまたしても
やられてしまったのだった。

そして、圧巻は、「両性具有の美」なのだ。これはまた後日。

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2 コメント

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直観 (雪月花)
2006-10-23 13:34:40
こんにちは。あべまつさんの読後感、ゆっくり読ませていただきました。凡人であることの幸福をわたしも実感せずにはいられません(笑 「直観」について、別の角度から書かれた記事を見つけましたので添付します。ご興味がありましたらアクセスしてみてください。ただ、この記事の内容は「直観」というより「直感」についての記述と思うのだけれど‥



 「何かがおかしいと囁く『直観』とは何か」

 http://blog.mag2.com/m/log/0000130195/107838213.html



最近、井上靖の『本覚坊遺文』を読みました。利休、宗二、織部の茶とは何だったのか‥、すこし分かったような気がします。
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雪月花さま (あべまつ)
2006-10-24 12:35:13
今日は大変な荒れ模様のお空ですね。

またまた、興味深いお話をありがとうございます。

こないだ、友人から、どっさり白洲正子本が届いてしまって、追っかけ中です。

白洲さんは、骨董の目利きラインから入ったので、著書のものすごい深さに唖然としています。もっともっと若いうちから、日本を勉強するべきでした。反省はまた、諦めにも近く・・・・(笑)

井上靖は、日本の奥深いところをしっかりとらえてきた人なのだと感じています。いづれ、そのお話ができるよう、読んでみますね。

私は、織部の前衛も大好き。小堀遠州の粋っぷりもぐっときます。

利休と長次郎は、神様系。宗二を思うと、切なく。純粋さがそうさせるのかもしれませんけれど。茶人達への興味は尽きませんね。
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