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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』の紹介二件

2014-08-26 04:56:41 | コラムと名言

◎拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』の紹介二件
 
 一昨日の日本経済新聞に、拙著『日本人はいつから働きすぎになったのか』の紹介が載った。以下の通り。

新書
『日本人はいつから働きすぎに
なったのか』礫川全次著 やめた
くてもやめられない日本人の「働
きすぎ」が社会に定着する過程を、
江戸期までさかのぼり明らかにす
る。日本人の労働観に影警を与え
た二宮尊徳や吉田松陰、松下幸之
助らの思想や実践を解説。過労死
など現代の問題にひきつけ、組織
が個人に期待する自発的な「勤勉」
がもたらす非合理性を訴える。(平
凡社新書・820円)

 短いが、拙著のコンセプトを的確に指摘している。非常に光栄なことであった。
 発売後、間もない同書を、日本経済新聞によって、このように紹介していただけたのは、意外であった。というのは、この本は、「過労死など現代の問題にひきつけ、組織が個人に期待する自発的な『勤勉』がもたらす非合理性を訴える」本だからである。序章やあとがきでは、企業のブラック化の問題も取り上げている。ある意味では、最も「日経新聞」に似合わない本なのである。
 しかし、今日、過労死・過労自殺など、「勤勉」がもたらす問題は、日本の企業社会にとって、いや日本にとって、避けて通れない重大な問題になろうとしている。考えようによっては、この本は、最も「日経新聞」にふさわしい一冊なのかもしれない。

 一方、アマゾンのカスタマーレビューには、fkawanoさんの紹介が載った。おそらく、最初のカスタマーレビューであろう。こちらも、拙著のコンセプトを捉えたものであって、光栄なことである。引用させていただきたい。

☆☆☆☆☆なぜ現代の日本人は「勤勉」=「自発的隷従」となってしまったのかが良く理解できました。
By fkawano オン 2014/8/25
本当に日本人はよく働きます。働きすぎです。だからサービス残業、過労死なんて悪しき言葉が生まれたのだと言えます。
(嫌なら辞めれば良いと言う某元IT会社社長もいらっしゃいます。その言ももっともだとは思いますが・・・)
当然ですが、日本人が「勤勉」だからこんなことが発生するのです。
著者は「自発的隷従」という言葉を用いて、この日本人の特質を表現しています。
本書では、「自発的隷従」の根源を歴史に求めています。
江戸時代から今日までの例を挙げてその探求を進めています。
私には、勤勉のイメージが最もあてはまる二宮金次郎の「神話的な勤勉」の検証と、
実際の「二宮流勤勉」の比較がとても面白かったです。
また、江戸期の農民が「勤勉」によって捻出した時間を祭礼や、芸能などに使うようになり、心にゆとりを持てるように
なっていったのに、今日に至っては「勤勉」=「自発的隷従」になってしまったことの著者の解釈、説明が
とても腑に落ちました。
本書は「怠ける勇気を持とう。怠けの哲学を持とう」との言葉で結ばれています。
まさにこの言葉こそ現代に生きる日本人への福音であると思います。

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辞退した市川猿之助丈、快諾した市川団十郎丈

2014-08-25 05:33:11 | コラムと名言

◎辞退した市川猿之助丈、快諾した市川団十郎丈

 昨日の続きである。日本法律家協会副会長・岸星一氏の「内藤頼博先生を偲ぶ」という追悼文を紹介している。本日は、その二回目(最後)。岸氏によれば、内藤頼博は歌舞伎界に、強力なツテを持っていたという。

