礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

三木清、森戸辰男、清水幾太郎はボーダーライン

2015-11-06 04:31:34 | コラムと名言

◎三木清、森戸辰男、清水幾太郎はボーダーライン

 日本ジャーナリスト連盟編『言論弾圧史』(銀杏書房、一九四九)の紹介に戻る。同書の「出版弾圧史(昭和期)」という章(執筆・畑中繁雄)の「編集権の強奪はこうして達成された」の節から、「Ⅱ 日本出版会(前身日本出版文化協会)」の一部を紹介する(一一一~一一五ページ)。
 
 この間、主として内務省警保局図書課、情報局、出版文化協会等により、公式にあるいは非公式に、執筆禁止を示達〈ジタツ〉された人々の主なるものを挙げると、
(一) 昭和十三年〔一九三八〕、内務省警保局図書課主催の下に、毎月都下の代表的出版社約三十社を召集のうえ、開催されていた月例「出版懇親会」の席上、当局は、岡邦雄、戸坂潤、林要、宮本百合子、中野重治、鈴木安蔵、堀真琴以上七名の名を挙げて、それらの人々の執筆原稿の雑誌掲載見合せ方を内示した。これはおそらくファッショ官僚が公然個人名を挙げてその執筆活動を禁じ、著述者の生活権剥奪の挙に出でた〈イデタ〉最初の事例であろう。その理由とするところは、それら執筆者の左翼イデオロギーおよびそれらの人々の合法舞台を利しての人民戦線活動に対する当局の疑惑からであつた。ただし後に堀真琴のみは執筆禁止が緩和された。なおその直後『日本評論』は、右の岡邦雄を匿名のうえ座談会に出席せしめ、これが事後に露見して当時物議をかもしたことは記憶に新しい。
(二) 昭和十六年〔一九四一〕二月二十六日、中央公論編集部と情報局二課との懇談会の席上(この懇談会は、その月にかぎり、主として各総合雑誌編集部に対し各社別に行われた)禁止執筆者のリストを内示した。その中には、水野広徳、馬場恒吾、矢内原忠雄、横田喜三郎、清沢冽〈キヨサワ・キヨシ〉、田中耕太郎ら自由主義者の名が含まれていた。すなわちこのことは、そのころ総合雑誌の有力執筆者の大半はすでに検挙ないし少くともその執筆活動は禁止されており、こうした自由主義者が反国策的思想の保持者としてきわ立つてきたことをよく示している。すでに太平洋戦争への盲進前夜にあつたその帝国主義段階における当局者は、これら一連の自由主義者をとくに親英米的デモクラシー思想の保持者としてファシズム思想戦の「敵」と見なしていたのであつた。中でも馬場恒吾は当時情報局の最も嫌う執筆者の一人であり、機会あるごとに彼の名を挙げてその登場を抑圧しようとした。
(三) 昭和十七年〔一九四二〕一月八日、警視庁特高第二課長は『中央公論』編集長〔畑中繁雄〕の非公式出頭を命じ、同誌最近号執筆者の中から岡崎三郎、土屋喬雄、高倉テル、今中次麿、羽生三七、武村忠雄、土門拳の名を挙げ、以後、かゝる執筆者の採択をなさゞる方が賢明なることを強調、かたがた自由主義思想家ないし親英米的学者として田中耕太郎、横田喜三郎の名をこれにつげ加えている。これらの執筆者にして生活がおびやかされるとしても、現下転失業の犠牲となり露頭に迷える人々を想えば、これらの執筆者が今日沈黙を守るはむしろ当然のことであつて、少くもこれらの人は以後十年間は執筆不可能であろうと公言しているのである。なお三木清、森戸辰男、清水幾太郎の三名を目下そのボーダー・ラインとして鋭意研究中であることをもつけ加えている。
 なお当時、当局者たちがみずから呼号する「世論指導」の実体が、いかに愚劣であり、またデマゴーグにより扮色されていたかを示す一例として、筆者みずからこれに出席し、胸手帖に書き止めておいたメモから、そのよき事例を拾つてみよう。これは真珠湾殴りこみの翌九日、臨時に非常召集された情報局第二課における「懇談会」の席上、警保局図書課の一事務官により読み上げられた「記事差し止め事項」の覚え書の一部である。(昭和十六年十二月九日)
