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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

内藤頼博と日本法律家協会

2014-08-20 05:43:32 | コラムと名言

◎内藤頼博と日本法律家協会

 元名古屋高等裁判所長官の内藤頼博が亡くなったのは、二〇〇〇年一二月五日のことであった。
 翌二〇〇一年五月一六日発行の『法の支配』121号に、日本法律家協会会長・大内恒夫氏の「追悼の辞」、同副会長・岸星一氏の「内藤頼博先生を偲ぶ」が掲載された。
 これらの文章に先立って、「悼 内藤頼博特別顧問」という無署名の文章が載っている。本日は、「悼 内藤頼博特別顧問」および「追悼の辞」を紹介してみよう。なお、『法の支配』は、日本法律家協会の機関誌である。

 悼 内藤頼博特別顧問
 内藤頼博当協会特別顧問には平成12年12月5日92歳にて逝去されました。同月21日東京・青山葬儀所において学校法人学習院と内藤家の合同追悼式が無宗教式で行われ、実行委員長島津久厚学習院長の式辞に次いで、小倉芳彦学習院大学長、藤谷宣人多摩美術大学理事長、大内恒夫当協会会長が追悼の辞を捧げ、参列者一同の献花が行われました。内藤先生のご逝去を悼み、大内会長の追悼の辞と岸星一副会長の「内藤頼博先生を偲ぶ」を掲げます。

 追悼の辞  日本法律家協会会長 大内恒夫
 謹んで日本法律家協会特別顧問、元名古屋高等裁判所長官内藤頼博先生のご霊前に哀悼の意をささげます。
 先生は、昭和7年東京地方裁判所予備判事にご就任以来一貫して裁判官の道を歩まれ、昭和48年のご退官まで在職40年余の長きにわたりました。この間先生は、戦後新憲法の下に発足した最高裁判所の事務総局にあって、新時代の司法にふさわしい裁判所制度の確立のために尽力され、なかんずく家庭裁判所については、その創設の当初から実務と制度運営の両面にわたって長く関与され、初代の家庭裁判所調査官研修所長、横浜、東京の家庭裁判所長を歴任される等、正にわが国家庭裁判所の産みの親であり、育ての親でもあられました。
 また、先生は日本法律家協会の設立当初からの会員であり、会の目的とする司法の発達、法曹の向上及び法学の進歩のための事業活動に積極的に参画され、最近で'は会の特別顧問として会の発展のために種々ご指導をいただいてまいりました。幸い、日本法律家協会は今日、裁判官、検察官、弁護士、法学者等法曹各分野から成る会員総数2200名を数え、間もなく設立から50年目を迎えようとしております。長い間ご尽力たまわりました先生に対し心からの感謝を申し上げます。
 先生はご高齢になられた後もお元気で、東京ゴルフ倶楽部のメンバー同士で好きなゴルフを楽しまれたとうかがっております。公私ともにご多忙であった先生にとってそれは至福の時というべきものだったと思われますが、一緒にプレーした倶楽部のメンバーの人たちからも、いつも先生に暖かく接していただいた思い出を耳にしています。ご逝去になられた今、先生が多くの人に敬愛されていたことを改めて思わずにいられません。
 ここに先生のありし日のお姿を偲びつつ、先生が安らかにとわの眠りに就かれることを祈るばかりであります。
 謹んで先生のご冥福とご遺族の皆様のご安泰を記念申し上げまして、お別れの言葉といたします。

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内藤頼博と『原住民司法論集』

2014-08-19 03:52:35 | コラムと名言

◎内藤頼博と『原住民司法論集』

 司法資料第二九〇号『原住民司法論集』(一九四五年一二月)について、もう少し、補足する。
 昨日のコラムで、同書の「序文」の最後の部分を紹介した。読者の中には、「内藤頼博氏」という名前が出てきたことに、注目された方もあったかもしれない。
 内藤頼博〈ナイトウ・ヨリヒロ〉は、のちに名古屋高裁の長官となり、さらには学習院院長なども勤めた人物である。その内藤であるが、同書の「序文」が書かれた一九四四年二月の時点において、司法省秘書課に関わりを持つ判事であり、同書収録論文の翻訳を担当していたことがわかる。
 ウィキペディアは、内藤頼博を次のように紹介している。

内藤 頼博(ないとう よりひろ、1908年3月12日―2000年12月5日)は東京府出身の裁判官、弁護士、教育家。元子爵。正三位勲一等瑞宝章。
経歴/旧信州高遠〈タカトウ〉藩主内藤子爵家の第14代当主として東京府豊玉郡内藤新宿町に生まれる。内藤頼直の孫、内藤頼輔の子。1931年、東京帝国大学法学部卒業。東京家庭裁判所長、広島高等裁判所長官、名古屋高等裁判所長官を歴任。1973年に退官し、弁護士となる。/弁護士業の傍ら、1979年から1987年まで多摩美術大学学長、1975年から1991年まで多摩美術大学理事長、1987年から1993年まで第22代学習院院長を務めた。老衰で死去。/息子の内藤頼誼は元朝日新聞社アメリカ総局長。

