礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

それはテラジマがよくない、弱い者イジメだ

2016-12-22 04:36:55 | コラムと名言

◎それはテラジマがよくない、弱い者イジメだ

 上原文雄『ある憲兵の一生』(三崎書房、一九七二)を紹介している途中だが、急に、市川中車(七代目)の『中車芸話』(築地書店、一九四三)を読みたくなった。それというのも、数日前、インターネットで、「梨園いじめ」の記事(『女性自身』に載ったものという)を読んだからである。『中車芸話』にも、「梨園いじめ」の話があることを思い出したからである。
「いじめ」は、明治時代にもあり、平成の時代にもある。「梨園」にもあり、ムラにもあり、学校にもあり、軍隊にもあり、会社にもある。学者の世界にもあるらしい。
 本日は、『中車芸話』から、「恨みの火箸」の節を紹介してみたい(全文)。文中、【 】内は、原ルビ。権十郎のルビは、【やまざきや】とあるべきだと思ったが、原文のままにしてある。

 恨 み の 火 箸

 其後東京の各座、地方の各座を稼ぎ廻つてゐた間で、私の記憶に残つてゐるのは、是は遡つて明治十五年頃の事と覚えてゐますが、先代菊五郎【おとはや】さん〔五代目尾上菊五郎〕の一座で春木座に出勤してゐた時、狂言は『三題噺魚屋【とゝやん】茶碗』が出て、菊五郎の次郎吉、松助の久太といふ役割で、私が花垣七三郎の手代の役でしたが、どうやら菊五郎【おとはや】さんの目に留つたらしく、舞台の上の事を何かと注意して下さいましたので、私も菊五郎【おとはや】さん程の人に認められたのを嬉しく思つて、毎日一生懸命に励んでゐた所、引続いて同座に『小助先代』が上演されて、坂彦さんのお弟子さんの竹次郎が、道益といふ医者の伜〈セガレ〉の宗益の役を勤める事になつてゐたのが、病気で出勤が出来なくなつて、菊五郎【おとはや】さんの口添へで其代役が私の処へ廻つて来た訳です、是も偏に〈ヒトエニ〉菊五郎【おとはや】さんが私を引立て下さる事と思つて、有難くお受けをして日々稽古に入つて、何彼〈ナニカレ〉と指図をして貰つて、充分に気を入れて工夫を凝してゐますと、生憎〈アイニク〉な事には竹次郎の病気が全快して、初日には出られるといふ事になりました、しかし私としては稽古までしたものですから、無論自分に勤めさせて呉れる事と思つてゐると、菊五郎【おとはや】さんは、竹次郎が癒つたら是非出してくれ、全体八百蔵〔七代目市川八百蔵、七代目市川中車の前名〕ぢやアいけねえのだ、と初日には竹次郎に役を取られて、私は骨折損になつた計りか、一つには外の役者の手前もあり、菊五郎【おとはや】さんは酷い人だと恨む気になりました。
 次に千歳座(今の明治座)が開いて、団十郎【ししやう】〔九代目市川団十郎〕の蜂須賀小六に菊五郎の日吉丸〔のちの豊臣秀吉〕で、矢矧〈ヤハギ〉の橋が出る事になつて、菊五郎【おとはや】さんの名指しで、松助さんと私とが蜂須賀の家来に選ばれて、日吉丸へ掛る役を振られたのです。しかし私は前の竹次郎問題が癪〈シャク〉に障つてゐましたから、一も二もなく断りを言つたのでしたが、間へ入つた奥役がいろいろ口を利いて、菊五郎【おとはや】さんが八百蔵は立廻りが巧いから是非頼む、外の者に掛られのでは思ふやうな芝居が出来ないと言はれるのです、とまアうまく納められて不承不承〈フショウブショウ〉に出てゐたのでしたが、其次ぎが元地〈モトチ〉の市村座出勤と極つて、私が中二階の狭い部屋に入つてゐますと、其上の三階に菊五郎【おとはや】さんがゐて、然も此部屋を広くする普請〈フシン〉をした為に、私の部屋が其関係から暗くなつて了つたのです。けれども役者の段が違ふのですから、格別苦情を言ふ事も出来ずに、泣寝入りに黙つてゐると、 或日菊五郎【おとはや】さんが舞台の戻りに私の部屋を覗いて、オイ立花屋〔八百蔵の屋号〕お前は何だつて斯んな間暗な所にゐるんだ。これぢやア顔の拵へ〈コシラエ〉も満足に出来ないぢやァないか、と云ひ捨てて三階へ上つて行つたのです。