礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

水窪に通じる隧道付近に適当な箇所が

2016-12-21 04:44:53 | コラムと名言

◎水窪に通じる隧道付近に適当な箇所が

 上原文雄『ある憲兵の一生――「秘録浜松憲兵隊長の手記」』(三崎書房、一九七二)を紹介している。本日は、「悲愁敗戦」の章の冒頭から二番目、「浜松飛行機〔ママ〕の一部山中に立籠る」の節(全文)を紹介してみよう。

 浜松飛行機の一部山中に立籠る

『浜松飛行場に残存していた部隊は、抗戦継続を決意して、兵器、弾薬、糧食、衣料を長野県との県境南アルプス山麓の水窪町〈ミサクボチョウ〉に移送し設営中である。』との報告があった。
 東京の情勢は詳しく伝えられないが、来訪の記者や、東京から戻った知人の話しによると、近術師団は宮城〈キュウジョウ〉を占拠して長期抗戦に踏み切ったとか、厚木飛行場には相当有力な部隊が集結して交戦態勢に入ったとかいう情報もあった。そこで水窪の決起部隊に部下を派遣して、
「勅命が再び長期決戦となれば憲兵もそちらの方面に行くから、憲兵とも連絡を断たぬようにしてほしい」
 ということを部隊長に伝えて来ること。併せて付近に憲兵の移れそうな地点も調査して来ることを命じた。部下は戻って、部隊長が承知したことと、水窪に通じる隧道付近に適当な箇所のあることを復命したのであった。
 決起部隊の少佐(諏訪出身)が将校二名を連れて深夜分隊に現らわれた。
 就寝中を起こされ、軍装を整えて分隊長室で応待すると
「敗戦は決定的になったが、われわれは水窪に立籠って撤底的に抗戦するため、ゲリラ戦を展開する。聞けば憲兵隊には民間拳銃を預かって保管してあるというので、その拳銃を全部譲ってほしい」
 というのである。少佐は顏知りであり、おだやかであるが、他の二名は、軍刀を突立てて威丈高に、おそいかからんばかりである。
「まあ掛け給え」
 と言ってから、当直の部下を呼んで
「おい、お茶だ」
 と呼ぶと、部下も当直者以外次々と起きて緊張して分隊長室へ押し寄せようとするので
「まあ、そちらへ下っていてよろしい」となだめ、
「ところで水窪には現在何名くらい居ますか?」
「最初は六十名ばかりであったが、現在は意志の強固な者が三十名足らずである」
「糧秣や兵器はどのくらいあるのですか?」
「米は三十俵程ある。飛行隊は地上火器が少なくて困っている」
「ゲリラ戦は自分も研究し、演習にも参加したことがあるが、なかなか困難なものですぞ」
「それで分隊長の助力を頼みに来たのです」
「自分もそうすることがよいと決心がつけば後から参加するが、目下思案に苦しんでいる」
「何も思案したり躊躇することはないではないか」
「いやいや、われわれが山の中に立籠っていて、浜松に出て来て、米兵の大きな奴を一刀両断すれば気持がよく、自分はそれで満足するかも知れないが、その為にどのくらい日本人に迷惑をかけるか、浜松地区にゲリラが潜んでいるとなれば、占領軍はそれを口実に、探策を始める。その探索が掠奪や強姦を招くことになって、泣くのは日本人で特に可愛いい婦女子であると思うと、ゲリラ戦はどうかと思うのである」
「そんなことを考えては駄目だ」
「自分はいま迷っているのだから、決して諸君に反対はしないが、よく考えてやってほしい。拳銃は自分が参加するとき持って行くが、今は渡せない」
 最初のけんまくも大分和らいで来たようなので
「それから貴官等の仲間の曹長で、病身の妻を自決させてそのまま行った人があるが、あれは遺書もあったので、自殺として取扱い検屍もすませて、仮埋葬してあるから、いつでも村役場へ行って遺体を引取ってくれるように伝えてくれ給え」
 この曹長は決意が最も固く、自殺幇助の疑いもあったが、刺激しないためにこのことを付け加えてやったのである。
 血気にはやった連中のことである、どんな事態になるかも知れぬと、室外では部下が構えていてくれたが、まっ向から連中の行動を否定せず、やんわりと説得したのがよかったのかも知れない。
 翌日になると、九州出身の曹長が現われて、富岡〔駿東郡富岡村〕の村役場に寄り、共同墓地の妻の墓参をして行ったという。私は彼等も近く解散するとの確信を持った。
 高松宮殿下が四国方面の決起部隊へ聖旨伝達に赴かれての帰途、浜松駅に下車され駅長室から御付武官が私に電話を下さったので、駅に行き、駅長室で殿下に拝顔し、御付武官に水窪の部隊の事情を報告した。水窪町まで自動車で御同行を願おうかと思ったが、あいにくその時大豪雨となったので、自動車の通行も危ぶまれ、御付武官と協議の結果、わたくしの報告で、数日後には部隊も山を降りて解散するものと思召されて帰京されることになった。
 決起部隊は数日後解散したのである。

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