 今日の「新宿御苑」が、かつて内藤家の敷地であったことは、よく知られていることである。
 それは措くとしても、この項目は、内藤が、終戦後における司法制度改革に尽力したことなどに触れておらず、きわめて不完全なものである。
 ところで、入手した『原住民司法論集』の表紙右上には、鉛筆書きで、「内藤課長」とある。おそらくこの一冊は、内藤頼輔の旧蔵本だったのではないだろうか。【この話、続く】

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原住民司法に関する参考資料として排印する

2014-08-18 03:33:08 | コラムと名言

◎原住民司法に関する参考資料として排印する

 昨日の続きである。『原住民司法論集』(司法資料第二九〇号)の「序文」を紹介している。本日は、その二回目で、「序文」の最後の部分を紹介する。

 原住民司法に関連しては、未開民族の法と慣習の考察が重要であるけれども、こゝには主として司法制度又は司法政策に関するものを収載した。本号収載論説の邦訳に付ては主に部内判事諸氏の協力を受けた。訳者は一は環昌一氏四は荒川正三郎氏五、一一は板野英雄氏六乃至九は伊藤俊夫氏一法〔ママ〕は内藤頼博氏一二は小関敏正氏民一三は沢井種雄氏である。
 ジャワに関する資料一に於てはResidentieを州Residentiegerechitを州法院Regentschapを県Regentschapgerechitを県法院Regentを県長と夫々訳したが、これらの用語及び同資料に訳出しある法院名は概ね〈オオムネ〉現地軍政司法当局の用例に従つたものであり、従来の多くの用例としては右に掲げた語は夫々理事州・理事州法院・原住民理事州・原住民理事州法院・原住民理事官と称されて来たものである。四に於ては概ね従来の訳語が使用せられ、これを全部は書き改めなかつたので特に一言〈イチゴン〉する。
 終りに、ジャワ原住民司法に関する旧蘭印の法規については司法資料第二九一号ジャワ司法関係法規を参照せられ度い。原住民司法に関する参考資料として茲に筆写に代へて排印〔刊行〕する。
 昭和十九年二月      司法大臣官房秘書課

 最初の段落に「一法」とあるのは、たぶん、「一〇」の誤植であろう。
 また、最後の段落の「終りに、ジャワ原住民司法に関する旧蘭印の法規については司法資料第二九一号ジャワ司法関係法規を参照せられ度い。」の部分は、万年筆によって、抹消されている。これは、「ジャワ原住民司法に関する旧蘭印の法規」も、この号に載せることになったことに関わる訂正と思われる。【この話、続く】

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司法資料290号『原住民司法論集』(1945)

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「終戦」直後における日本と日本人

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東久邇首相、ラジオで暗号放送(1945年8月20日)

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司法資料290号『原住民司法論集』(1945)

2014-08-17 04:01:05 | コラムと名言

◎司法資料290号『原住民司法論集』(1945)

 先日、神保町の古書展で、『原住民司法論集』(司法資料第二九〇号)という珍しい資料を掘り出した。二〇〇円だった。奥付はないが、表紙のタイトルの左に、「司法省秘書課」とあり、表紙右側の背表紙に近いところには、小さく、「【禁転載】 (昭和二十年十二月)」とあった。
 本日は、この資料の「序文」を紹介してみよう。なお、序文の最後には、「昭和十九年二月/司法大臣官房秘書課」という署名がある。すなわちこの資料は、今次大戦の末期に、その原稿が完成していたものが、敗戦後になって刊行されたことになる。