 昭和29年〔一九五四〕であったか、私共の事務所を見たいと言われて、当時三原橋の改造社のビルに〔内藤頼博〕先生が矢崎〔憲正〕さんと見えた。その帰り、歌舞伎座を観ようと誘われて、3人で赴いた。演し物〈ダシモノ〉は何であったか記憶していないが、先生は歌舞伎審議委員であったから、飛び込みでもフリーパスで観劇を楽しめたのであった。【中略】
 平成4年〔一九九二〕の総会は協会設立40周年に当たるため、東京で行うことになった。この総会における講演の講師を何方〈ドナタ〉にお願いするかが理事会で相談された。私〔岸〕の案は当時歌舞伎に新風を吹き込んでいた市川猿之助丈〔三代目〕か、京都奥嵯峨に寂庵を開いた瀬戸内寂聴さんかであった。結局猿之助丈に決まり、先生にお話し〔打診〕をして頂くことになった。数カ月後に猿之助丈から断わりの挨拶があったが、その理由は、随分考えたがお偉い先生方にお話しするのはご遠慮させて頂きたいということであった。先生はややご立腹のご様子で、岸さん、それならもっと格の上の役者を頼もうよ、団十郎ならどうかな、と早速連絡して承諾をとって下さった。この時の団十郎丈〔十二代目〕の講演は家重代で門外不出の小道具なども持参され、薀蓄〈ウンチク〉を傾けての芸談は滋味溢れるものがあり、総会に参加された会員やご家族からも大好評を受けた。先生のお力を思い知らされた一事であった。【後略】

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高遠藩・内藤新宿・新宿御苑

2014-08-24 07:05:07 | コラムと名言

◎高遠藩・内藤新宿・新宿御苑

 今月二〇日のコラムで、『法の支配』121号(二〇〇一年五月)に掲載された内藤頼博に対する追悼文を紹介した。紹介したのは、無署名の「悼 内藤頼博特別顧問」、および日本法律家協会会長・大内恒夫氏の「追悼の辞」である。
 このとき言及したが、『法の支配』の同号には、もうひとつ、日本法律家協会副会長・岸星一氏の「内藤頼博先生を偲ぶ」という追悼文も載っている。追悼文としては、この文章が最も長文であり、もっとも読み応えがある。本日はこれを紹介してみよう。

 内藤頼博先生を偲ぶ     日本法律家協会副会長 岸 星一

【前略】先生は日法協〔日本法律家協会〕設立の準備の当初は最高裁判所事務総局秘書課長として、昭和24年2月からは同総務局長として、当協会設立の細部に亘り心血を注がれ、発足後も広島及び名古屋高裁長官として東京を離れられた期間を除き、協会の発展に尽瘁〈ジンスイ〉されたことは、忘れがたいことである。
 昭和62年8月学習院院長にご就任になってからは、役員会にお見えになる機会がなくなったので、ご指導を願う必要の際は院長室にお邪魔をしたが、快くご教示頂くことが出来た。今、幽明相隔てるに至ったことは痛恨の極みといわなければならない。
 拙宅に近い新宿中央公園に、小彼岸桜〈コヒガンザクラ〉の一群がある。そこに建つ記念碑によれば、この桜は昭和57年3月、信州高遠町から新宿区へ「歴史的な繋がりを記念して」送られたと記されてある。高遠は言うまでもなく内藤家のご領地であり、その昔絵島が配流〈ハイル〉された地として、また彼岸桜の名所として名高い。
 新宿御苑の敷地は内藤家の江戸屋敷跡、大木戸〈オオキド〉から新宿3丁目に掛けての内藤新宿の商店会は今でも内藤家をお殿様と慕う。御苑は私も月に何度かは散歩に訪れるが、特に現内藤家の裏手に当たる玉藻池〈タマモイケ〉の周辺は大名屋敷の奥庭の面影を残しており、水鳥が遊弋〈ユウヨク〉し、亀が小島に憩う池面を左手に見て林道を辿る小道は、都心の騒々しさを忘れて暫し佇む楽しさを与えてくれる。
 昭和40年頃の夏、私は当時司法研修所の教官をしていたので、夏期研修の指導のため数年紀州高野山〈コウヤサン〉に出張した。その始めての時、山内を散策している内に諸大名の墓所を発見した。その中に内藤家の墓所があった。他より大きく立派なものだった。外様〈トザマ〉大名には経費を掛けさせる徳川幕府の政策によるものだと聞かされた。【以下は次回】

