礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

神儒仏三教を一丸として説いた石田梅巌

2019-01-10 00:29:06 | コラムと名言

◎神儒仏三教を一丸として説いた石田梅巌
 
『心学道話』第四四号「東北心学研究」(一九三二年一〇月)から、井上哲次郎述「心学に対する感想と希望」という文章を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 石田梅巌の時代に於いては、京都に伊藤仁齋〈イトウ・ジンサイ〉及びその子東涯〈トウガイ〉の大儒あり、江戸に於いては、荻生徂徠〈オギュウ・ソライ〉及びその高弟太宰春台〈ダザイ・シュンダイ〉の碩学〈セキガク〉があった。殊に朱子学派の鴻儒〈コウジュ〉には貝原益軒〈カイバラ・エキケン〉・室鳩巣〈ムロ・キュウソウ〉・新井白石〈アライ・ハクセキ〉等の錚錚〈ソウソウ〉たる大学者が江戸及び地方に生存してゐた。多少の例外はあるけれども、是等の儒者の多くは漢文を以つて著述をなし、就中〈ナカンズク〉蘐園〈ケンエン〉一派の如きは殊更に難解の文章を以つて著述したものであつた。勿論当時は漢文を以て著はす事が、最も価値あり権威あるものとして重んぜられたことは言ふまでもない。従つて儒教精神の如きも殆んど一部特権階級のみに限つてしか理解されなかつたのである。たゞそうした漢文万能の時代にあつて、貝原益軒〈カイバラ・エキケン〉及び彼に私淑した井澤蟠龍〈イザワ・バンリョウ〉等僅か少数の学者によつて、仮名交り文にて著されたものも世に出でた。勿論益軒自身にも漢文の著作は可なりあつた。然し、益軒の如き大儒が平易に通俗的に砕けた仮名交り文を以て多くの著述を成した事は、当時の社会に多大の影響を及ぼしたものであつて、社会教育の立場から看過する事の出来ない功績であつたと言はねばならぬ。即ち益軒の『何々訓』と題するものなどがそれ等の著作であつた。
 然し、益軒・蟠龍は言論を以て直接に社会民衆へ呼びかけたのではなかつた。況んや〈イワンヤ〉仁齋・祖徠等の碩学大儒と民衆との間には、いさゝかの接触も見出すことは出来なかつた。こうした事情の下〈モト〉にあつては、儒教が如何に立派な社会教化的精神を持ち、実践道徳的価値を持つてゐても、民衆はその恩沢に浴する事は出来ない。畢竟〈ヒッキョウ〉民衆は儒教を天空の一角に見上げて傍観するに止まらざるを得なかつたのである。
 かくて、儒教に依つて救はれることのなかつた庶民大衆は、そのまゝ何等の道も要求しなかつた事であらうか。人として人たるの道を知らない事ほど危険な事はない。
 然らば斯くの如き民衆に対して、神道は如何なる地位にあつたであらうか。古来神道とても民心を指導するほど容易に理解され得なかつた。その道にたづさはる者にしてもが、神道を一般民衆に適切に説き砕いてくれる者も余りなかつたやうであるから、少数の例外はあるけれども、大体から云ふと結局、神道も民衆生活の指導原理特に商業道徳とは成り切れなかつたのである。
 最後に仏教に於いては、僧侶がその説教に依つて幾分民衆の生活に近づいてゐたとは言ふものゝ、是とても適切に庶民の実践道徳乃至商業道徳を指導したのではなかつた。
 三教かくの如き情勢にあつた時、石田梅巌世に出でて神儒仏三教を融合して打つて一丸とし、極めて平易に説き出して民衆の胸底に呼びかけたのであつた。是れこそ当時の社会の一部が渇望して止まなかつたものであつたらう。【以下、次回】

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