礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国民学校の発足(1941)とその目的

2016-01-27 05:48:07 | コラムと名言

◎国民学校の発足(1941)とその目的

 昨年末、神田神保町の某古書店の百円均一のコーナーから、清水甚吾『国民学校学級経営法』(東洋図書株式合資会社、一九四一)という本を拾い出した。
 国民学校令(昭和一六年三月一日勅令第一四八号)に従って、全国の尋常小学校が「国民学校」というように名称を変えたのは、一九四一年(昭和一六)四月一日のことであった。
 この本は、一九四一年(昭和一六)の六月に初版が出ている。多くの購読者があった模様で、翌年二月には、早くも「卅版」に達している。すなわち、私が入手したのが、この第三〇版である。
 この本は、戦中の国民学校において、実際に、どんな教育、錬成、学級経営、授業がおこなわれていたのか(おこなわれようとしていたのか)を知る意味では、きわめて有益な史料であると思う。
 本日は、第三章「国民学校の目的と基礎的錬成」から、第一節「国民学校の目的」の全文、および第二節「基礎的錬成の意義」の全文を紹介してみたい。

第三章 国民学校の目的と基礎的錬成
 一 国民学校の目的
 国民学校令第一条に
「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ〈のっとりて〉初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」とある。これを従来の小学校令第一条と比較してみると、根本的の相異があつて、国民学校の根本目的が極めて明確になると思ふ。
 従来の小学校令第一条では
「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及ビ国民教育ノ基礎並ニ〈ならびに〉其ノ生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ要旨トス」
とあつて、日本的色彩がない。即ち普遍的一般的であつて、どこの国にも共通するやうな要旨になつてゐる。然るに国民学校の目的は、先づ「皇国ノ道ニ則リテ」教育するのであるから、最高原則が示されて居る。そして「皇国ノ道」といふのは、教育に関する勅語に仰ぜ給へる「斯ノ道」〈このみち〉を指すものである。「斯ノ道」は教育に関する勅語に仰せ給ふ第一段の国体の精華と第二段の臣民の守るべき道全体をいふのであつて、国体の精華に基づき天壌無窮〈テンジョウムキュウ〉の皇運を扶翼し奉る道である。
 以上によつて「皇道ノ道」が明らかになつたが、この「皇国ノ道ニ則リテ」国民全般に共通な而かも平易な教育をなし、児童の精神及び身体を全一的に錬磨育成するのである。「皇国ノ道ニ則リテ」の「テ」は普通教育にも、基礎的錬成にもかかるものである。
 国民学校の目的を言葉をかへてわかり易く言つてみると、我が國體に基づいて教育をなし、天壌無窮の皇運を扶翼し奉る忠良の皇国臣民の基礎的錬成をするのである。
 第二 基礎的錬成の意義
 文部省の国民学校教則案説明要領を見るに、第一章第一緒論、二国民学校の特質の所に次のやうに述べてある。
《今回の国民学校案は教育審議会の決議の精神に則りつつ、教育の理論と実際とを考慮しで立案せられたもので、茲〈ココ〉に多年の要望であつた八箇年の義務教育制度は確立せられ初等教育史上一大転期を画するに至つた。併しこれよりも一層重要なるは内容全般に亘る根本的刷新である。即ち我が國體に淵源せる教学の精神を徹底し、教育の全般に亘りて皇国の道を修練せしむることによつて教育の方向と帰趨〈キスウ〉を明〈アキラカ〉にし、従来動〈ヤヤ〉もすれば分離に傾かんとする「教科ヲ統合シテ教育ノ徹底ヲ図リ」、「国民精神ノ昂揚、智能ノ啓培、体位ノ向上ヲ図リ、産業竝〈ならびに〉国防ノ根基ヲ培養シ」、「以テ内ニ国力ヲ充実シ外ニ八紘一宇〈はっこういちう〉ノ肇国〈ちょうこく〉精神ヲ顕現スベキ次代ノ大国民ヲ育成」しようとするのが今回の改正に於ける大眼目であり、之れが方法としては知育の徹底を期すると共に実践を重んじ知識と実行、精神と身体とを一〈イツ〉として国民を錬成し、学ぶ所凡て〈すべて〉人格の力たらしむるにこれ努めしめ、学校を挙げて全一的なる国民的人格を陶冶し、「国民錬成ノ道場」たらしめようと期したので、これによつて、始めて我国〈わがくに〉固有の、即ち世界にまだ類例を見ない教育の方針と内容とが確立せられたのである。学校の名称を国民学校と改めた如きも「名実共ニ国民教育ノ面目ヲ一新センコトヲ期シタ」ために外ならない。》
 又同第二国民学校教育の本旨の説明中に
《三、「錬成」は教育の方法を示すもので錬磨育成の意である。児童の全能力を錬磨し、体力、思想、感情、意志等、要するに児童の精紳及び身体を全一的的に育成することを指す。
 こゝに「基礎的」とは錬成の程度を示したものである。之れを比喩的に言へば、小さい木が大樹の基礎であるといふ意味の基礎的である。小さい木は小さい木としで完成しながら大樹がそれから発展する基礎である如く、国民学校の教育は夫〈ソレ〉自身完成教育でありながら同時に将来の基礎であり生涯持続せらるべき自己修養の根幹である。
「普通教育」も「錬成」も「皇国ノ道ニ則リテ」為さるゝ事に注意しなければならぬ。従つてかゝる原則の下に、「普通教育」も「錬成」も一に〈イツニ〉我が國體の本義に則り皇運を扶翼し奉るを其の精神とする。故に従来の教育学の唱へる自我の実現、人格の完成といふが如き単なる個人の発展完成のみを目的とするものとは、凡そ〈オヨソ〉本質を異にする。即ち国家を離れた単なる個人的心意、性能の開発ではなく皇国の道を体現するところの皇国民の育成でなければならぬ。》
とある。
 併し、錬成といふと、カチカチの教育をして鍛錬一点張りのやうに解する人があるが、かゝる誤解があつてはならぬ為に、第三国民学校の教育方針の九に次の条項と説明がある。
《九、児童心身ノ発達ニ留意シ男女ノ特性、個性、環境等ヲ考慮シテ適切ナル教育ヲ施スコト
 一切の教育が一般的方面と共に心理的発達及び社会的環境等特殊的方面に留意すべく夫れ〈ソレ〉が心身の発達に準じ及び男女の特性、個性、自然的、社会的環境に適応すべきは別に説くまでもないことである。今回の改正に於ては特に「錬成」を重視するが之れが為めに若し〈モシ〉軽率にも以上の特殊性に対する深甚な顧慮を欠き凡てを一様に鍛錬し、外部的な強圧に陥るやうなことがあつたら所謂〈イワユル〉角を矯めて〈ツノヲタメテ〉牛を殺すの愚を演ずることになるので注意すべきである。そして心身の発達、男女の特性、個性、環境等については心理学や社会学の教ふる所に従ひ之れを個々の場合に適用し得るやう予め研究しておかねばならぬ。》

 最後のところで、著者の清水甚吾は、国民学校の教育が、「カチカチの教育」、「鍛錬一点張りの」教育というふうに誤解している人がいるが、これは違うと説いている。この点は、本書を読む際に、あるいは、国民学校における教育について研究する際に、特に気をつけたいところである。【この話、続く】

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