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鵜崎巨石氏による書評『隠語の民俗学』

2014-08-23 16:46:47 | コラムと名言

◎鵜崎巨石氏による書評『隠語の民俗学』

 物書きというものは、自分の書いたどんな本でも、どんな文章でも、愛着があるものである。たまたま、インターネット上で、鵜崎巨石氏による、拙著『隠語の民俗学』(河出書房新社、二〇一一)の書評を拝読した。この『隠語の民俗学』は、苦労して一冊にまとめあげただけに、とりわけ愛着のある一冊だが、これまで、ニ三の短いコメントを除いては、これといった書評に接したことがない。
 ところが、この鵜崎氏の書評は、本格的な書評であるばかりでなく、こちらが用意していた「ツボ」とでも言うべきものを、ことごとく指摘されている。その点で、非常に感激したし、また畏怖すべき読み手だとも感じた。
 鵜崎氏のご了解を得て、以下に、その書評を転載させていただくことにする。

 隠語の民俗学・差別とアイデンティティ(「鵜崎巨石のブログ」2014-07-24)
 
 今日の読書は「隠語の民俗学 差別とアイデンティティ」礫川全次著 河出書房新社。
 最近このブログでも紹介したが、この研究者の著「サンカと説教強盗」が面白かったことから、図書館で検索して、この著書を手に入れた。
 前作同様、我々普通の人間の知らない世界の話を、非常にわかりやすい表現で語ってくれる、貴重な学者だ。
 本書のテーマは表題にあるとおり「隠語」。本書では、最初に隠れキリシタンの隠語やまたぎ(東北地方の猟師)、警察及び犯罪者の隠語などに当たった後、「隠語の諸相」として、山窩ことばや(サンジョ)芸能民、朝鮮の白丁(食育処理などに当たる被差別民)の特異な言語とその風習など多彩な話題に及ぶ。
 隠語の定義については、著者も大いに悩んでおり、まだ「隠語学」研究というものが進んでいないため、本書の中で、大方の関心ある諸人の参入を期待しているほどである。
 終章に著者なりの「隠語」の定義として、次を掲げている。

《1.所属集団の秘密を保持する機能。外部に知られてはまずい事柄を、集団の安全、防衛のため、隠語化して秘密を保持する。
2.所属する集団の成員間の仲間意識、連帯意識を強化する機能。隠語の使用によって「われわれ意識」あるいは帰属意識も強化する。
3.所属する集団と他の集団とを区別する機能。隠語の使用によって、自らを他と区別し、自分が何者であるかという集団のアイデンティティーを確認する。
4.他の集団に対して、所属集団を誇示する機能。但しこれとは逆に、隠語の存在そのものを秘匿する場合がある。》

