◎貝を磨いて客を待った石州流茶道の家元
一昨日に続いて、本日も、佐藤義亮『明るい生活』(新潮社、一九三九)から。本日は、陸軍軍医総監として知られる石黒忠悳〈タダノリ〉が、茶道の家元を訪ね、懐石料理をふるまわれたときの話である。
◇貝を磨いて客を待つ
石黒忠悳子爵が夫人と共に、その師事する石州流〈セキシュウリュウ〉茶道の家元某〈ナニガシ〉といふ宗匠を訪ねた時のことであります。子爵は、懐石料理に出された蜆汁〈シジミジル〉を見ますと、その貝はまるで珍奇な珠のやうな色沢〈イロツヤ〉をして、粒もよく揃つてゐるのです。
「これは何といふお見事な蜆貝でせう、どこからかわざわざお取り寄せになつたものでせうな。」
子爵はかう尋ねますと、宗匠はほゝ笑んで、
「いやいや左様な面倒なものではありません。今朝ほど蜆売りから、三銭ばかりで買つたのです。」
「でもこんなお見事なものが……」
「それは、すこしでもお気持ちよく召上つていたゝけるやうにと、家内が粒の揃つたものを選んで、一つ一つ磨いただけのことです。」
これを聞いた子爵は、宗匠夫妻の心づくしが嬉しく、美味一段と増す思ひだつたさうであります。料理は高価なばかりが御馳走でなく、たとへ三銭の蜆でも、それを一つ一つ磨く親切があつてこそ、金では買はれない滋味となあるのであります。
昔から「庭に玉を敷いて友を待つ」といふ友情の深さを示す言葉がありますが、これは「貝を磨いて客を待つ」のであります。今日会へば、生前再び相見ることができないかも知れぬ。だから今日の客を一生にたゝ一度の大事な客と心得、誠意をこめてもてなさうといふ茶道の精神から出たものですが、何人もこの話を聞いては、頭が下らずにゐられますまい。
これで全文である。これもまた、味わい深い話である。
ところで、ここに出てくる石州流茶道の家元とは、誰なのであろうか。
インターネットで調べてみると、石黒忠悳は、鎮信流〈チンシンリュウ〉(あるいは石州流鎮信派)の茶人として知られていて、同流の家元・松浦厚〈アツシ〉伯爵と親交があったことがわかる。ということであれば、この家元というのは、松浦厚とみて、まず間違いないだろう。
ではなぜ、佐藤義亮は、松浦厚の名前を出さず、「石州流茶道の家元某」というような書き方をしたのだろうか。ウィキペディア「松浦厚」によれば、松浦家は、昭和初期に株の暴落で巨額の損失をこうむったという。石黒忠悳が松浦家を訪ねたのは、おそらくそのあとのことだったのではないか。伯爵夫人が、朝、シジミ売りから三銭でシジミを購ったなどと書けば、それを読んだ読者は、やはり松浦家は、そうとう苦しかったようだなどと憶測するであろう。だから佐藤義亮は、あえて松浦厚の名前を出さなかったものと考えられるのである。
なお、松浦厚の夫人・益子は、元藩主の浅野長勲〈ナガコト〉の養女であった。久邇宮〈クニノミヤ〉家の良子〈ナガコ〉王女(のちの香淳皇后)は、ご成婚前に石州流茶道を習いたいと希望したが、これを受けて、久邇宮家に出向き、王女に鎮信流を教授したのが松浦益子であった(これは、石黒忠悳の推挙によるものという)。佐藤義亮が松浦厚の名前を出さなかったのには、こうした経緯が関わっていた可能性もあろう。