  ◎一般世論の指導方針として、
一、今回の対米英戦は、帝国の生存と権威の確保のためまことにやむをえす起ち上つた戦争であると強調すること
二、敵国の利己的世界制覇の野望が戦争勃発の真因であるというように立論すること
三、世界新秩序は八紘一宇の理想に立ち、万邦おのおのそのところをえせしむるを目的とするゆえんを強調すること
  ◎具体的指導方針として、
一、わが国にとつて戦況が好転することはもちろん、戦略的にも、わが国は絶対優位にあることを鼓吹すること
二、国力なかんづくわが経済力に対する国民の自信を強めるよう立論すること、しかして、与国〔同盟国〕中立国はもとよりとくに南方民族の信頼感を高めるよう理論をすゝめること
三、敵国の政治経済的ならびに軍事的弱点の曝露に努め、これを宣伝して彼らの自信を弱め、第三国よりの信頼を失わしめるよう努力を集中すること
四、ことに国民の中に英米に封する敵愾心を執拗に植えつけること、同時に英米への国民の依存心を徹底的に払拭するよう努力すること
五、長期戦への覚悟を植えつけること
  ◎このさい、とくに厳重に警戒すべき事項として、
一、戦争に対する真意を曲解し、帝国の公明な態度を誹謗する言説
二、開戦の経緯を曲解して、政府および統帥府の措置を誹謗する言説
三、開戦にさいし独伊の援助を期待したとなす論調
四、政府、軍部との間に意見の対立があつたとなす論調
五、国民は政府の示指に対して服従せず、国論においても不統一あるかのごとき言説
六、中満その他外地関係に不安動揺ありたりとなす論調
七、国民の間に反戦、厭戦気運を助長せしむるごとき論調に対しては、一段の注意を必要とする
八、反軍的思想を助長させる傾きある論調
九、和平気運を助長し、国民の士気を沮喪せしむるごとき論調(対英米妥協、戦争中止を示唆する論調は、当局の最も忌み嫌うところである)
十、銃後治安を攪乱せしむるごとき論調一切
 その他、全く同様趣旨のもとに、南方問題、日独伊枢軸関係および独ソ関係についての差止事項が、同日公表されたのである。
 内務省警保局により、後には内閣情報部(情報局)によつて、毎月一回づゝ召集された、この種の検閲打合せ会には、内務省、情報局関係官はもちろん、ときには陸海軍報道部員ならびに部長が出席し、そのつど欺瞞と虚偽とそして誇張と捏造で扮色された「戦況報告」とそれにつゞいて有の類例に見るごとき低劣な「差し止め事項」を内示し、軍国主義への全幅的協力を強制することをもつて例としたのであるが、戦局がやがて末期段階に近づくに従い、彼らによつて発せられる示達が、ますます愚劣の度を高めて行つたこともまた当然であつた。【以下略】

 この章「出版弾圧史(昭和期)」の執筆者である畑中繁雄さんについて、インターネットの「コトバンク」は、次のように、紹介しています。

畑中 繁雄 ハタナカ シゲオ 昭和期の出版評論家
生年 明治41(1908)年8月1日 没年(没年不詳)
出生地 東京 学歴〔年〕 早稲田大学文学部卒 経歴 中央公論社入社。「中央公論」の編集長となったが昭和19年の横浜事件で投獄。戦後復職し、20世紀研究所、世界評論社を経て日本評論社入社。編集局長と「経済評論」編集長を兼務した。言論弾圧史に詳しい。主著に「覚書昭和出版弾圧史」「日本ファシズムの言論弾圧」など。

 この「没年不詳」が気になったので、横浜事件国家賠償請求訴訟の原告である木村まきさんに伺いましたところ、一九九八年一二月二二日に、九〇歳で亡くなられていたことなどを教えていただきました。畑中さんは、この年の八月一四日に、横浜事件第三次請求を提訴されていました。
 また、同じ年の七月一四日には、横浜事件の再審請求を、一貫して牽引されてきた木村亨さん(一九一五年生まれ、元中央公論社編集者)も亡くなられています。

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