 本書では、隠語と「符牒」の関係について論究していない。われわれが古書店などに行くと、カタカナで金額らしきものが付けられていることに気づく。これは符牒であろう。これは1.に類するものともいえるし、多くの伝統的商売ではこういう符牒がある。
 わたしの生家も商人であったから、値段を「分厘貫斤両間丈尺寸○」という。「間○」なら600円か6000円である。60円かもしれない。要するに有効数字二桁程度で済ます。この符牒は、他の似たような業種でも使われたようであることを、後年ある研究から知った。父は客の前でこの符牒を使うことはなかったから、1.に属すると考えても良い。
 寿司屋などの符牒は、2.などに類するだろう。大声で話されるから、半可通を気取るお客は、「おあいそね!」などと言って恥をさらす。もっとも職人などいないところでは、店も気にもしないで応対する。
 こうした符牒も隠語の一種であるが、本書で取り上げないのは、いずれも「正業」の用語であるからだろう。また、符牒と隠語の関係についても、生業的小売商が衰退し、大規模小売業に蹂躙されている今、こうした符牒そのものが機能しなくなっているのも事実であり、「研究」の意味が無くなっている。
 冒頭、東北のまたぎが、アイヌ語を職域での「隠語」として用いた事を挙げる。これは、またぎがアイヌ起源であると言うよりも、アイヌ語という異言を用いる事で、山の幸に猟師側の意図を隠すという意識があることだとする。里言葉を使うと獣に、狩りの意図を知られる恐れがある。
 わたしにとっては、アイヌ語がなお近年まで東北地方に影響を持っていた、と言うことが驚きである。この意味で、東北の地名にアイヌ語が残ることになおさら合点がいく。
 本書は次いで犯罪用語と警察との関係に及ぶ。初期の警察が犯罪者との関係を断ち切れなかったのは「サンカと説教強盗」でも述べられていたが、本書でも、被差別民研究で、犯罪捜査や刑の執行に携わったある種のグループが「2.」の意識を一種の矜持として維持していたことが語られているのも興味深い。
 以下わたしの断片的な感想とはなるが....
 隠語の変形として、犯罪者同士のジェスチャーによる意思疎通が面白い。

《互いに右手を以て自己の耳朶をつかむ・・ご機嫌よう
自己の着用せる羽織の紐を解きて再び結ぶ・・仕事の手伝いをしようか
微笑をたたえ右拳を以て自己の鼻を擦り上げる・・どんなもんだ、おれの技を見たか》

 最後のやつは、小津安二郎の「おはよう」でおならを遊びとしてならして得意がる子供のジェスチャーであった。直接関係はないだろうが。
 犯罪用語で刑事をヤバという。危ないことを「ヤワイ」という。いまや皇太子殿下もお使いになるような言葉である。
 良い品をハクいという。中学の頃、登校時に「ハクいスケを見た」といったヤツがいた。
 山椒大夫のサンショが本書で語られる。サンショには山窩言葉で「のこぎり」という意味がある。
 山椒大夫の最後で、凄惨な復讐場面がある。のこぎり引きである。これは山椒大夫の由来になるとの説を紹介する。
 しかし(つまり「本所」ならざる周辺)民が聖化された業に携わる中で、その仲間言葉でサンショ言葉というものが生ずる。
 のちに民が属地的生業(農業そして検地)の枠組みから外れ、そのアイデンティティーを示す語(つまり上記の2.)が隠語化する過程は確かに想像できる。
 なお、著者はわたしと同世代だが、わたしが子供の時に遊んだ言葉遊びを著者も経験したという。
 それはハサミ言葉といい、江戸時代の遊里の「からこと」(洒落本に多く登場する ある音節の母音の後に、それと同じ母音を有する特定のカ行音を加える)である。
 「セケントコノヲコトコカオコヒキノカカネケヲコトリキニキツタ」(千度の男が帯の金を取りに来た)。われわれは著者同様に「ラ行」をはさんだ。
 今後ともこの人の著作に注目したい。

*転載を快諾していただいた鵜崎巨石氏に、厚く感謝申し上げます。

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備仲臣道氏評『日本人はいつから働きすぎになったのか』

石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因

ルビつき活字を考案した大阪朝日の松田幾之助

憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか

内藤頼博と日本法律家協会

「終戦」直後における日本と日本人

明治24年当時の全国有力書店

煩を厭ひてすべてはしるさず(滝沢馬琴)

原住民司法に関する参考資料として排印する

滝沢馬琴が参照した文献(その2)

