表向きは、あの流麗な如意輪観音、菩薩半跏像と、
絶世の美を誇る渡岸寺の十一面観音が、今回の展覧会の目玉、に違いないけれど、本当は、木が持つ精霊に人々が寄せた信仰のことだったのではなかったかと思っている。
確かに、如意輪観音と、十一面観音は、美を追求する人々の格好の素材ともなったし、文句の施しようががないほど、圧倒的に美しい。
昔、湖北の渡岸寺を訪ねて、十一面観音を拝見したときは、もっと、お側で見られたし、身近に見ることができたし、佇まいもその土地に根付いているように思えた。
信長の難から逃れるために、必死で守り通した土地の人々の力は、敬虔な信者の強さなのだろうか。
数々の災難を潜り抜けて、ここにおわします奇跡。
それがまた美しいと思う気持ちにつながっていく。
他の十一面観音にはない化仏の大きさ、表情のリアルさ、後頭部からのぞく大笑いの不気味な冷笑。
十数年前の私の目には、このお顔が驚きで、悩ましい全体の姿と、マッチしていないようで、不自然さが残っていたのだった。
あんなに美しいお顔の裏にこれはないだろうと思った。
薄くなっていた記憶が目覚めた。
そして、今、白洲正子の「両性具有の美」を思い出し、
このお像の両性具有を感じる。
性の力から、解き放たれてこそ、仏に近づけるというのか?
生々しい男、女では、欲があふれている。
それから離れていってこそ、真の人間、いずれは仏になれるのだろうか?
そんなことを感じた。
こうして書き始めると、止め処もなく長くなるので、
鉈彫りや、円空、木喰などは、また改めて書くことにしようと思います。
十一面観音のすばらしいものが、本館にも展示されていた。
一階の奥に、薬師寺からの十一面観音が、やはり腰をくねらせ、
涼しげに立っておられた。
十一面観音は、女性的な柔らかな表情、体つきのなよやかさ、
天衣の流麗さ、などが特徴で、誰しもが親しく思う美しさがある。
それとはまったく異質の表面に鉈目がついたままの仏達。
その素朴さ、木の表面の美しさ、都には残されていない。
東方面のものらしい。これはいったいどうしたものなのだろう??
次回書くことにしたい。
この展覧会に向けて、4年余りの時間をかけたそうだ。
博物館の企画にもおおいに感謝したい気持ちになった。
柳宗悦流にいうならば、木の仏様の民芸、に驚かされた展覧会だったのだ。
絶世の美を誇る渡岸寺の十一面観音が、今回の展覧会の目玉、に違いないけれど、本当は、木が持つ精霊に人々が寄せた信仰のことだったのではなかったかと思っている。
確かに、如意輪観音と、十一面観音は、美を追求する人々の格好の素材ともなったし、文句の施しようががないほど、圧倒的に美しい。
昔、湖北の渡岸寺を訪ねて、十一面観音を拝見したときは、もっと、お側で見られたし、身近に見ることができたし、佇まいもその土地に根付いているように思えた。
信長の難から逃れるために、必死で守り通した土地の人々の力は、敬虔な信者の強さなのだろうか。
数々の災難を潜り抜けて、ここにおわします奇跡。
それがまた美しいと思う気持ちにつながっていく。
他の十一面観音にはない化仏の大きさ、表情のリアルさ、後頭部からのぞく大笑いの不気味な冷笑。
十数年前の私の目には、このお顔が驚きで、悩ましい全体の姿と、マッチしていないようで、不自然さが残っていたのだった。
あんなに美しいお顔の裏にこれはないだろうと思った。
薄くなっていた記憶が目覚めた。
そして、今、白洲正子の「両性具有の美」を思い出し、
このお像の両性具有を感じる。
性の力から、解き放たれてこそ、仏に近づけるというのか?
生々しい男、女では、欲があふれている。
それから離れていってこそ、真の人間、いずれは仏になれるのだろうか?
そんなことを感じた。
こうして書き始めると、止め処もなく長くなるので、
鉈彫りや、円空、木喰などは、また改めて書くことにしようと思います。
十一面観音のすばらしいものが、本館にも展示されていた。
一階の奥に、薬師寺からの十一面観音が、やはり腰をくねらせ、
涼しげに立っておられた。
十一面観音は、女性的な柔らかな表情、体つきのなよやかさ、
天衣の流麗さ、などが特徴で、誰しもが親しく思う美しさがある。
それとはまったく異質の表面に鉈目がついたままの仏達。
その素朴さ、木の表面の美しさ、都には残されていない。
東方面のものらしい。これはいったいどうしたものなのだろう??
次回書くことにしたい。
この展覧会に向けて、4年余りの時間をかけたそうだ。
博物館の企画にもおおいに感謝したい気持ちになった。
柳宗悦流にいうならば、木の仏様の民芸、に驚かされた展覧会だったのだ。
無事に展覧会を終えて、仏様達は、それぞれ大切に梱包され、愛され、守られている土地にお帰りになられることでしょう。
これだけ、現代の人々にも感動を与えてくれるのは、日本人の心のふるさとが、今も尚祈りを捧げてきた仏様達に内在されていることなのかと思います。
これを機にまたお立ち寄り下さいませ。
十一面観音に見惚れてまいりました。なるほど 両性具有の美ですか。こんど拝読いたしてみようと想います。
TBさせていただきました。お越しいただけましたら幸いです。
草津に行ってまして、お返事遅くなりました。
白洲正子の「両性具有の美」という著書がありますが、この十一面観音を見て、それを思い出しました。白洲正子は、あんがい平坦な言葉で、さらりと語ってくれるので、難しさに気が付かずに読んでしまいます。ぜひご一読お勧めします。
青山二郎は、そうとう難しく、難関で、まだまだ読み進めていません。
美しいものの裏側に怪しげなものが潜んでいるということなのかもしれませんね。
白洲正子は両性具有の美と言っているのですか。興味深いですね。友人からいつも“白洲正子と青山二郎を読め”とアドバイスされているので、白洲正子の本を買ってみようと思います。
人知れず、誰にも振り返られずに、埃だけかぶっている仏様が意外と沢山おられて、訪れる人を心待ちにしておられるかもしれません。
現在はどうなのかわかりませんが、渡岸寺は、湖北の寂れた所でした。
その土地のお寺の中にあってこその仏様ですものね。
あのひなびた空気に突然の十一面観音様は、驚きでした。おすすめスポットです!
コメントとTBをありがとうございました。
>信長の難から逃れるために、必死で守り通した土地の人々の力は、敬虔な信者の強さ
私など一言に十一面観音菩薩像などと括ってしまいますが、
仏様はそれぞれに異なった歴史を背負われているわけですよね。
本来いらっしゃる場所にて拝見出来たら、
より理解が深まるのかもしれません。
その土地まで出向いて是非ご対面したいものです。
こちらからもTBさせて頂きました。
一木に込められた、そこに神様仏様を見いだす人々の思いが感じられた、まれに見る展覧会だったと思います。
お寺や、神社にしめ縄がかかっている御神木があるのは何故か、ちょっとわかった気がします。
自然の中に脅威と、神様を見た、仏師の眼に感激しました。
一木という今回のテーマは意識していなかったのですが、
買った図録を読んで、ああ昔の人はこんなに木に愛着が
あったのかと感じました。
あそこに展示してあったのは「仏」であり「神」だったのですね。
新日曜美術館も神護寺の薬師如来など上野に無かった
仏も紹介していて楽しかったです。