私は菊五郎【おとはや】が、百も承知をしてゐる事を、態と〈ワザト〉からかひに来たやうな気がしたので、是迄二三度我慢をして来た堪忍袋の緒が切れて、何を言やアがるんだ、自分で暗くして置き乍ら〈ナガラ〉挨拶でもする事か、知らない顔で病付【やまひづ】かせるとは、あんまり人を見くびり過ぎた仕方だ、と思ひましたから、私は傍〈ソバ〉に在つた火鉢で火箸を焼いて、それを濡れ雑巾〈ヌレゾウキン〉で握つて、菊五郎【おとはや】を片輪にしてやる気でしたから、勿論血相も変つてゐたでせう、三階へ駈け上つて行く所を、折柄向ふへ来合せた左団次【たかしまや】さん〔初代市川左団次〕に抱き止められたのです。それでも私の方は気が立つてゐましたから、振切つても行かうとすると、左団次【たかしまや】さんが声を立てて人を呼ぶ騒ぎになつたので、家の団十郎【だんな】までが其処へ駈付けて来て、私の前へ立ふさがつて、何をするのだ、どういふ訳か知らないが、決して悪いやうにはしないから、ともかくも俺の部屋へ来て話をしろといふ事で、何しろ師匠と左団次【たかしまや】と、其外に権十郎【かはさきや】〔初代河原権十郎〕までが仲へ入つて、それは菊五郎【てらじま】がよくない、弱い者苛め〈いじめ〉だと言つて下すつたので、私の引込みは付きましたものゝ、焼火箸を持つた時には、全く菊五郎【おとはや】さんをやツけて、其場から旅へ逃げる覚悟を極めて掛つたゞけ、私の剣幕は恐ろしかつたさうで、菊五郎【おとはや】さんは震へ上つてゐたといふ事でした。
 そんな事があつてから、団十郎【ししやう】は私を可哀相だといつて、一年半計り〈バカリ〉御自分の部屋子に置いて下さいました。然し私の心持は本当に直つてゐたのではなく、何かいゝ折があつて、人に迷惑を掛けずに済む機会があつたら、どうでも一度菊五郎【おとはや】を懲らしてやりたいと考へてゐましたが、其のち程経て『傾城反魂香〈ケイセイハンゴンコウ〉』が出た芝居で、私が下女の役を勤めた時、菊五郎【おとはや】さんから改めて丁寧に謝まられたので、菊五郎【おとはや】は矢つ張〈ヤッパリ〉いゝ人だといふ事が分つて、此時にすつかり打解けたので、それからは菊五郎【おとはや】さんが本当に目を掛けて下すつて、団十郎【ししやう】よりは一倍可愛がつて貰へましたのが、私に取つてどの位薬になつたか知れないのです。それで翌〔明治〕十六年の八月、新富座に『宇都谷峠〈ウツノヤトウゲ〉』の出た時など、菊五郎の文弥と仁三〈ニサ〉、左団次の伊丹屋十兵衛、団十郎の竹の塚の兵蔵といふ顔揃ひの中で、私が鞠子宿〈マリコシュク〉の藤屋の亭主を勤め、その女房役を紫若がしてゐました。此の宿屋の場は御承知の通り、菊五郎【おとはや】さんが文弥と仁三を鮮かな早替りで見せる所なので、早替りの間を紫若と私の捨台詞〔脚本にないセリフ〕で継ぐのです。それが饒舌【しやべり】過ぎてならず、さうかといつて饒舌らなければ舞台に穴が明くので、此の興行は一日も欠かさずに菊五郎【おとはや】さんの部屋へ呼ばれて、台詞の言ひ方から仕料【しぐさ】の一々まで,つまり御見物に対して早替り間を継いでゐる事の気付かれないやう、ほんの僅かの間ですけれ共、御見物の目を私共の台詞と仕料【しぐさ】とに集中させる呼吸を、噛んで含めるやうに教へられました。それが悉く成程成程と思ふ事ばかりで、熱心の深さに驚かされて、私は実際菊五郎【おとはや】さんを恐ろしい役者だと思つて、怖くなつた位でしたから、いまだに恩義は忘れないでゐます。

 この明治の「梨園いじめ」は、「雨降って地固まる」という形で収まった。平成の「梨園いじめ」も、うまい形で収まってくれないかと願うばかりである。

*このブログの人気記事 2016・12・22(6位に極めて珍しいものが入っています)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 水窪に通じる隧道付近に適当... | トップ | 湖口に機雷を布設してないか... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

コラムと名言」カテゴリの最新記事