礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

32年前に落とした財布を探そうとした森永太一郎

2013-09-13 04:08:19 | 日記

◎32年前に落とした財布を探そうとした森永太一郎

 一九五四年に出た『森永五十五年史』(森永製菓株式会社)という本がある。だいぶ前に、神保町の某古本屋(現在は廃業)で入手したものである。
 その冒頭に、森永製菓の創業者・森永太一郎の回顧録「今昔の感」がある。これがなかなか面白い。
 森永太一郎は、一八八五年(明治一八)故郷の佐賀県から、青雲の志を抱いて上京する。このとき、二一歳であった。ところが、箱根路を越えたところで、財布と手帳を落としたことに気づく。落とした場所に心あたりはあったものの、引き返すことはしなかったという。
 その後、森永太一郎は、森永製菓を創業し、一流会社に成長させるが、一九二七年(大正六)になって、なぜか、三二年前に失った財布と手帳のことを思い出し、落としたと思われる場所の村長に宛てて、その探索を依頼する手紙を書いた。
 森永は、回顧録「今昔の感」では、上京の際に財布と手帳を落とした事実、三二年後になって村長に手紙を書こうと思った動機などに触れていない。ただし、イラストという扱いで、村長への手紙が紹介されている。本日は、その手紙(前半部分)を紹介してみよう。

 初夏いよいよ御清安大賀此事〈コノコト〉に奉存候〈ゾンジタテマツリソウロウ〉
 未だ拝顔の栄を得ざるに唐突一箋さしあげ候段、太だ〈ハナハダ〉失礼の次第には候へど茲に是非とも貴台の御配慮を煩はして愚生の宿望を遂げ申度き〈トゲモウシタキ〉こと有之〈コレアリ〉候、御多忙中恐縮に堪へず候へ〈ソウラエ〉ども下記御一読御諒察奉願上〈ネガイアゲタテマツリ〉候
 却説〈サテ〉明治十八年秋九月、愚生九州の郷里を離れて東上の途にある際、嚢中素より〈モトヨリ〉銭なくして具さに〈ツブサニ〉旅愁を味ひつゝ、去る日、小夜〈サヨ〉の中山を未明に立ちて、入合〈イリアイ〉の頃、三島の宿を過ぎ、箱根路にさしかゝり候時は、早や日も暮れ果て申候
 夜の坂路〈サカミチ〉、覚束なくも辿り行き候処〈ソウロウトコロ〉、道の右側に一軒の出茶屋〈デヂャヤ〉これあり、夜分のことにて店片付けて人の気配もなく、床几〈ショウギ〉のみ其侭〈ソノママ〉に残されて候へば、愚生は疲れたる身を肱枕、しばし其処〈ソコ〉憩ひ申候、愧入る〈ハジイル〉追憶には候へど、時しも冷秋の夜気〈ヤキ〉身に迫りて、疲労と空腹とに堪へがたき候折柄〈オリカラ〉、月明りにも一と叢〈ヒトムラ〉の玉蜀黍〈トウモロコシ〉畑しきりに戦ぐ〈ソヨグ〉を彼方に認め候、愚生はこれを天与の糧〈カテ〉と打悦びて〈ウチヨロコビテ〉、其の二三を取り、枯れ柴、零れ〈コボレ〉松葉に火を点じて、炙りて食したることに有之候
 それから鮮からぬ〈スクナカラヌ〉力を得、お蔭を以て恙〈ツツガ〉なく函嶺を東に越へたるは夜明方〈ヨアケガタ〉にて候ひしが、不図〈フト〉懐中に財布と手帳の失はれたるに気着き申候、財布、素より銭を収めずと雖〈イエドモ〉、棄つるには余りに肌馴れて〈ハダナレテ〉貧に処し、手帳素より粗末なれども、録して旅中の恩情忘じ〈ボウジ〉がたきの芳名を列ねたり、遺失の場所は勿論かの玉蜀黍畑に候へ共、逆行せんには路〈ミチ〉太だ遠く、兎角く〈トカク〉思案の末、意を決し、目を瞑りて〈ツブリテ〉東上の歩を前め〈ススメ〉たることに御座候【以下は明日】

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