 序 文
 広大な南方諸地域を含む大東亜共栄圏の建説に関連して、原住民司法についての新なる関心が生じてゐる。本号には、現地軍政当局作成の若干の資料と比較的最近の独英比較法雑誌(Zeitschrift für vergleichende Rechtswissenschaft; Journal of Comparative Legislation and Internation Law)所載論文を中心として、原住民司法に関連する論文を収録した。概略的に分類すれば、本号に収めたものゝ内、一乃至三は夫々〈それぞれ〉ジャワ・スマトラ・マライに於ける戦前の司法概要に関する現地軍政司法当局作成の資料、四と五は旧蘭領印度に於ける司法の一般的問題に関する論述、六は原住民法及び植民地法に関しての比較法学の意義の略述、七乃至一二はアフリカに於ける独英仏の原住民司法に関するもの、一三は仏印其の他に於ける原住民基督教徒と適用法に関する論述である。
 これら諸編に取扱はれてゐる事項は多岐に亘るから、以下これらを列挙し其の出所を示すと共に取扱事項の概要を摘示する。
一、「ジャワに於ける司法」the Judicature in Djawa, by Raden Soepomo. スポモ氏はジャワ人・ライデン大学〔オランダ〕卒・元バタビヤ法科大学教授、皇軍進駐後我が軍政司法に協力活動中である。本編は同氏かジャワ軍政司法当局の為めに英文で記述したものゝ邦訳であつて、戦前に於けるジャワ司法制度の概要を知るに最も適切なものである。将来の司法についても若干の提言が為されてゐる。
二、「戦前に於けるスマトラの司法制度概要」、スマトラ司法資料第二九号。これは同じくスポモ氏の記述に係るNote about the judicature in Sumatra なる英文資料をスマトラ軍政司法当局に於て邦訳したものであり、旧蘭印外領の一つとしてのスマトラの司法制度を知るに好個の資料である。【以下、三~一三までの説明を略す。そのあとの結論部分の紹介は、次回】

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「終戦」直後における日本と日本人

2014-08-16 03:56:08 | コラムと名言

◎「終戦」直後における日本と日本人

 昨日のコラムで、このブログに書いてきた「終戦」(敗戦)関係のコラムの一部を紹介した。その後、よくチェックしてみたところ、それ以外にもたくさんあったことに気づいた。以下に、気づいたものすべてを、列挙する。だいたい、読んでいただきたい順である。昨日、紹介した七本も、含まれている。 

1 終戦を知って宮城前にひれ伏した人々をめぐって

2 羽仁吉一が二重橋にお詫びに向かった理由

3 殷王朝の崩壊と大日本帝国の崩壊(白川静の初期論文を読む)

4 「皆さん、敗戦は神意なり!」石原莞爾の戦後第一声

5 「革命よりも戦争がまし」、「革命よりも敗戦がまし」の昭和史

6 高木惣吉が見た占領下の日本人(付・いじめと学校の権威)

7 早朝のバス待合所に見る終戦直後の心象風景

8 敗戦と火工廠多摩火薬製造所「勤労学徒退廠式」

9 玉音放送は国民に理解できた(付・羽仁吉一、敗因を説...

10 三木清の死と知識人の無気力(大熊信行『国家はどこへ行く』より)

11 東久邇首相、ラジオで暗号放送(1945年8月20日)

12 都立二中、アメリカ軍によって占領される

13 中根美宝子さんの『疎開学童の日記』(付・にくき米英今に見ろ)

14 「一億総懺悔」論のルーツは、石原莞爾か

15 敗戦直後の京都と河上肇

16 「終戦の詔書」の放送は理解できなかったという伝説

17 敗戦直後、群集を前に獅子吼する石原莞爾

18 石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因

19 鈴木貫太郎はなぜ自決しなかったか

20 「新聞の終戦」は単純にはいかなかった(読売新聞の終戦)

参考*アクセスランキング歴代20位(2014・8・16現在)
1位 2014年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁    
2位 2013年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか(鈴木貫太郎)    
3位 2013年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』(1946)
4位 2014年1月20日 エンソ・オドミ・シロムク・チンカラという隠語      
5位 2013年8月15日 野口英世伝とそれに関わるキーワード           
6位 2013年8月1日  麻生財務相のいう「ナチス憲法」とは何か        
7位 2013年2月27日 覚醒して苦しむ理性(矢内原忠雄の「平和国家論」を読む) 
8位 2014年7月19日 古事記真福寺本の中巻は五十丁、下巻は三十六丁  
9位 2014年8月15日 煩を厭ひてすべてはしるさず(滝沢馬琴)
10位 2014年2月1日 多摩火薬製造所「勤労学徒退廠式」          

11位 2014年3月28日 相馬ケ原弾拾い射殺事件、一名「ジラード事件」(1957)
12位 2014年1月21日 今や日本は国家存亡の重大岐路にある(1948)    
13位 2014年8月14日 滝沢馬琴が参照した文献(その2)
14位 2013年12月9日 「失礼しちゃうワ」は昭和初期の流行語         
15位 2014年3月27日 日本の農業は最高に発達した造園(Gartenbau)       
16位 2014年3月29日 アメリカ最高裁決定、ジラードを日本の裁判権に服させる 
17位 2014年3月20日 戦時下に再評価された津下剛の農史研究         
18位 2014年1月22日 今や祖国日本は容易ならざる難局にある(1942)   
19位 2013年9月14日 なぜ森永太一郎は、落とした手帳にこだわったのか   
20位 2012年7月2日  中山太郎と折口信夫(付・中山太郎『日本巫女史』)  

次点 2014年4月14日  光文社版、椋鳩十『山窩小説 鷲の唄』(1947)

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