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備仲臣道氏評『日本人はいつから働きすぎになったのか』

2014-08-21 04:35:16 | コラムと名言

◎備仲臣道氏評『日本人はいつから働きすぎになったのか』

 数日前、『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書)を上梓し、日ごろお世話になっている方々に進呈した。
 すると昨日、ジャーナリスト・作家の備仲臣道〈ビンナカ・シゲミチ〉さんから、さっそく書評をいただいた。最初にいただく書評であり、かつ、目利きの読書家として知られる備仲さんの書評でもあるからして、緊張して読ませていただいたが、最初のほうに「すらすらと読める」とあって、まず一安心した。「十四の仮説」について紹介しながら、その中味には触れず、さりげなく「伏線」の存在を示唆するといった紹介の仕方は、同じ「物書き」でなければできないと思って感心し、かつ感謝した。
 備仲さんは、これをフェイスブックに載せられるそうだが、ご了解をいただいたので、このブログでも紹介させていただく。
 
 礫川全次『日本人はいつから働きすぎになったのか』を読んで 備仲臣道

 礫川全次さんの著書『日本人はいつから働きすぎになったのか』を一気に読んだ。一気とは言ってもはじめの日に三章を、つぎの日に残りの七章を読んだのであるが、つまり、私のようなものにもすらすらと読める、判りやすい文章で書かれた本であると、ここでは言いたいのである。
 さて、過酷なノルマや理不尽なパワーハラスメントが横行し、企業というものがブラック化しており、それは独立行政法人の下での大学もまた例外ではないとまで言われるほどである。過労死や過労による自殺も珍しい話題ではなくなった今日の日本であるが、この書物は「自発的隷従」の根源を、歴史的に探ろうというものである。
 江戸の昔から明治大正昭和、そうして今日まで、懇切に例を挙げて述べられていて、勤勉と言えば日本人なら誰でも思い浮かべるだろう、二宮金次郎の「神話」の検証と、実際の「二宮流」の、そうだろうなと思わせる姿の比較。また、マックス・ウエーバーと日本仏教の浄土真宗との対比などは、非常に興味深く読むことができる。
 著者はこの書物にある仕掛けを施していて、それは、十四の仮説なのであるが、それを見ることによって、本書の表題が問いかけているものへの答えを得ることができる。だから、それをここに羅列するようなことはしないけれど、どうか、本書を丁寧に読むことによって、答えを手にしていただきたい。
 ところで、著者はもう一つ仕掛けをして、伏線を引いておいた。それは、江戸期の農民が、休日をふやしていったということについてである。彼らは勤勉によって得た余剰を祭礼や、芸能などに回して、心にゆとりをもたらしていたのである。著者がこの伏線を引いたことによってこそ、最終の一行が立派に生きてくると言っていい。
 現代の労働がその楽しさを失ってしまったとしたら随分不幸な事じゃないか──というのは、著者が『農民哀史から六十年』という渋谷定輔の本から引用した言葉であるが、私たちはそうなってから、労働を楽しいものと思わなくなってから、すでに久しい現実の中にいる。
《戦後の「日本的経営」というのは、労働者の「自発性」を調達すると同時に、労働者の「自発性」に依拠するような経営手法だったということができるだろう。その経営手法の中に、労働者の「自己責任」を問う一面もあったわけだが、このことは、やがて、過労死・過労自殺の問題の重要な要因として浮上してくる。》
 著者が右のように記していることは、誠にそのとおりであって、「新自由主義」のもたらしたものであると思うけれど、新自由主義云々については、著者の見解ではなくて、私の考えであるということをお断りしておく。
 こういうところに、私たちは明るい未来を見出すことはできない。だがしかし、著者が終章の中で、日本人の勤勉性に怠惰を以って対置していることに、少なくとも私は明るいものを見出すのである。この本は「怠ける勇気を持とう。怠けの哲学を持とう」という言葉で結ばれていて、ここにこそ礫川全次の真骨頂があると言っていいのであろうと思う。
(平凡社新書 八百二十円)

*転載を快諾していただいた備仲臣道さんに、厚く感謝申し上げます。
*なお、明日は、都合により、ブログをお休みいたします。

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