あべまつ行脚

ひたすら美しいものに導かれ、心写りを仕舞う玉手箱

智恵子抄 高村光太郎と智恵子 その愛 ・智美術館

2010-05-20 21:22:59 | 美術展
六本木に行く時、ミッドタウンのサントリー美から
国立新美術館に移動して千代田線で帰る、
そういうパターンと

六本木一丁目で降りて
泉屋博古館から大倉、そして智美に移動する。
余裕があれば、日比谷線でミッドタウン方面に行くことも可能。

昨日はあとの方のコースで、
住友コレクションのお茶道具、
大倉の江戸から近代美術の爽やかさを堪能し、
坂を下って、
智美術館に入った。

高村光太郎のあの力強い手首の量感に感動してやまないけれど、
「智恵子抄」とあるから、どんな企画だろうと、
美しいガラスの手すりの螺旋階段を降りていった。

毎回ここはその主人公にあわせて会場作りをする。
階段を降りたすぐ右に
 
 いやなんです
 あなたのいってしまふのが 

という光太郎の弱々しい文字と
それを励ますかのような 赤い花のような切り絵。

正面には小さくなった十和田湖のブロンズ習作が立つ。

ほの暗い会場はパーテーションがなく、
ぐるり見渡せるようになって、
低めの台の上に、光太郎のブロンズ小品がポツリポツリ
ぼうっと光っている。
ところどころに書簡。
手描きの生原稿。
実際にインクが滲み、光太郎自身がこの原稿に向かい、
そして文字を連ねていった時間も染み込んでいる。

結婚式の御礼の手紙もあったり。
光太郎と、智恵子二人の筆跡が並ぶ。
どれだけ結婚できたことが嬉しかったか。
それが手に取るようにわかるのが辛い。

光太郎の彫像や木彫からは
父上の光雲の厳しい目線を感じる作よりも
ずっと温かさを感じる。
光雲の世の中を併結する為政者のような猿の木彫は
最高傑作だと思うけれど。

猪や、虎、兎、鶏、それらの頭からはなにかユーモラスな
擬人の質感があって楽しい。

真ん中に重厚に 「手」が飾られている。

ひどく神経質な表情の手で、それを支える木彫の刀目が荒っぽくて
いい味を出している。
あのような形、私には無理な造作だ。
しなやかすぎる。

そして、智恵子礼賛の「裸婦」
存在の充実に何も疑わずに礼賛している。
裸婦を作ることは
智恵子の存在そのものを残すという喜びに満ち満ちていて、
これだけ存在すべてを我が物にして
なお、輝かしいと誉め讃えることができることが
あり得るのだろうかと。

愛の濃厚さに打たれると、
智恵子の病床中に無神で切り続けた紙絵のシリーズが
ともかく無垢で純粋でたまらなくなる。

熊谷守一の単純極まった線にも通じるような
素朴な飾らない線。
色の使い方、重ね方、削がれたシンプルな構図、
画題にした対象物への温かな心、
どれもがなんだか胸をキュンとさせるのだ。

それは、彼女をただ受け入れる光太郎の視線がきっとあるからだろうし、
智恵子は智恵子でやりたい事を集中して楽しんでいたし、
それが彼女の生きている証のようでもあって。
智恵子51~52才の頃の作。

それから病は智恵子の命をもぎり、
光太郎を残して天に逝く。

光太郎の切々とした亡き智恵子への詩は
ただただ切なく、その原稿の中にある紙絵が一段と
透明で美しく感じられるのだ。

「うつしきもの 満つ」
光太郎の墨書

そして、また入り口の

 いやなんです
 あなたのいってしまふのがー

この言葉で心震えずにいられようか。

場内の十和田裸婦像の習作の中の女性の手は
もちろん智恵子の手で、
あの光太郎の手とすっとあわせているような膨らみがあった。

幸せな二人が残像として残されているような、
目で鑑賞するというよりも、
心が動く、沁みる、そんな透明な心を思い出す、
実にピュアな印象となった。

 見て感じる「智恵子抄」

その智恵子さんの素晴らしくも愛らしい紙絵を、
どうか沢山の方に見て欲しいと願った。
展覧会は7月11日までです。ぜひ。

智美術館のサイトはこちら

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